思いで

その7


  私達は、花巻から盛岡行きの列車に乗り継いだ。私は、その車中で時刻表を開き、青森までの行程を考えた。しかし、考えると言っても素直に東北本線を北上するか、好摩から陸中花輪を経て大館に抜けるかの二つしか選択肢が無かった。結局私の性格上、後者を選んでいた。私は、列車が盛岡の街に入る頃、みゆきにこの計画を話した。彼女は、二つ返事でその計画に同意した。
   盛岡に着くと、雪はだいぶ無くなっていた。だが、北の方から到着した列車の車体には、雪や氷りがへばりついていた。北の空を見ると、鉛色の雲の塊が山に沿って掛かっていた。私達は上着の襟を立てると、冷たい風を避ける様に足早に乗り継ぎ列車の待つホームに向かった。
   四番線には、既に弘前行きの快速列車が止まっていた。プラットホームには、学生や勤め人の他に、大きな鞄やカメラの三脚を手に持った人達で混雑していた。向かいのホームには、この列車より一足早く盛岡を出発する東北本線経由青森行きの特急列車が停車していたが、彼等は、それに見向きもせず、この快速列車に乗り込んだ。私は、この人達も連絡船に乗るのだろうと直感した。
  車内は、ほぼ満席の状態だった。列車の暖房と人が発する体温でかなり暑かった。辺りは、地元の人達の訛りと、旅行者達の言葉が不調和に交錯していた。私達は、近くの駅で降りそうな学生の座った席を見付けて、腰掛けた。
  その学生達は、いかにも自分一人が世の中の不幸を背負い込んだ様に、前かがみになり、ぼそぼそと喋っていた。対して、隣のボックスに座った旅人達は、私達が聞き慣れない方言を堂々と披露し、時々大声で笑っていた。車内は、見えない線で仕切られたかのごとく、地元の人達と旅行者達の集団とがほぼきっちりと分かれていた。私は、陰気すぎる東北人と無遠慮な大声で場違いな方言を喋る旅行者達が作り出す異様な雰囲気に不快感を抱いていた。
   私達の座った座席の人達が、皆黙っているものだから、自然と隣のボックスの人達の会話が耳に入ってきた。その中で興味深い話を耳にした。昨晩秋田沖に有った低気圧が発達しながら北東の方に向かっており、その所為で青森方面を中心に、日本海側はかなりの大雪が降っていると言う話である。私は、あの辺りの豪雪の事情を知っていた。隣に止まっていた雪で真っ白になった列車を見た時、この列車も相当遅れると覚悟した。
  それでも、列車は、盛岡を定刻に出発した。地元の人達は、列車が止まる度に姿を消して行った。そして、好摩から花輪線に折れて岩手松尾に止まる頃には、乗客の顔ぶれは殆ど旅行者だけになっていた。その頃には、辺りも真っ暗になり、列車の橙色の明かりが、何処までも広がっている雪原の銀幕にぼんやりと写っていた。
  列車は、険しく曲がりくねった山道をエンジンを唸らせながら登って行った。けれども、轟音を上げている割には、確実に失速して行くのが分かった。列車が止まる毎に停車時間を延ばしていった。車内放送は、停車する度に列車の遅れを伝えた。すれ違う列車の到着時刻も随分遅れていた。花輪線は、単線なので一本の列車が遅れると全体のダイヤが狂って行った。何時の間にか本降りになっていた雪が、列車の行く手を阻んでいた。
   私は、新聞やテレビで伝えられた週末の青森駅の様子を思い出した。数え切れない多くの人々が、船を待つ為に連絡船桟橋に溢れかえっていた。廃止になる前に連絡船に乗っておこうと言う人達が、全国から青森まで押し寄せて来たのである。昨年の夏も混んではいた。だが、乗船する為に整理券まで出すほどではなかった。並びはしたが、それ程苦労もせずに船に乗れた記憶が有った。私は、今日は平日で、しかも去年の夏と同じ列車に乗ったのだから多分船にも乗れるだろうと高をくくっていた。しかし、この雪で列車の遅れを告げる車内放送と、この列車に乗っている大勢の乗客達を見た時、私の考えが余りに安易だった事に気付いた。そして、別ルートで青森へ向かっている連絡船乗船目的の人達が、大勢いる事を予想すると更に焦りが出てきた。青森駅桟橋待合室で、大勢の旅人達がとてつもない乗船列の輪を作っている光景が目に浮かんできた。もし、私が乗ろうとしている零時三十分発の連絡船に乗り損ねると、次の船が朝の五時二十五分まで無かった。最悪の場合、私達は、あの薄暗い待合室で一晩寒さに震えていなければならなかった。私一人なら、どうにでもなるが、みゆきにはとても耐えられないだろうと思った。それに申し訳なく思った。
  私は、頭を上げてみゆきを見た。彼女は、何も見えない真っ暗な窓から何かを見詰めていた。その瞳は、遠野で見た光と同じだった。私は、声を掛けるのを躊躇った。けれども、今の状況を説明しなければならないと言う義務感みたいなものが、重い口を開かせた。
「この列車が、これ以上遅れたら、予定に考えていた今晩の連絡船、乗れないかも知れません」
「えっ?」
  みゆきが我に返るまで、数秒の時間を要した。私は、その空白の時間がとても長く感じた。
「そうですか……、仕方が無いですね。それだけは……」
  彼女は、そう返事をすると、深いため息を一つ吐き、再び外の暗闇に視線を移してしまった。私は、それ以上何も言えなくなった。
   窓の外は、大きな牡丹雪が激しく渦巻いていた。それが、ガラスに点々とくっついて、それを軸に窓全体を覆い始めた。列車は、老いたエンジンを唸らせながら、三十分遅れで十和田南へ滑り込んだ。大幅に遅れているが、この駅で十分停車する事を車内放送が伝えた。乗客達は、背伸びをしながら、デッキの方に歩いて行った。
「気晴らしに、外に出てみますか」
  私は、みゆきを誘ってみた。
「少し暑いですね。ここは」
  みゆきは、そう答えると、上着を手にして席を立った。
  外は、一面銀世界だった。駅構内のナトリウム灯の黄色い光が、雪で出来た高い壁と、未だ止む兆しの無い大きな牡丹雪を照らし出していた。向こうの方で、駅員がスコップで雪と格闘していた。
  外に出たついでに、時間も時間だったので晩飯代わりの食べ物と飲み物を駅舎の売店まで買いに行った。屋根のかかっていない所をほんの数メートル歩いただけで、全身雪まみれになった。
「随分降りますね」
  みゆきは、今通った改札口を覗きながら言った。
「止みそうになさそうですね、この分だと」
「あと、どの位で青森に着くのですか」
  みゆきの問いに、私は青ざめた。
「八時、九時、十時……」
  指を折っている私の姿を見て、みゆきは、小さく笑い出した。私は、折られて行く自分の指を見て答えた。
「このまま行けば、多分、十一時には着くと思います。尤も弘前で列車がまっててくれたらの話ですが」
「待っててくれたらって、青森まで行けないかもしれないのですか?」
「この雪ですから、どうなるかは、僕にも……」
  私は、無責任な駅員にでもなったかの様に首を傾げた。
「弘前に旅館って有るかしら?」
「さぁ、多分駅前には何かかにかは有るでしょうけど……。ごめんなさい。素直に東北本線で下っていればこんな事にはならなかった……」
「あなたは、悪くないわ。行き当たりばったりの旅も良いものですよ」
  彼女の優しい声を聞いた時、私は、安堵のあまり一つ大きくうなずいた。
「何、食べる? お昼はサンドイッチだったから、おにぎりにしたいわね」
  みゆきは、そう言うとキヨスクの前に置かれたワゴンの中から食べ物を選んだ。そしてキヨクスのおばさんと二言三言、言葉を交わして食べ物を受け取った。私は、みゆきにお金を渡そうとしたが、彼女は首を横に振りそれを受け取らず、彼女の財布からキヨスクのおばさんに代金を渡していた。彼女は、お釣の小銭を受け取ると、売店の横にある公衆電話を見ていた。
「お客さん、お金崩すかい?」
  みゆきの様子を見ていた、キヨスクのおばさんが、問いかけた。みゆきは、一寸息を止めた。雪で濡れた前髪の奥に表情を曇らせるのが分かった。しかし、
「いいえ、大丈夫です。さあ、戻りますか」
  と、明るい声で答えた。そして、私の方に振り向くと、微笑みながら私と歩き始めた。
   列車にたどり着く頃には、二人とも頭の先からつま先まで湿った雪がこびり付いていた。二人は、列車に乗り込む前にその雪をほろい始めた。みゆきは、荷物を持っていたので、片手で雪を落としていた。私は、両手で自分の体についた雪をばさばさとほろい落とした。そして、彼女の雪も払って上げようと何の気無しに肩へ手をかけた。するとその瞬間、みゆきは、ぴくりと体を痙攣させて、全身の動きを止めた。私が驚いてその手を引っ込めようとした時、みゆきは、表情を失い、空ろな瞳で私を見ていた。
「どうして……、どうして……」
  みゆきは、同じ言葉を二度繰り返した。私は、彼女に魔法の杖でも振りかざされたかのごとく、身動きが取れなくなっていた。
「どうして……、優しく出来るの? ……どうして……」
  彼女は、両手で顔を覆ってしまった。みゆきの心の内に何が起こっているのか分からなかった私は、黙ってその姿を眺めているより仕方が無かった。二人の視界を、無数の大きな釦雪が吹き抜けていった。
「……ごめんなさい。……私、降りるわ。ここで……」
  その言葉を聞いた時、私は咄嗟にみゆきの腕をつかんだ。彼女の言った言葉の意味も良く分からないまま。みゆきは、強い力で私を振り切ろうとした。しかし、発車ベルが鳴り始めると、私は、石の様に固まっていた彼女の体を列車のデッキに引きずり込んだ。私は、何時まで経っても、次の言葉が思い付かなかった。不用意な言葉で、みゆきの神経をこれ以上高ぶらせてしまう事を恐れていた。彼女がこの列車から降りてしまわぬように、腕をつかんでいるだけで精一杯だった。列車のドアが閉まると、みゆきの力が抜けて行くのが分かった。二人は、次の言葉の口火を切れないまま、デッキに立ち竦んでいた。列車は、小さな衝撃とともにのろのろと走り始めていた。
  デッキの天井に小さな白熱灯がぽつんと宙に浮いていた。ここまで暖房が来ていないのか、とても寒かった。みゆきは、ドアにもたれ掛かり、長い髪の毛が顔を覆い隠すように被っていた。その黒くて長い髪の毛は、まるで外の世界を拒んでいる様にも見えた。私は、緊張の余り思わず肩で大きなため息を一つ吐いた。すると、みゆきが、
「これから、どうするつもりですか?」
  と、私に問い掛けてきた。その言葉は、単調で、とても冷たかった。けれども、至って静かだった。私は、その言葉に押し潰されそうになったが、
「……このまま行くつもりです」
  と、答えて直ぐに、
「君と一緒に」
  と、付け加えた。
「君は、どうするつもりですか?」
  私は、彼女の答えを予想出来ないまま、問い返した。
「私は……」
  みゆきは、そこで言葉を止めた。そして、真摯な瞳を私に向けた。
「一緒に行きます。……あなたが、私のことを許してくれるのなら」
  私は、彼女が口にした「許す」と言う言葉の意味が、分からなかった。
「許すって、別に……」
私は口篭もった。けれども、何か明確な答えを彼女の前に示さなければならないと思った。
「行ける所まで行きましょう。……とにかく行きましょう」
  私の答えにみゆきは、長い髪の毛の向こうに、寂しそうな薄い笑みを浮かべた。そして、大きくうな垂れると、小さく首を縦に動かした。
「だから、降りるなんて言わないで下さい。今は……」
  私は、確かめるようにそう言った。
「はい……」
  みゆきの答えに、私は、安堵の溜息を吐いた。全身の緊張も一気に解けていった。気持ちが落ち着くと、彼女の腕をまだ掴まえていた事に気付いた。
「ごめんね、痛くなかった?」
  何気なくみゆきの手首に目を向けた瞬間、私は、再び全身の筋肉が硬直した。手首の白い肌の上には、紫色の一筋の傷痕が鮮やかに引かれていた。みゆきは、私の手を振り解いた。
「間違って……、切ってしまったの。間違ってね、……」
  みゆきは、そう呟くと直ぐにその傷痕を袖で隠した。私は、その傷痕の事情をそれ以上問いただせなかった。またそれ以上、聞く資格も無いとも思った。しかし、みゆきの白い肌にくっきりと焼き付くように残ったその傷痕は、何時までも脳裏から離れなかった。





つづく




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