思いで

その8


  列車は、大館を折れて奥羽本線に入ると、急に速度を上げた。しかし、遅れを取り戻す事は出来ず、結局定刻の約三十分遅れを保つ形で弘前に到着しようとしていた。車内放送は、弘前からの乗り継ぎ列車の案内を始めた。どの列車も遅れている様で、私達の乗ろうとしていた青森行きの各駅停車も、この列車を待って接続する事を案内していた。
「今晩中に青森に着けそうですね」
  みゆきは、私の顔を覗き込むと、苦笑いを浮かべながら言った。弘前で足止めを食らう最悪の事態を避けられた。
「やばかったなぁ」
  私は、ほっと胸をなで下ろしながら時刻表を取り出し、青森への到着時刻を予想した。
「各駅停車に乗りますよね」
  みゆきは、腕時計を見ながらそう訊ねた。
「ええ、その積もりです」
  私は、時刻表の小さな数字を追いながらそう答えた。
「その前に出る特急に乗ってしまいますか?」
  私は、みゆきに聞いてみた。
「いえ……、あなたの言った列車で行きましょう」
  みゆきは、近づいて来る弘前駅のプラットホームを見つめながら答えた。
「分かりました、そうしましょう」
  私は、席を立ち、網棚の荷物を降ろし始めた。車内放送は、終わりに列車の遅れを丁寧に断っていた。
  弘前の駅も、大粒の牡丹雪が深々と降り続いていた。空からぼたぼたと落ちて来る牡丹雪の所為か、列車のエンジンの音も、乗客達の足音も雪に吸い込まれて行く様に静かだった。
  青森行きの各駅停車は、遅れている所為か、かなりの人が乗っていた。それでも、誰もいないクロスシートを見つけ出した私達は、網棚にまた荷物を上げ始めた。すると、みゆきが何かを言いた気なそぶりを見せた。私は、そわそわしているみゆきに気付かない振りをして黙って荷物を上げ続けた。
「一寸……、一寸、外に出てきますね」
  みゆきは、私から視線を逸らしながらそう言った。私が、何と答えるか考えていると、みゆきは言葉を続けた。
「直ぐに戻ってきますから」
  彼女の言葉を聞いても、私はわざと考えている様な素振りを見せて、何とも答えなかった。
「心配なの?」
  みゆきは、私の顔色を伺いながらそう聞いた。
「……一寸、心配」
  私がそう答えると、二人は顔を見合わせ微笑した。するとみゆきは、上着から切符と財布を取りだして、私に手渡した。
「なに?」
「人質」
  真顔で答えたみゆきの顔を見て、私は、思わず笑い出した。
「こんな事しなくても良いですよ。でも、この列車を追い越すはずの特急列車が来たら、急いで戻って来て下さいね。直ぐには来ないと思いますが」
「分かりました」
  私の注意に、みゆきは、明るい声で答えた。そして、私の手から切符と財布を受け取ると、ドアの方に歩き始めた。けれども、思い出した様に振り返った。そして、何かを持つ様に手を口元へ持っていった。その仕草を見て私は、十和田南で買った食べ物の入った袋を指差した。すると彼女は、一つ肯くと再びドアの方へ小走りに行った。そして列車を降りると、真っ直ぐ跨線橋の方へ走って行った。私は、座席に腰を下ろすと、みゆきの後ろ姿を眺めていた。
  問質す勇気も無かった癖に、みゆきの外出の目的が気になっていた。座っていても全然落ち着かなかった。そのうち胸騒ぎを覚えた私は、ホームに降りてみた。プラットホームを照らしている蛍光燈の白い光が、向こうの方まで伸びているのを見た時、私は、ホームの端目掛けて無闇に歩き始めた。そして端の暗闇までたどり着いた時、人気の無い駅の中に甲高い拡声器の声が響き渡った。それは、遅れている特急列車を発車させてから、各駅停車を発車させるという内容だった。私は、青森駅の様子を想像した。そして腕時計に目をやり、大きなため息を吐いた。
  私は、何の目的も無く反対の端まで歩いていた。すると何処からともなく、みゆきの声が微かに聞こえて来た。彼女は、しきりに、
「あなたの所為じゃない」
  と訴えていた。私は、辺りを見回したが、みゆきの姿を見つけられなかった。弘前に誰か知り合いでもいるのかと考えたが、それにしては相手の声が聞こえてこなかった。しかし、シャッターを閉ざした売店の脇に公衆電話を見つけた時、何となく察しが付いた。私は、黙って煙草に火をつけた。辺りは至って静かだったので、みゆきの声だけが私の耳に入って来た。
「……心配かけてごめんなさい。黙って行ったりして。……あなたは、悪くないわ。こうなってしまったのは、私が弱かったから……、ええ……、心の整理をしたいの……。うん……、でも、もう……、駄目かも知れない……」
  みゆきの声が、小さくなり、段々震えて行くのが分かった。私は、余計なことを聞いてしまったと深く後悔した。すぐにもと来た所を歩き始めた。けれども、彼女が哀しげに口にした、「駄目かも知れない」の一言が脳裏に焼き付いてしまい、妙な胸騒ぎを覚えていた。その場から離れて聞こえなくなったはずのみゆきの声が、頭の中で響き渡っていた。幾ら歩いても、それを振り払えなかった。しかし、その声も、遅れて滑り込んで来た特急列車の轟音と、構内放送の甲高い声で掻き消された。
  列車に戻り、煙草を一本吸い終わる頃、みゆきが私の前の座席に腰を下ろした。私は、まともにみゆきの顔を見ることが出来なかった。仕方が無いので、また煙草に火をつけた。
「吸い過ぎは、体に良くないですよ」
  みゆきの声は、意外にも沈んでいなかった。この列車を出て行く時と、大して変わらなかった。私は、紫色の煙の向こうに座っているみゆきの姿を恐る恐る伺った。すると、彼女は私の方を見て微笑んでいた。私は、その表情にほっとしたと同時に、拍子抜けした。
「また、連絡船の事を考えていたんでしょう」
「どうしてそう思うのですか?」
「どうしてって……、難しい顔をしているから……。違いますか?」
「そういう風に見えますかね」
  私は、ニヤニヤしながら、そう答えた。腹の中では、みゆきに自分の心の動揺を読み取られはしないかと、冷や冷やしていた。けれども、みゆきは私の心の内に気付いていない様子だった。安心して、無意識の内に頬の肉が緩んだだけだった。
  みゆきは、上着のポケットから、缶コーヒーを取り出し私に手渡した。
「飲み物は、十和田南で買ったのがまだあるよ」
  私がそう注意すると、みゆきは唇を尖らせた。
「コーヒーが呑みたかったのよ。いらないなら私が飲むわよ」
「随分、意地悪な事を言うんだね。折角だから、有り難く頂きますわ」
  みゆきは、窓枠に置いていた缶コーヒーを取り上げる素振りを見せた。だが、私は、直ぐに缶を取り上げると蓋を開けて一気に呑み干した。みゆきは、私の様子を呆れ顔で見ていたが、私が思いっきり舌を出して缶を窓枠に置くと笑い出した。
「この列車も、随分暑いですね」
  みゆきは、そう言うと、上着を壁にかけ、着ていたセーターも脱いだ。そして十和田南で買った食べ物を広げると、握り飯を一つ私に手渡した。
「これ、早く食べないと、悪くなりますね」
「青森に着いたら、多分、こんな風に食事も出来なくなるだろうから、君も食べておいた方が良いですよ」
「ずっと座りっぱなしだから、食欲が沸きませんね」
  遅い夕食であったが、私も食欲がそれほど無かった。けれども、みゆきが言った理由とは違っていた。それは、みゆきの行動が原因だった。みゆきの、存在が原因だった。それらが頭の中でぐるぐると巡っていて、余計な空気を唾と一緒に飲み込んだ時の様に、胸の何処かでつっかえていた。しかし、私はそれをも飲み込むように握り飯を頬張った。
「ここで食い損ねたら、函館までまともに食べれないよ。さぁ食った食った」
  私は、薄っぺらい小さなプラスチックの入れ物に残っていた握り飯をみゆきに進めた。みゆきは、躊躇いながらも一つ取った。
「それ、オカカだよ。僕のは、梅だったから」
  私の予想に、みゆきは、握り飯を二つに割っていた。そして微笑みを浮かべて、二つに割った握り飯を私の前に見せた。
「凄い、良く分かりましたね」
「駅で売っているお結びなんてのは、大抵そんなものですよ」
「知らなかった、私。売店で弁当を買うのは、初めてだから。半分食べませんか」
私は、みゆきから差し出された握り飯の半分を受け取った。
「一人旅は、初めてなんだ」
「こうして、各駅停車の旅をするのは初めてですよ。仙台から実家までは、良く行き来しますけど、鉄道を使うなら新幹線ですからね」
「へぇ。実家って、どちらなんですか?」
「川崎です」
「川崎って、秋保の奥の方の川崎町?」
  私の質問に、みゆきは、笑った。
「神奈川県の川崎市です」
  彼女の答えを聞いて、自分がとんちんかんな事を言っていた事に気付いた私は、照れを隠す様に煙草に火をつけた。
「行った事無いなぁ、そっちの方には。もっぱら北の方ばっかりうろついてるから。川崎にはお爺さんかお婆さんでも居るんですか?」
「いえ、母が居ます」
「母さん、心配してるんでない?奇麗な娘さんを一人で旅をさせてると」
  私の言葉に、彼女は一寸表情を曇らせた。けれども、今までの様にそのまま崩れて行くこともなく、直ぐに平静に答えた。
「……さっき電話して来ました。母に」
  みゆきの言葉が、嘘だと分かっていた。だが、私は、みゆきに調子を合わせるように相槌を打った。
「そうですか、心配していませんでしたか?」
「ええ、大丈夫でした。……あなたは、家へ連絡していないのですか?」
「馬鹿息子が、何処をうろついてようと、心配なんかしちゃいませんよ……。俺を心配してくれる人間なんて、この世の中にいるんだろうか……」
  私は、独り言の様に呟くと、灰皿に煙草を揉み消した。すると、みゆきが、諭す様にこう口を開いた。
「あなた、私の事心配してくれたでしょ?」
「ええ、……」
「私は、あなたの事を心配しています……。あなたが私の事を心配してくれた様に」
私は、みゆきの優しい言葉に深いため息を吐いた。そして、
「ありがとうございます。」
  と心から礼を言った。
  列車は、暗黒の津軽平野をぬうように、北へ向かって走り続けていた。





つづく





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