思いで


その4

  ……梅雨の霧雨が降り続いたある日、何かの用事で事務室に足を運んだ時、不意に順子の姿を見掛けた。何故こんな所に彼女がいるのだろうと、自分の目を疑った。同時に、今まで抱いた事のない胸騒ぎが、沸沸と湧いてきた。あまりに気になって、ある先生に聞いてみた。話によると、彼女は、臨時の事務職員になっていた。その事を知った時、私は、順子に対して、まゆみへの思い以上の胸の高まりを覚えた。無性に彼女に会いたいと言う衝動に駆られた自分に動揺した。私が、順子に対してこの様な感情を抱いたのは初めてだった。
  最初は、自分の心を疑った。けれども、その内この気持ちは、ごく自然な事なのだと思い始めた。今までして来た、彼女に対して取ってきた自分の行動を直接会って彼女に謝りたかった。彼女も、許しとくれると信じて疑わなかった。私は、昔順子がしていた様に、彼女の下駄箱に会いたい旨を書いた手紙を入れた。
  二、三日もすると、私の下駄箱に一枚の紙切れが入っていた。それは久しぶりの順子からの手紙だった。内容は、ごく簡単な物だった。今週土曜日の夜七時、仙台駅のステンドグラス前で待っていると言う文言が、見慣れた彼女の文字で記されていた。私は、それを読み終えると、当たり前の様にポケットに突っ込んだ。
  指定された待ち合わせ場所に、時間の一寸前に行くと、既に彼女がそこにいた。私は、以前していた様に簡単な挨拶をした。すると、彼女は、今まで私の前で見せた事の無い様な素っ気無く、冷静な態度を見せた。その時、私は、久しぶりに会ってはにかんでいるのだろうと大して気にも留めていなかった。けれども、喫茶店で他愛も無い話を始めた時も、彼女の態度が会った時と変わらなかった。それでも私は、少し機嫌が悪いのだろう位にしか思っていなかった。
  彼女の態度の意味が、別れ際になってやっと分かった。本題を切り出せないまま時間だけが悪戯に過ぎて行った。夜も大分遅くなってしまったので、私は、こう切り出した。
「また会えるかな?」
  すると、彼女は視線を落として、こう答えた。
「……もう会わない方が良いかも知れない。お互いの為に」
  私は、その言葉の意味を理解出来なかった。耳の奥底から甲高い耳鳴りが聞こえて来た。まゆみの声は聞こえていた。けれども、受け入れたくなかった。心の中で叫び声を上げていた。後頭部を重たい鈍器で突然殴られた様な衝撃が走った。ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
  冷静になった時、私は、自分を唯一愛してくれた人を失った事に気付いた。その事に気付いた時、私は、高いビルの屋上の端から下界を覗き込んだ人の様にぞっと青ざめた。私は、卑怯だった。私は、長い間、自分の無責任な行動によって順子を傷付けていたのだ。彼女は、私に精一杯の愛情を注いでくれていたのに。それなのに、私は、自分の都合の良いように順子を振り回していただけだった。私に対する想いを利用していただけだった。彼女の純粋な心を、私は土足で踏みにじっていたのだ。
  私は、順子に対して酷い罪悪感を抱いていた。
「俺は、まゆみにされた事をそのまま、いやそれ以上酷い事を順子にしてしまったのだ」
  そう言う思いが、私の精神を再び狂わせていた。同時に以前よりも増して、酷い自殺願望に襲われた。今まで、順子に対して取ってきた自分の態度が、自分自身で許せなくなっていた。その内、自分自身の存在自体が許せなくなってしまった。
  自分自身に十字架を背負ってしまった私は、死に場所を探す為に北へと旅立った。昨年の夏の事だった。けれども、私は、再び生きてこの街の土を踏んでしまった。どうやって家に戻って来たのか、良く覚えていなかった。気が付くと、薄暗い自分の部屋の真ん中に座り込んでいた。ただ、道中、いろんな人の言葉や好意に助けられたのだけは覚えていた。
  戻って来て暫くは、平常心を保っていた。けれども、夏休みが終わる頃になると、少しずつ精神がおかしくなって行く自分に気付いた。
  学校では、順子と顔を合わせる機会が何度か有った。彼女は,私と顔を合わせる度、表情を曇らせた。そんな彼女の姿を見る度に、自分はこの世の中に存在してはいけない人間なのだと強く感じた。何故、自分は北海道の知らない土地で死ねなかったのだろうと後悔した。しかし、死にきれなかったのだから今更どうにもならないのだと自分に言い聞かせ、順子の事を忘れよう努めた。しかし、そう思えば思うほど、順子に対する思いだけがつのって行くだけだった。
  その時の私は、順子との「別れ」と言う事実を認識したくなかった。彼女の口から直接、「さようなら」と言う言葉を聞くまでは、復縁出来る可能性が、たとえ一パーセントの望みしか無いにしても、その確立に彼女に対する自分も思いの全てを託していたかった。だがその反面、彼女から「さようなら」と言う言葉を引き出して、自分自身にけりを付けたいとも考えていた。
    直接彼女と会って、それを確かめる機会を失ってしまった私は、彼女に手紙を書いた。詳しい中身は忘れてしまったが、懴悔の言葉を延々と書き連ね、唯一自分を愛してくれた人の為に、その時の自分の気持ちを素直に綴った。そして、文末には、自分の気持ちに区切りを付ける為に、「さようなら」と言う文字で締めくくった。書き上げてから、出すべきか躊躇したが、心の隙を見てポストに押し込んだ。
  どうせ返事なんか来ないだろうと思ってい矢先、手紙を出してから丁度一週間後、私の手元に一通の手紙が舞い込んできた。その封筒の裏には、彼女の名前が丁寧に書き記されていた。私は、そのまま封を切らないで捨ててしまおうかとも考えた。けれども、私から彼女に、「さようなら」と言う言葉を投げかけて、彼女の口から「さようなら」と言う言葉を引き出したかったはずなのに、読まないで捨ててしまったら、彼女に対して失礼だと思った。私は、思い切って封を切った。
  封筒の中には、二つ折りに畳まれた一枚の便箋が入っていた。内容は分かっている積もりだった。しかし、直ぐにそれを開けなかった。それを開く決心が付いたのは、封を切って二日目の夕方だった。白い紙には、彼女の文字が丁寧に並んでいた。私は、今まで目に着いていた鱗を一枚一枚削ぎ落とす様に一つ一つ文字を追った。
「  お手紙有り難う。随分悩んだと思いますが、打ち明けてくれて有り難う。
  返事、どうしようかと思ったのですが、出さない事には、あなたを苦しめると思い、出す事にしました。
  あなたの事を嫌いと言えば嘘になるでしょう。でも、あの手紙がせめて、一年前にもらえたなら、私も素直に喜ぶ事が出来たと思います。今の立場上、精神上、あなたと付き合う事はむずかしいのです。去年のように生徒同士じゃないし……。あまりこのような事は、言いたくないのですが。
  あと、私には好きな人がいます。その人が誰であるかは、あなたは知らないと思います。私にも良く分かりません。前に言ったA高の人なのか、別の人なのか……、その人があなたより大切なのか……。だから、そのようなあやふやな気持ちであなたと付き合う事は、失礼であると思います。
  それにあなたも、もう二度と会わないと思っていた私と会うようになったから、懐かしく思っているだけなのかもしれません。
  唯一愛してくれた人と言いますが、他にもあなたが気付いていないだけで、あなたを思っている人もいるかも知れません。
  受験の事とかで相談に乗ったりとか、そういう間柄ならなれると思いますよ。
  受験勉強、頑張って下さい。

さようなら」
私は、一気に読み終えると元のように便箋を綴じ、封筒へ戻した。俯くと、滲んで来た涙が、後から後から落ちてきた。
  その白い紙の上には,私に対する恨みや罵声等の文字が延々と連ねられているものとばかり思っていた。けれども、その言葉は、一語も見当たらなかった。「さようなら」と言う文字が私に対する最後の優しさだったのだろうと、私は感じた。
  同じ過ちを繰り返していた事に気付いた私は、自分自身を取り戻す為に北へ旅立とうと決心した。今度は、何もかも純白に戻す為に……。
  ……とても長い夢だった。もう、忘れた積もりでいたのに、旅に出る事を決めて以来、よく二人の夢に魘された。心の何処かで、まだ拘っているのかと、自分の心の中を探ってみた。
  私が夢から覚めた時、向かいに座っていたみゆきが、心配そうな顔で私を見ていた。
「大丈夫ですか?顔色が真っ青だけど……」
  彼女は、白いハンカチを差し出した。額に触れると、脂汗でじっとりと濡れていた。心臓の鼓動が、自分でも聞こえるくらい高鳴っていた。私は、「ありがとう」と礼を言ってそのハンカチを受け取った。
「悪い夢でも見たのですか?ずうっと魘されていましたよ」
「いいえ、大丈夫です。気にしないで下さい」
  私は、生暖かい唾を乾いた喉へ無理矢理押し込めながら言った。今、見ていた夢の事など、彼女の前で明かす必要も無いと思った。誰にも明かしたくない、自分の過去なのだから。私は、平常心を取り戻そうと煙草に火を付けた。けれども、煙を喉に詰まらせて咽び返った。その夢の反動の所為で、そわそわしていた。その様子を見た彼女は、まだ心配そうに私を見ていた。
「朝も早かったし、一寸疲れているだけですから」
  私の言い訳に、彼女は、黙って微笑んでいた。





つづく





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