思いで

その5


  みゆきは、黙って外を見ていた。私は、外を見る振りをして、窓に映った彼女の姿を観察していた。真っ直ぐにそろった黒い髪の毛。列車の振動で頭が少しゆれる度に髪の毛の奥から時折覗く頬が、艶やかで透き通るような白い肌だった。窓に映った潤んだ瞳を見ているだけで、そこに吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えた。この人は、とても奇麗だった。
  けれども、この人には、常に暗い影が付きまとっていた。私の前で見せた寂しい微笑み。深く思い詰めた表情。彼女は、何か重々しい過去を背負っている事が容易に想像出来た。私は、何時の間にか、彼女の過去を詮索し始めていた。彼女の暗い影の部分をこの目で見てみたいと思い始めていた。しかし、同時に、このまま彼女の不可思議な魅力に飲み込まれて彼女の暗部から這い上がれなくなってしまうのではないかと不安になった。その反面、心の何処かでその不可思議な力に身を任せてしまってもいいとも思っていた。そうなったら、きっとこの人を好きになってしまうと予感した。そう感じた時、私は、その気持ちを逸らかそうと、時刻表の小さな数字を闇雲に追い始めた。
   列車は、気仙沼にほぼ定刻に滑り込んだ。私達は、ここから釜石行きの快速列車に乗り継ぐ事にした。十五分の待ち時間の間、ホームに佇んでいた。すると、海からの風がこの街独特の磯の匂いを運んで来て心地よかった。
   釜石行きの列車が入ってきても、ホームは閑散としていた。この駅から乗車した人も、古いコートを羽織った老人と、大きな篭や風呂敷に包んだダンボールを背負った行商のおばさんしかいなかった。
  空いた座席を見つけて荷物を落ち着けた頃、車掌が車内放送でこの列車は、三陸鉄道、南リアス線経由である事告げていた。それを聞いた時、私は、思い出した様に時刻表を開いて三陸鉄道の料金表を確かめた。この列車は、盛から私鉄の三陸鉄道を経由する為、その区間分の運賃が手持ちの切符と別料金だった。盛から釜石まで、八百円取られた。青森へ行く経路の選択肢を増やす為、この出費は、仕方が無いと思ったが、これからかかる費用とそれを差っ引いた財布の中身を頭の中で勘定すると結構良い値段だなと思っていた。
「この列車に乗ると別に八百円取られますけど、あなたは大丈夫ですか?」
  私の質問に、みゆきは、きょとんとしていた。直ぐに私は、自分が投げかけた質問の女々しさに気付いて顔を赤らめた。
「あなたは、この旅行に幾らの予算の積もりで来ましたか?」
  話題を摩り替えようとした積もりなのに同じ様な事を言っていた自分が、馬鹿に思えて更に顔を真っ赤にした。彼女は、私の様子を見ると口元に手を覆って笑っていた。
「そんなに持ってませんよ」
  彼女は、笑いながら指を二本立てた。
「二?二十万ですか?」
  私が驚いて聞き返すと、彼女は肯いた。
「それだけ有れば、十分ですよ。私なんか、切符代を入れて、八万ですからね。全財産持って来ても、こんなもんですから」
「それで間に合うものですか?」
  今度は、彼女が驚いて反問して来た。
「まあ、何とかなるでしょう。いざとなったら、野宿も覚悟してますよ」
  私が、冗談半分に答えると、彼女は、寂しい微笑みを浮かべて、こう言った。
「野宿ですか……、私も覚悟しておかなければいけませんね」
  私は野宿と言う言葉を打ち消そうと、頭の中で文章を組み立てていた。すると、彼女は、私が口を開く前にぽつりと呟いた。
「覚悟しないと……」
  そして、口元に寂しそうな微笑を浮かべた。私は、彼女の一言で何も言えなくなった。彼女が口にした「覚悟」と言う言葉の意味は、私の冗談を真に受けている様には見えず、全く別の意味の様な気がした。だから、「覚悟」と言う文字が何時までも頭の中で引っ掛かっていた。
  列車は、段々と山の中を進んで行った。この辺りの山肌に雪は見当たらなかったが、裸の木立が何本も並んでいて寒々とした灰色の大地が車窓を流れていた。この景色を見ていると、私の気持ちが更に薄暗くなって行った。その薄暗さの中で、彼女の言った言葉の意味や想像で描き出した彼女の過去の出来事が、頭の中でぐるぐると巡っていた。その内、胸の中が彼女の事で一杯になっていた。私は、その感情を軽薄だと思い込む事にした。自嘲する事で、精神のバランスを保とうと試みたのである。けれども自嘲すればするほど、彼女への思いが胸の中を占めていくのだった。そんな葛藤に苛まれて、会話の糸口すら失いかけていた。すると、彼女が突然口を開いた。
「この山も、何時かは、春を迎えるのですね……」
  私は、答える言葉が見つからなかった。続けて彼女は、呟いた。
「この木立も……、大地も……、何時かは、新しい命が生まれるのね……」
  外をじっと見詰めた彼女の瞳に、灰色の景色が映し出されていた。その瞳が、不意に私の方へ向けられた時、私は、じっと構えた。
「時が経てば、全てが終わり、そしてそこから新たに始まるって言うけど、果たしてそうかしら」
  彼女の言葉は、寂しかった。
「時間が全てを解決してくれる、ってやつですか。僕は……」
  私は、わざと言葉を詰まらせ、自分の意思表示を回避しようとした。彼女の意図している所が、はっきり分からなかったし、多分、何を言っても彼女の気持ちを満足させられないと思ったから。
「ごめんなさい。変な事を言ってしまって……」
  彼女は、大きなため息を吐いた。そして、瞳を一寸天に泳がせると再び窓に視線をやった。私は、その場から逃げ出してしまった事に後悔していた。彼女自身の口から彼女の過去の手がかりを聞き出せるチャンスだったのに、それを放棄してしまった自分の意気地の無さが情けなかった。けれども、私が想像していた以上の何かを突然目の前に並べられても、それを真摯に受け止める自信も無かった。
  もし、みゆきの過去や悩み事を全て受け止められたとしたら、私は彼女を振り向かせることが出来るのだろうか……。私はその時既に、彼女に対して恋愛感情が芽生え始めていた。このまま黙って彼女を見ているか、それとも一歩踏み込むべきなのか、悩み始めていた。列車は、私の思いを他所に、定められた鉄路の上をひたすら北上して行った。
  陸前高田を過ぎると、再び海が見えた。直線の防波堤の向こうに、曲がりくねった海岸線が沿う様にずっと向こうの方まで続いていた。何時の間にか、車内のあちこちで、聞き慣れない言葉のアクセントが耳に入る様になった。辺りを見回すと、気仙沼で乗った行商のおばさんを中心に、同業者のおばさん数人が弁当を広げていた。車内は、さながら行商列車の様になっていた。この人達の訛りを聞くと、やっと遠くへきたのだと言う気がした。列車は、大船渡を過ぎ、間もなく盛の駅へ滑り込もうとしていた。
  盛に着くと、駅員達が盛止まりの車両の切り離し作業を始めた。その為列車は、ここで十分停車した。私達は、ホームに降りた。彼女は、駅舎の売店で買い物をしていた。私は、煙草を吹かしながら、彼女のその姿を眺めていた。そして、さっき彼女が言った言葉の意味を考えていた。しかしその思考は、一歩前に出たと思ったら、また引っ込んでしまうと言う具合に、何時までも了見を得なかった。
「何を考えているのですか?」
  彼女は、そう声をかけると、袋から缶ジュースとサンドイッチを私に差し出した。私が、財布を出して小銭をあさり出すと、
「気にしないで。さあ、お昼にしましょう」
  と、言って笑った。彼女の笑顔を見た時、私は、この人と以前何処かで会った様な錯覚に陥っていた。
「僕は、前に君と何処かで会った様な気がするんですが……」
  私は、不確かな記憶を無意識の内に言葉にしていた。すると、彼女は、私から視線を逸らして小首を傾げた。
「そうかも知れませんね……」
「でも、はっきりきりとした事が思い出せないのです。何時、何処で会ったのか」
  私の心は、ずんずん一人歩きをしていた。後悔する余裕さえ与えてくれなかった。以前この人と出会った事は無いと分かっていた。けれども、その事を完全に否定する事が出来なかった。心の何処かで躊躇っていたのである。彼女は、口元に手をやり考え込んでいたが暫くするとこう答えた。
「多分、街の何処かですれ違ったのかも知れませんね。お互いに意識しないまま……」
  私は、彼女の答えに拍子抜けした。彼女が、私の言葉を完全に否定しなかったからかも知れない。
「それだけでしょうか」
  私は、不図、煮え切らない感情を言葉に漏らした。彼女は、私の不満そうな顔を見て、こう付け加えた。
「それでなければ、この世界以外で会ったのかも知れませんね」
「この世界以外って?」
「例えば、夢の中とか……」
  私は、その次の言葉を待っていた。しかし、彼女は、
「これは、汽車の中で食べましょう」
  と言ってサンドイッチのケースをビニール袋へ戻すと列車のドアの方へきびづを返した。私は、逸らかされた気がしたが、自分でも不確かな事を言っていたので、それ以上突き詰める言葉を見つけ出せず、話を切り上げざるを得なかった。
  列車は、再び三陸路を北へ向かって進んだ。幾つものトンネルを境に、海と山が交互に映し出された。私は、窓枠にもたれ掛かり、ずっと彼女の事を考えていた。
「どうしたのですか?さっきから、難しい顔をして」
  みゆきの声に、私は、一瞬体を硬直させた。すると、みゆきは私の顔を見ていた。
「いや、何でもないですよ」
  私は、いい加減な返事をすると、彼女から視線を逸らした。しかし、トンネルを通る度に真っ黒な窓越しに映し出される私の表情は、何か物足りなそう顔をしているのが分かった。私は、盛の駅で、みゆきに一体何を期待していたのか考えていた。彼女の言った、「夢の中で」と言う一言が、頭の中から離れなかった。だが、冷静に事が考えられる様になると、自分が考えていた事が恥ずかしくなった。私は、彼女に対する興味によって、妄想の世界をさ迷っていた。今度は、自分の言った言葉で、彼女を惑わせてしまっていないか不安になった。けれども、彼女に対する興味は、少しも薄れていなかった。その感情を説き伏せようとしたが、無駄だった。それに向かって、突っ走っていくだけだった。熱に犯された私は、走り始めた自分をどうにも止める事が出来なくなっていた。昔もそうだった。その感情に気付いた時には、既に手遅れだった。それを知っている癖に、私は、彼女への感情を止める事もせず、今一度、同じ過ちを自らの手で繰り返そうとしていた。
   車窓から、数本の高い煙突と大きな建物が見えてくると、車内放送は、釜石からの乗り継ぎ列車を案内していた。
「海にしますか?それとも、山にしますか?」
「えっ」
  彼女は、私の突然の問いかけに、一寸戸惑った。私の言った意味を、良く呑み込めていない様だった。
「宮古から、久慈に出て八戸に行くか、遠野に出て花巻に抜けるか……、どっちでも良いんですけどね」
「遠野、一度見たかったから、山にしましょう」
  彼女の意見で、次の列車が決った。




つづく



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