思いで

その6

  釜石線回りの花巻行き普通列車は、四分しか乗り継ぎ時間が無かった。私達は、釜石駅に着く前からデッキに立っていた。そして、ドアが開くと、向かいのホームに通じる地下道を一目散に駆け出した。息を切らせながら列車に駆け込むと、車内は意外と閑散としていた。
「田舎ですね。走らなくても十分座れましたね」
  私は、座席にどっと腰を下ろしながら言った。
「でも、ずうっと座って背中が痛かったから、丁度良い運動になりました」
  二人は、顔を見合わせて笑った。
  列車は、暫く釜石の街と平行して走っていたが、そこを抜けると真っ白で急な山道を上って行った。厚い雲の間から覗いた太陽の光が、残雪に照り返して眩しいくらいだった。その雪が列車の風に巻き上げられて、灰色の木立を吹きさらしていた。私は、雪とも氷ともつかない細かな結晶が大気を漂う光景を眺めていた。みゆきも、窓の外の様子をじっと見詰めていた。二人の間に時折交わされる会話も、何かぎこちなさを感じた。それでも私は、会話を伸ばそうと努力した。けれども、私が口下手なのと、例の妄想の所為で直ぐに途切れた。それに、彼女も多くを語ろうとしなかった。
   幾つも連なった真っ白な山を登り切り、長いトンネルを抜けると平地がひらけた。車内放送は、上り列車交換の為、遠野で六分停車する事を告げていた。
「降りてみませんか」
  列車が、ブレーキをかけ始めると、彼女が出し抜けに言った。私は、彼女に言われるまま席を立った。
  ホームに降りると、雪でしばれた大地の匂いが鼻の奥を刺激した。日の光は覗いていたが、風が肌を刺す様に冷たかった。けれども、列車の利き過ぎた暖房の所為で頭がくらくらしていたので丁度良い心地だった。
「気持ちが良いですね」
  彼女は、風で乱れた長い髪を繕いながらこちらを向いた。私は、黙って小さく笑った。すると彼女は、瞳を曇らせた。
「矢張り、迷惑ですか。私と行くのは……」
「どうしてそう思うのですか?」
  私は、わざと答えを逸らかした。彼女が、どう答えるか興味が有ったからだった。けれども、彼女は、何とも答えなかった。直ぐに私は、彼女に悪い事をしたと後悔した。
「嫌だったら、初めから断っていますよ。君みたいな奇麗な人と一緒に旅が出来るなんて思ってもいなかったし」
  私は、ぎこちない笑みを浮かべながらそう答えた。
「それより、僕みたいな人間と旅をするのは迷惑じゃないの?」
  私の問いに彼女は頭を横に振ると、小さく笑った。そして、山の方を仰ぐとこう言った。
「遠野は、一度ゆっくりと尋ねてみたい所ですね」
「冬より、夏の方が景色は良いですから、此処は」
  私が、そう呟くと、彼女は、振り返って私を見た。
「来た事が有るのですか?」
「去年の夏に、この列車で通っただけですけど」
「夏ですか」
「ええ。でもその時は、今とは別な気持ちだったので、景色を楽しむ余裕が無かったけど……」
  私は、余計なことを口にしていた。急いで言いかけた言葉を呑み込んだ。彼女が、それに気付いたのかどうか分からなかった。
「寂しい所ですね。本当に……」
  小さなため息と共に漏れ出た彼女の一言に、私は、胸が締め付けられた。
  下り列車が出発して間もなくすると、こちらのホームの発車ベルが鳴った。私達は、ゆっくりと過ぎ去って行く遠野の駅を眺めていた。列車が速度を上げるに連れてドアの小さな窓は、粉雪が舞い上がって真っ白になり、仕舞いには、外の視界を遮ってしまった。けれども、みゆきは、その場から動こうとしなかった。じっと真っ白な窓を見詰めていた。その大きな瞳は、瞬き一つしなかった。そして、彼女の瞼が段々膨んで行き、息遣いも浅くて早くなっているのに気付いた。私は、声をかけるタイミングを失っていた。彼女の様子を息を凝らして眺めているしかなかった。
「……私達の心も、この雪の様に純白だったら良かったのにね……」
  みゆきは、悲しそうに呟いた。瞳は、真っ白な窓の何処か一点を強く見詰めていた。
「……あの時、お互いに、汚れの無い純白な心を持っていたなら……、ここまで傷付け合わずに済んだでしょうに……」
  私は、この時、彼女の言葉が私に対して発せられた物ではない事にようやく気付いた。みゆきは、真っ白い窓の向こうに私の知らない誰かの姿を見ているに違いなかった。それに気付いた私は、みゆきを現実の世界に引き戻す手立てを考え始めた。けれども、考えるだけ何も出来なかった。頭が混乱して、彼女を幻覚の世界から引き戻す術が思いつかなかった。
「ああ……、もうすぐで……、もうすぐで、あなたの所へ行けるわ……」
  この言葉を耳にした時、このまま彼女をほおって置いたら、きっととんでもない事になると直感した。咄嗟に、彼女の肩に手を掛けて思いっきり引っ張った。だがその瞬間、彼女は、崩れる様に私の体へもたれ掛かってきた。すぐに、彼女の体を抱き起こした。
「君、しっかりして下さい」
「……」
  私の呼びかけに彼女は、言葉にならないうわ言を何度も繰り返していた。私は、狂った様に彼女の体を揺さ振った。そして、強い口調で彼女の名前を叫んだ。しかし、彼女の頬に一筋の涙が伝わって行くのを見た時、急に力を失ってしまった。
  私は、相当混乱していたが、彼女の体を座席まで運ぶ頭だけは持っていた。そして、銘々ばらばらに散らばっている頭の中を整理して、これからどうすれば良いのかを考え始めた。しかし、何時まで立っても、良い策が思い付かなかった。何故なら、あの時彼女が真っ白な窓の向こうに誰の姿を見ていたのかが気になりだしたからである。だが、出会って間もないこの人の事を私は何一つ知らなかった。幾ら考えても分からなかった。分からないからその人が誰なのか、彼女とどういう関係だったのか興味が有った。興味と言うよりも、その時既に嫉妬の念に変わっていた。その誰かを消し去る事で今の状況が打開出来る、そう思い始めていた。だが、「過去」と言う文字が私の頭を過ぎった時、私自身が経験した辛い過去を思い出していた。
  私は、自分の過去と彼女の過去とのを比較し始めた。苦しそうに横たわっている彼女の姿を目の前にすると、彼女の過去は、私が想像するよりもはるかに辛く悲しい物に思えた。私は、「嫉妬」と「過去」が心の中で気泡の様に浮いては消え、消えては浮いて来るのを感じていた。
  彼女の事情を全く知らない私は、そのまま彼女の姿を眺めているより他仕方が無かった。起こそうか、どうするか暫く迷っていると、彼女は、ゆっくりと瞼を開いた。
「大丈夫ですか」
  私は、恐る恐る声を掛けた。しかし、彼女は一寸も動かなかった。瞬き一つしなかった。ただ、白い天井の一点を見詰めているだけだった。
「君……、君」
  今度は、強い口調で問い掛けてみたが、何の反応も無かった。廃人の様に横たわっている彼女の姿に、私は、絶望の縁に立たされた気がした。彼女の亡骸を強く抱きしめて、そのまま泣き崩れてしまいそうだった。
「みゆきさん……」
  諦めた様にそう呟くと、彼女は、強い視線で私をじっと見詰めた。私は、息を呑んだ。
「……」
  みゆきは、口元を微かに動かしたが、言葉にならなかった。
「どうかしたのですか? 何が言いたいのですか?」
私が、強い口調で問い掛けると、彼女は、小さな声を出した。
「私……、何か言っていませんでしたか?」
「えっ?」
  私は、彼女の意志を汲み取る事が出来きず、答えに躊躇した。すると、彼女は、ゆっくりと起き上がった。
「もう大丈夫ですか」
  彼女は、真っ青な顔の上に寂しそうな微笑みを浮かべた。そして、微かな声でこう言った。
「……ごめんなさい。あなたには迷惑を掛けてしまって。……偶にこういう事が有るみたいなんです」
  彼女の瞳の奥には、外の雪の光が映し出されていた。その光は、彼女の心の内を映し出している様にも見えた。
「……もう壊れているかもしれない」
  ぽつりと呟いたその一言を聞いた時、私は、胸が重い物に押し潰される苦しみを感じた。言葉に詰まりながらも、半ば自分に言い聞かせるように答えた。
「……いや、疲れているだけでしょう」
「そうかも知れませんね。……私、何か言っていませんでしたか?」
  彼女は、衰弱し切った体から残った力を振り絞る様に私に詰問した。だが、私は、小さく首を横に振った。
「いいえ、何も……言っていませんでした」
  私は、さっき起こった出来事を彼女に正直に伝える勇気も度量も無かった。けれども、彼女は、幸いにして私の嘘に気付いていない様子だった。彼女は、ほっと息を吐き相づちを打つと窓に目を向けた。
  列車は、何時の間にか深い山道を抜け、広い雪原の中を走っていた。車内放送は、花巻からの乗り換え列車の案内を始めていた。





つづく



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