思いで

その3


  列車は、思ったよりも空いていて、私達は、直ぐに誰もいないクロスシートを見つけた。私は、彼女の鞄を荷物棚に上げた。彼女は、私の向かいに腰を下ろした。私は、再び時刻表を広げた。
「これから先の事は、僕が考える計画で良いのですか?」
「良いですよ。あなたに任せます」
  私の質問に彼女は即答した。
「暫く帰らない積もりだけど」
「私もその積もりですから」
  彼女は、迷い無くそう答えて微笑みを浮かべた。しかし、その微笑の内に、さっきの悲しい陰りが有る事を見過ごさなかった。けれども、私はそれに気付かない振りをした。
「所で僕は、まだあなたの名前を聞いていませんでしたね。尤も、僕も自己紹介がまだだったけど」
  私は、わざと話題を変えた。名前なんか、知らなければ知らないで良かった。だが、一緒に旅をしている内にどうせ何時かは分かる事なのだから、今の内に自己紹介ぐらいしておいても良かろうと思った。それ程、いい加減な気持ちで口にした質問だったにもかかわらず、私の問いかけに彼女の顔からさっきまでの微笑が消えた。その代わり、口元に寂しそうな表情を浮かべた。
「私は……、みゆきと言います」
  暫くして、彼女の小さな声が返ってきた。私は、彼女は自分の名前を明かすぐらいで、何故こんなにも表情を曇らせるのか不思議だった。
「みゆきさん、ですか。僕は、……」
  私が自分の名前を口にしようと息を吸った瞬間、彼女の言葉によってそれを遮られた。
「あなたは言わないで下さい。……気を悪くしないで。知りたくないのです、あなたの名前は……」
「どうして……」
  私がそう聞き返した時、彼女の瞳が涙に浮かんでいるのを見た。
「分かりました。別に名前を知らなくとも不都合はないでしょう。まあ、それも面白いでしょうね」
  私は、出来る限り彼女を宥めるように言った。彼女は、再び悲しい微笑みを私に見せると、「ごめんなさい」と、一言謝った。
  何故この人は、私の名前を知りたがらないのか理解出来なかった。しかし、彼女の語気に悪意はなかった。それよりも、悲しみが有った。その悲しみから、彼女に何か特別な事情が有る事も想像出来た。その事情から逃れる為、ただそれだけの純粋な気持ちで、私にそう頼んでいるに違いないと思った。だからそれ以上、彼女を問い質せなかった。けれども、他の気持ちでは、何か引っかかる物を覚えていた。意識の奥底では、彼女の不可解な行動にまだ拘っていた。
   列車が、前谷地を折れて志津川の辺りに差し掛かると、車窓に海岸線が現れた。海面は、幾つもの白い波が立ち、それが日の光に反射してきらきら光っていた。海面から海苔か何かを取る為か何かの養殖棚に使うためかに海に衝き立てられた竹竿が規則正しい間隔で何本も突き出ていた。その向こうには、曲がりくねった海岸線沿いにへばり付く様に小さな集落が建っていて、その直ぐ後ろには山が連なっていた。その麓の所々には、青々と木立が茂っていて、山の上に行くに従って白砂糖を塗した様に薄らと雪が被っていた。木立と大地と海と雪のコントラストを眺めていると、季節の変わり目を感じた。程よい日の光と、車内の暖房と、長閑な景色の所為で、私の思考能力は徐々に低下して行った。さっきまで頭の中をぐるぐると巡っていた考え事やら悩み事が、何時の間にか消えかかっていた。神経が安らぎ、とても気持ちが楽になっていた。久しぶりにこんな気持ちになれた気がした。私の意識は次第に遠のき、何時の間にか眠ってしまっていた。
  ……中学も三年になった春のある日、私は、ある女の人を好きになっていた。その年、クラスメイトになったまゆみは、話をしていて面白く知的で、すらりと伸びた細身の体がとても奇麗な人だった。初めは、こんな女性と付きあえたらなと、冗談半分で思っていた。しかし、冗談と思い込む事で、自分の気持ちを偽っていたのだ。それに気付いた時、まゆみへの想いは願望になっていた。すると、彼女に対する自分の気持ちが一気に走り始めた。彼女の事を思うだけで、鼓動が高ぶり、胸が張り裂けそうになっていた。
  それでも、自分の心を偽り続けた。こんなに奇麗で頭の良い人が、私なんかに振り向いてくれるとも思わなかった。また、振り向かせるだけの自信もなかった。そうやって自分を卑下する事で、心のバランスを微妙な所で保っていた。だが、彼女は私に近づいてきた。私が空き時間の暇つぶしに読んでいた推理小説を彼女が借りたがる様になったのである。色々と話している内に、心のバランスは崩れていった。
  彼女への思いを抑えきれなくなった私は、自分の思いを一通の手紙に認めた。そして、彼女に貸す文庫本に手紙を挟んで渡した。本は、二、三日して帰ってきた。その本の間に返事が挟まれていた。けれども内容は、
「受験も有るし、そんな中であなたと中途半端な気持ちで付き合うのは、あなたに対して失礼な事だと思います」
  と有った。だが、その中で、「良い友達でいて下さい」と書いてあったし、文末に、「返事、書けるなら書いていいよ」と言う文章が付け加えられていた。その当時の私は、最後の二言の意味を分別するだけの能力を持っていなかった。私は、何時までもその言葉の意味を考えていた。もう一度手紙を書いて、その言葉の意味を彼女に問い質してみようかとも考えた。けれども、目の前にぶら下がっていた、「受験」と言う文字を考えた時、私は、彼女の為にもその衝動を胸の内にしまっておこうと決心した。
  まゆみへの思いをしまい込み、学校では普段通り彼女と接していた。まゆみも、相変わらず私から本を借りていた。嬉しい反面、辛くもあった。友達として、接してくれるまゆみに複雑な心境を抱いていた。そして、悶々とした気持ちで夏を迎えた頃、とうとう自分の気持ちを抑制する事が出来なくなっていた。気が付くと、彼女への思いが以前にも増して募っていた。精神的に弱っていた私は、その切なさに蹴りを付けたいばかりに、どうしても黒白を決めたくなっていた。たとえ一パーセントの望みでも、それに縋っていたかった。彼女の本当の気持ちを確かめたくなっていた。けれども、学校では、そんな機会は丸でなかった。クラスで何時も顔を合わせているのだから、その機会は幾らでも有るはずであった。けれども、彼女を目の前にすると、何とも切り出せずにいた。手紙の件で話を切り出す勇気が無かったのである。どうしようかと懐手をしている内に、時間だけが悪戯に流れて行った。
  このままでは、どうにも埒が開かないと悟った秋のある日、私は、震える手で受話器を握り絞めていた。沈黙の中、ぼそりと私が話を切り出すと、受話器の向こうから、まゆみのすすり泣く声が耳に入ってきた。
「どうして泣いているの?」
  私が訊ねると、まゆみは、
「あなたを傷付けてしまった罪悪感からよ」
  と答えて泣いていた。私はここで、彼女の流した涙の意味と、彼女の言った、「罪悪感」と言う意味を同時に考えなくてはならなかった。まゆみは、押し黙っていた。私も、頭の中が混乱して何も言えなくなっていた。結局、「さよなら」と一言、言い残し、何も確かめないまま受話器を置いてしまった。
  その晩から私は、まゆみが抱いた罪悪感について考え始めた。しかし、考えていくうちに、彼女の言う罪悪感は、私に対して抱かれたものなのか、それとも彼女自身の行動に対して抱かれたものなのか、分からなくなっていた。
  電話をして以来のまゆみの態度は変わった。あれ以来、彼女は私とめった口を利かなくなった。私と視線を合わせる度、表情に影を落とした。彼女の態度を見ているうちに、私は一つの結論めいたものを導き出した。まゆみは、私に対して恋愛感情なんかこれっぽっちもい抱いていないのではないだろうか。そう考えると、彼女の態度の変化が納得出来た。
  けれども、それを認める事は、今までまゆみに抱いてきた気持ちを全て否定しまう気がした。それは、自分の全て否定してしまう事に匹敵すると思った。そう思うと、哀しくもあり、切なかった。虚しくも有あり、辛かった。
  まゆみとの経緯を知っていた友達が、まゆみの態度は、思わせ振りだと苦言を吐いていた。始めの手紙ではっきり断られていれば、おまえもここまで悩まずに済んだだろうにと、私に同情してくれたのである。そう言われてみれば、そうなのかも知れない。私が、みゆきの態度に翻弄されていたのも事実だった。だが、今までのまゆみの態度を否定する気になれなかった。まゆみもまた、きっと辛かったに違いない、そう思っていたのである。
  まゆみにそう言う態度や思いを抱かせてしまったそもそもの原因は、私にあるのだ。私の取った態度や言動で、まゆみの心を混乱させているのは事実だった。あの電話をすまでは、お互い普通の友達だったのだから。それだけは、はっきりしていた。まゆみに対しての態度や言動、それは、私のエゴイズムの他ならなかった。私は、自分のエゴを満たすためだけに、まゆみを傷つけてしまったのだ。そう思うと切なかった。切なさと共に、自分のエゴに対する罪悪感が芽生え始めていた。その罪悪感は、まゆみに抱く恋愛感情と複雑に絡み合い、精神がますます混乱してきた。その混乱から逃れたいが為に、自殺と言う行為が頭の中をちらつき始めた。更に追いつめられた私は、無意識の内に自分の手首に冷たい刃物を突き立てていた。
  結局、私は、まゆみが流した涙と、言葉の意味を見出す事が出来ないまま中学を卒業した。春から、まゆみとは、別々の高校に通う事になった。彼女とは、どうせもう会え無いのだから、忘れる他無いのだと自分に言い聞かせた。しかし離れても、彼女への思いを募らせるだけだった。
  そんな思いを引きずっていた、高校一年の春のある日、私は、ある女性から思いがけない告白を受けた。私は、当惑した。心の中は、相変わらずまゆみの事で占められていたからである。私は、自分の心の内をその人に告げた。そして、当然の如く断ろうとした。だが、その人は、それでもいいから付き合ってくれと何度も懇願して来た。私は、根負けした。そして、私の気持ちがまだまゆみに有る事をその人が了承した上で付き合い始めた。
  順子は、私よりも二つ年上だった。ふっくらとした頬の肌がとても白くて奇麗な人だった。けれども、容姿は、まゆみの方が全く勝っていた。それに、知的かと言うと、それもまゆみにはとても叶わなかった。
  私は、すぐに順子に不満を感じた。時には、冷たい態度も取った。仕舞いには、平気でまゆみと比べる様な酷い言葉を彼女の前に並べ立てる事さえあった。それでも彼女は、私に付いて来た。それどころか、以前にも増して私への想いを熱くしている様子だった。下駄箱には、毎日の様に取り止めも無い話の書かれた手紙が入っていた。私は、鬱陶しかった。初めから、愛していなかったのだから。別れてしまおうかとも考えた。実際、その事も口にしたし、貰った手紙や贈り物を彼女の目の前に突き出して返すと言った事も有った。しかし、順子は、私が別れ話を口にする度に泣いた。私と別れるくらいなら死んだ方が増しだと言い出した。彼女の言葉には真摯が有った。本気だとも思った。私自身、辛い想いを振り切りたくて自殺を企て様としていたのだから。仕方が無いので、私達は、そのままの奇妙な関係で時を過ごしていた。
  のらりくらりとその場を誤魔化していたが、その内に、私の心の中に順子の事が少しずつでは有ったが、確実にちら付く様になっていた。初めは、漠然としていてはっきり分からなかった。けれども、まゆみには無かった包容力で私を包み込んでくれる順子のやさしさを、日を追う毎に感じる様になっていた。しかし、そうは思っていても、本気で順子を愛せなかった。私の心はどっち着ずの宙ぶらりんのまま、毎日を送っていた。
  寒さが緩み、春の渡り鳥の姿を見掛ける様になった頃、順子は、卒業した。毎日の様に下駄箱に入っていた手紙は途絶え、顔も合わせる事も無くなった。以前の私ならほっとしていただろう。けれども、何故か素直に喜べなかった。何故だか分からないが、何か物足りなさを感じていた。






つづく




文芸の世界へ          その4へ              ホームへ


inserted by FC2 system