「思いで」その2        思い出




その2


  仙台から小一時間も列車に揺られると、小牛田に到着した。私は、とりあえずこの駅で列車を降りた。この駅は、仙台から東北本線を下って最初の分岐点である。ここから先、鳴子を経て新庄方面に抜ける陸羽東線と、前谷地から、志津川を経て気仙沼方面に抜ける気仙沼線のどちらかに乗れば良かった。
  私は、ホームのベンチの腰を下ろした。そして、キヨスクで買ったアンパンを噛み砕きながら時刻表を開き、とりあえず青森までの行程を思案した。その時の私は、手持ちの青春18切符と言う普通列車のみ乗り放題の切符だけで青森へたどり着こうと考えていた。陸羽東線で新庄方面に抜けた場合、秋田から特急に乗らないと今夜中に青森へたどり着けなかった。手持ちの切符では特急列車に乗られないので、途中で特急に乗ってしまうと、特急券はおろか運賃までも支払わなければならなくなる。その金額は、青春18切符一枚分に相当した。貧乏旅行を始める身にとって、痛い出費である。即座に新庄周りのルートを諦め、地図を頼りに他のルートを探し始めた。その結果、前谷地から気仙沼に抜けて釜石方面に抜けるルートを取る事にした。これで行くと、宮古を経て久慈に抜けても、花巻に抜けて好摩から大館方面に抜けても、普通列車だけで今夜中に青森へ着く事が出来た。
  次の気仙沼行きが出るまで、まだ小一時間ほど時間が有った。私は、プラットホームの天井からぶら下がっている掲示板を見上げた。そして気仙沼行きの乗り場の確認をすると、さっきのベンチに再び腰を下ろし煙草を吹かし始めた。向こうのホームの待合室では、数人の女子学生がたむろってお喋りに興じていた。
  ぼんやりと辺りの風景を眺めていると、視線の端に人影が動いた。その人影の方へ頭を向けると、向かいのホームの端にさっきの若い女の人があの重たそうな鞄を持って立っているのを見つけた。その人の顔色は、さっきの血色の良い顔色とは違い、蒼白を通り越して純白だった。凍りついたように動かない彼女の視線の先には、冷たい線路が有った。ややもすると、列車が来たら何の抵抗も無く線路に落ちて行きそうな気がした。私は、何か嫌な胸騒ぎを感じながら、固唾を呑んでその人の様子を伺っていた。
  駅の構内放送が到着列車の案内を告げると、古川方面から走ってくる列車が見えて来た。再びその人の方を見ると、垂れた頭に綺麗な黒髪が風でなびいていた。列車が、その人が居るホームへどんどん近づいて来るにつれて、私の鼓動が早くなって行った。胸騒ぎを抑えきれなくなった私は、思わず立ち上がると、堰を切るように階段を駆け上がっていた。
  息を切らせて階段を駆け降りると、列車が甲高い金属音を響かせながら私の横を走り抜けた。高校生達の一団の向こうに薄茶色のコートを羽織った彼女の姿を見つけたとき、私は思わず「ああ」と声を上げていた。
  その人は、その場にうずくまっていた。傍に立つと、小さく息をしているのが分かった。小さく体を丸めているその姿は外界の刺激を一切遮断して、自分の殻に閉じこもっている風にも見えた。実際、私が彼女の傍に立っていても私の存在を無視するかのように全く反応を見せなかった。私は、動かないその人にどう声をかけるか迷っていた。けれどもこのまま放って置くわけにも行かず、思い切って右肩を軽くぽんと叩いた。しかし、その人は、反応を見せなかった。ぴくりとも動かなかった。私は、その人と並んでしゃがみ込むと表情を伺った。けれども、彼女の長い前髪に阻まれて、表情を伺い知る事が出来なかった。
「どうしましたか?具合でも悪いんですか?」
  やっとの思いで私が声をかけると、その人は、小さく体を震わせた。そして、小さく首を擡げると冷淡な瞳を私に向けた。潤んだ瞳の奥に暗い影を認めた時、私は、胸に心臓が握り潰されそうな強い圧迫感を感じた。けれども、その瞳に私の姿が映し出された瞬間、冷たい影が消えて、代わりに優しい光が放たれた。私は、大きく息を吐いた。
「大丈夫です。……一寸立ち眩みがしただけですから」
「駅員を呼んできますか?」
「いいえ、もう大丈夫です」
「それなら座って、休みましょう。……むこうのベンチに僕の荷物があるんですが……。一寸取ってきますから」
  私は、全速力で駆け出しながらも、振り向いてその人の様子を伺った。彼女は、向いのホームに置き去りにされた私の鞄をきょとんと見ていた。そして、走って髪の毛をぼさぼさにして戻って来た私の姿を見ると、「ごめんなさい」と小さな声で謝った。
  戸惑っている彼女を見た時、私は、でしゃばった事をしてしまった様な気がした。けれども、一方では、声を掛けてしまった以上仕方が無いとも思っていた。私は、何か煮え切らない気持ちを抱きながら、彼女の隣に腰を下ろした。そして買い置きしておいた缶コーヒーをジャンバーのポケットから無造作に引っ張り出すと、その人の前に差し出した。彼女は、躊躇いながらも礼を言い、それを受け取った。
「よくその鞄、降ろせましたね」
「降ろすのは、案外簡単でした。あの時は済みませんでした」
  彼女は、深々と頭を下げた。私は、かえって恐縮した。
「いいえ、別にいいんですよ。しかし、そんなに重い鞄を持って歩くのは大変ですね」
「色々詰め込んでいたら、こんなになってしまって」
  その人は、初めて会った時の様にはにかんだ表情を見せた。
「そんな大きな荷物で、これからどちらへ?」
  私の質問に、彼女は眉を曇らせて視線を逸らした。その顔色を見た時、私は、この人何か訳有りなんだと直感した。何か後ろめたい物を感じる反面、彼女の答えを待っていた。
「あなたは、どちらへ行かれるのですか?」
  暫くして、空白の中にぽつりと浮いてしまう様な声で反問して来た。私は、何と答えるか迷ったが、
「北へ向かって、とりあえず」
  と、曖昧に答えた。すると、彼女は、涙に浮いた大きな瞳で私を見詰めた。今度は、私が思わず彼女の視線を逸らしてしまった。
「北へ……、北へ……」
  彼女は、丸で夢の中でうわ言を呟いている人の様に、同じ言葉を二度繰り返した。そして、漏らした吐息で小さく囁いた。
「北へ……。私も行くわ……」
「あなたは、何処に行くかを決めてないのですか?」
  彼女は、俯いていた。私は、その人の寂しい横顔を見た時、言葉を失った。二人は、少しの間黙っていた。
  その人は、肩で小さく息を吐くと私の方に向き直った。
「私も一緒に連れて行って下さい。北へ……」
  彼女の意外な申し出に、私は当惑した。直ぐに次の言葉を見つけ出せなかった。
「……一緒に行くのですか?僕と?」
「迷惑でなければ」
「迷惑なんかじゃないけれど……」
  二人の会話は、そこで途切れた。
  私は、彼女が口を開かない限り、口を利く積もりはなかった。聞きたいことは山ほどあった。だが、私が口を開いたら、余計な事を言ってしまいそうな気がした。その言葉で、その人の神経を悪戯に刺激してしまう事を恐れていた。第一、上手い言葉が見つけられなかった。おしの様に黙ってこの空気が通り過ぎるのをじっと待つ他無かった。
   不図した拍子で、見ず知らずの奇麗な女の人と旅をする事になってしまった私は、自分の過去の出来事を思い出していた。あの出来事さえなければ、多分彼女の申し出をなんの蟠りも無く、快諾していたに違いなかった。素直に彼女の力になれたかもしれない。しかし、今の精神状態でこんなに奇麗な女の人と一緒に旅をして、無事に帰ってくる自信が無かった。帰ってくる頃には、きっと自分の精神がおかしくなっているに違いないと思った。帰ってくる頃には、きっと彼女を追いかけているに違いないと思った。追いかけても、結局は自分の思いなんか通じず、きっと一人ぼっちになるだけだと思った。一人になった自分を想像すると、ぞっとした。悲しくも有った。惨めでも有った。私は、出会って間も無いこの人を目の前にして、既に悲しい別れの想像をしていた。
  暫くして冷静になると、変な妄想に取付かれた自分に気が付いた。出会って間も無いこの人を目の前にして、何を馬鹿な事を考えているんだろうと思った。気付くと、くすくすと声を立てて笑ってしまった。私は思わず、自分を嘲笑していた。
「何を一人で笑っているのですか?」
  彼女は、私を見て不思議そうに言った。
「自分の愚かさにですよ。何を訳の分からない事を考えてるんだろうと思うと、自分でもおかしくて……」
  私は、彼女がどう思おうと構わかった。すると、彼女は、私の顔を見て寂しそうな微笑を浮かべた。
「そうですか、……私も愚かな人間ですよ。自分を捨てる積もりで旅に出ていたのですから」
  彼女の悲しみを聞いた時、私は、言葉を失った。
  私は、彼女と本当に旅をしていいのか迷っていた。何本も煙草に火をつけては、それを灰にして考えていた。けれども、考えれば考えるほど、頭の中が混乱してきた。答えなんか出てくる筈も無かった。彼女は、俯いたまま何も言わなかった。私は、妙に遅く流れる重苦しい時間を何とかやり過ごそうと必死だった。すると、駅員が気仙沼行きの列車の案内を始めた。ざわつき始めたホームの中で私は、思い出した様な振りをして口を開いた。
「行きますか……」
  彼女は、優しい微笑を私に向けた。そして、小さく返事を返した。
「はい」
  二人は、立ち上がり列車に乗り込んだ。






つづく





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