思いで


その42




  宗谷岬から引き上げる頃になると、天候も大分荒れてきて、さっきまで見えていた岬の三角形の白い塔が吹雪で見えなくなっていた。その奥にある海の方へ目を向けてもごうごうと海鳴りがするだけで、さぞ荒々しいだろうその姿は、駐車場の車の中からでは垣間見ることは出来なかった。
  稚内市街へ通じる海沿いの国道は、陸側が原野になっていた。その為、風が通り抜けていくたびに地吹雪が舞い上がり、辺り一面を覆い隠してしまった。何処を見ても真っ白になってしまうので、助手席に座っていても方向感覚を失いそうになった。その白い結晶は、まるで私達を別世界へ誘っているようにも思えた。
  隣でハンドルを握っているみゆきは、真剣なまなざしで前を見ていた。後ろの席で書き物をしていた裕子は、いつの間にかペンを持ったまま船を漕いでいた。たまに突風で車体が揺らされても、裕子は目を覚ます気配がなかった。
  私は、吸い込まれそうな真っ白な世界を目の当たりにしながら、遠野で起こった出来事を思い出していた。あの時、みゆきは、列車のデッキの窓に映った真っ白な雪の世界を目の前にして、気を失うほど神経を高ぶらせのだった。その白い雪の奥に、私の知らない誰かを見ていたのだ。無数の雪の粒しか見えないこの世界で、みゆきの神経は大丈夫なのだろうかと、不図心配になっていた。
「大丈夫?」
  私は、思わずみゆきに声をかけていた。みゆきは、視線だけを私に向けると頬を緩めて、
「一寸疲れたけど、大丈夫よ」
  と、はっきりした口調でそう答えた。みゆきの答えは、私が意図していた事と全くずれていた。けれども、みゆきの声と表情に十分な生気が漂っていたので、そんなことはもうどうでも良くなっていた。
「僕が運転できたら、君を少しでも楽にさせて上げられたのに。ごめん」
  私も先ほど抱いていた自分の意図する所とは、かけ離れた言葉を口にしていた。
「まだそんなこと気にしてたんだ」
  みゆきは、さらりと答えた。そして、暖房の風量を全開にすると再び前を見た。
「少しは、気にするさ」
「プライド、傷ついた?」
  みゆきの問いかけに、私は苦笑いを浮かべていた。
「プライドとかそんな事ではないけども……」
  私は、少し考えてから素直な胸のうちを言葉にした。
「もし、本当に君を助手席に乗せてドライブできたら楽しいだろうなと思ってさ」
  みゆきは、ルームミラーで裕子の様子を確認すると、はにかむようにこう言った。
「そうなったら、本当に素敵だね」
  みゆきの横顔は、柔らかな笑顔に包まれていた。彼女のその語り口は、まるで恋人に向けられているようだった。彼女の大きな瞳には、生きた光が宿っていた。
「本当にそう思う?」
  みゆきの言葉と態度に半信半疑だった私は、そう確かめずにはいられなかった。しかし、みゆきは顔色ひとつ変えずにこくりと頷いた。
「達也さんの助手席に乗せてもらえてドライブできたら、凄く嬉しいわ。想像するだけで胸がドキドキする」
  彼女は、そう言うと胸の辺りを手で抑えていた。そして、一息置くと強請るような声色でこう付加えた。
「早く免許、取りに行ってよ」
  彼女の声を聞いて、私の心臓もドキドキしていた。しかし、その胸の高まりは、みゆきのそれとは、全く違ったものだった。その時の私は、二月に十七歳になったばかりだった。従って、約一年経たないと、教習所すら通え無かった。だが、彼女の言っていたプライドが、「そのうち、取りに行くよ」と、私に答えさせていた。
「でも、免許を取っても、当分車は買えないぜ。今のバイトは時給450円で小遣い銭ぐらいにしかならないし、車を買えるようなまとまった貯金も持っていない。バイトで稼いだ有り金全部、この旅につぎ込んでるからゼロと言って良いね。それに、親も車を持ってないんだから、君を乗せてドライブなんて、何時のことになるのか分からない」
  私は、自分で持ち出した話題を、現実を持ち出してかわそうとしていた。ひねくれていたわけでは、決してない。このまま、みゆきのペースで話を進めていくのが怖かったからである。けれども、みゆきは、私の気持ちをよそに、こう問いかけてきた。
「私の車じゃだめ?」
「だめじゃないけど……、君、車、何に乗ってるのさ」
「ワーゲンのビートルよ。昔のやつ」
「てんとう虫?」
  私の答えに、みゆきはくすっと笑った。
「それは、スバルの昔の軽自動車よ。ビートルってカブトムシの事でしょ?フォルクスワーゲンビートルって知ってるかな。この車よりは、少しは大きいけど、でも、小さい部類にはいるわよ」
  彼女の説明で、やっとみゆきが持っている車のイメージがわいた。みゆきは、自分の車が小さい部類に入ると強調していたけれども、私がその車を上手く運転できるかは別問題だった。私は、「そうなんだ」と一言相槌を打つことしかできなかった。
「車とか、いたずらしたこと無いの?」
「いたずらって、無免許で乗り回したとかそういうこと?」
  私の問いかけに、みゆきは、にやりと笑みを浮かべた。
「君はあったの?」
「妹はしてたけど、私はしなかったわよ。妹が来た時には私、もう免許、取ってたしね。もちろん、免許を取る前は車を運転することなんか考えてもいなかった」
  みゆきの答えに、今度は私が鼻で笑った。そして、滑稽の意味を込めてこう言い放った。
「君は、優等生のお嬢様だね」
「そんなことは無いわ」
  だが、みゆきは、私の言葉を気にする様子も無かった。今日の彼女は、随分大胆なことを口にするようになったと感心していた。その反面、彼女のペースに徐々に乗せられている自分がいた。彼女のペースに釣られて、私も軽口を叩いていたかもしれない。けれども、それが怖かった。私は、彼女のペースから這い上がろうともがいていた。
「車は無いけど……」
  私は、不図思い出した事があった。
「トラクターならあるよ」
「トラクター?」
  私の答えに、みゆきの言葉尻が上がった。
「去年の夏休みにさ、牧場でバイトしてたんだよね。そこで、外車のでっかいトラクターを運転させてもらってさ。あれは面白かったな」
「牧場でバイトしてたなんて羨ましい。何処の牧場で働いてたの?」
  みゆきは、興味深げに尋ねてきた。
「三笠だね」
「三笠って、北海道?」
「そう、岩見沢の隣の三笠だよ。乳牛が200頭くらいいたのかな。半分は、牛舎で搾乳して、半分は裏の放牧場で一日放し飼いしてた。牧場もサイロが二本も建っててかなりの規模だったよ」
  私は、去年の夏休みの出来事を思い出していた。旅の途中で立ち寄った牧場には、若い農業実習生やヘルパー達がいて、彼等と一緒に朝から晩まで汗を流して働いた。将来の目標を持っていた彼等の話は、聞いている方も心が弾んだ。何よりも牧場主の家族の優しさとそれに自然の息吹に触れたことで、どん底に沈んでいた私の神経が救われた気がした。そして、自分も仙台に帰ろうと思えるくらいに生気を取り戻したのだった。
「どういうキッカケで、牧場で働けたの?達也さんの実家は農家なの?」
「うちの親は普通のサラリーマンだけどさ。毎年夏にその牧場でアルバイトをしている知り合いがいてね。その人に紹介してもらったんだよ。一週間位そこにいたんだけど、それこそ切符の期限が目一杯になっちゃって泣く泣く仙台に帰って来た」
  話をしているうちに、その時嗅いだ牧草や寝藁や牛達の臭いが鮮やかに蘇った。その夏の出来事は、私の日常とはかけ離れたものだった。もう、経験することも無いだろうと思う。けれども、あの経験が無ければ、順子のことを吹っ切れなかったかもしれない。とてもこの旅なんかに出る気になれなかったと思う。私には、私の精神状態を改善してくれるきっかけを作ってくれた知り合いがいたのだ。
「へぇ、達也さんって顔が広いんだね。そういう人と出会える達也さんって羨ましいな」
  みゆきは、本気で感心していた。彼女の言葉を聴いた時、私は牧場で働くキッカケを作ってくれた知り合いと、私を牧場に受け入れてくれた人達に改めて感謝していた。
「達也さんが運転したそのトラクターってこの車よりも大きかったんでしょ?」
  暫くすると、思い出したようにみゆきが問いかけてきた。感慨に浸っていた私は、気持ちを切り替えてみゆきの方へ向き直った。
「そうだね、普通の乗用車よりも大きかった」
「それなら、私の車も直ぐに運転できるよ」
  確かに、私が運転したトラクターは、ビートルよりもはるかに大きかった。しかし、トラクターで走っていた道は閑散とした農道だったし、速度も乗用車とは比べ物にならないくらい遅かった。みゆきの言葉に全く説得力を感じなかった私は、昨日乗った夜行列車で交わされていた会話を思い出して、彼女にこう反問した。
「その車って君の親のお下がりだよね?」
  みゆきは、「うん」と答えて頷いた。
「もしかして、死んだお父さんが乗ってた車でしょ?」
  みゆきは、少し間を置くと黙って小さく頷いた。その時、みゆきが頬の辺りを微かに強張っていくのを、私は見逃さなかった。
「免許取立ての僕がそんな大切な車をぶつけたら大変だよ。一生君にうらまれるかもしれない」
「うらむなんてそんなことしないわよ。私が頼んで運転してもらうんだから」
  みゆきの力説を遮るように、私は冷静に口を開いた。
「それでもさ、僕が運転したとしても、君は、僕の隣でしゃっくりし続ける羽目になるかもしれないよ」
「どうして?」
「僕は君より運転が下手だって言うことは間違えないでしょ?」
「そうかな」
  みゆきが首をかしげている様子を見計らって、私は、畳み掛けるようにこう言った。
「さっき、裕子さんが最初に運転して君が助手席に乗ってたとき、君、しゃっくりしてるみたい体を震わせていたもん。完全に怖がってたね。僕もヒヤッとしたけども」
「そうだった?」
「そうだったよ」
  私がまじめな顔で頷くと、みゆきは笑い出した。そして一息つくとこんな事を言った。
「達也さんってハンドル握ると性格変わるのかな」
「どうだろうね」
  みゆきは、首をこちらに向けると大きな瞳で数秒間私を見つめた。そして、再び前へ向き直るとこんな事を言った。
「でも、あなたは、随分慎重に運転しそうな気がするな」
「どうしてそう思うの?」
「だって、何事にも随分慎重に構えているもの。見てれば分かるわ」
「そうかなぁ」
  今度は、私が首をかしげた。空とぼけていたわけでは無い。他人の目に映る自分の印象が、想像できなかったのだ。みゆきが口にした、慎重と言う単語が自分に当てはまるのか分からなかったのである。仮に自分が本当に慎重な人間ならば、みゆきや裕子と旅をしていただろうか。そんなことをぼんやり考えていた。
「達也さんの免許と車はともかく、仙台に帰ったら、車で何処かへ出かけようよ。もちろん2人だけでだよ。景色が綺麗な所が良いな。私の車と運転で達也さんがよければだけどね」
  みゆきは、何かを想像するように楽しげに話た。笑顔に浮かんだ大きな瞳は、私をいとおしそうに見詰めていた。私の隣にいる美しい女性は、私だけを見て、私のために素敵に微笑み、私のために優い言葉を口にしていたのだ。その事実に私は、胸を躍らせていた。けれども、直ぐに彼女から視線を逸らした。「この先、みゆきとどうなるって言うのだ?」そんな自問が脳裏を横切った時、嘘で塗り固められた私達の関係に希望の光を失った気がした。二人の間には、ただ、真っ暗な闇しか存在し得なかった。その事に気付いた時、私は愕然とした。みゆきの問いかけに答える代わりに、ため息だけが漏れ出した。
「また、黙ったね」
  みゆきの囁き声に覚醒した私は、頬を不自然に歪ませて煙草に火をつけた。煙の向こうのみゆきの横顔には、穏やかな表情を浮かんでいた。彼女は、それきり私を問い詰めなかった。じっと前を向いて、ハンドルを握っていた。暫くすると、独り言のようにこんな事を呟いた。
「ワイパー、利かなくなってきた。こんなに降られると怖いね」
  彼女はそう口にしたものの、本気で怖がっている様子も無かった。スイッチを一番下に下ろしたワイパーはせわしなく左右に動き、フロントガラスの雪を掃いていた。けれども、ワイパーが早く動くことで室内の熱で溶けた雪の粒が、ガラスの表面へ団子のようにへばりついて、かえって視界を遮った。
「この雪だと、丘珠からの飛行機は降りられなかっただろうな」
  灰色の空からさらさらと降り続く雪を眺めながら、私はぼんやりと呟いた。口にして少ししてから、その言葉は、意味ありげに私の胸のうちに響いた。米神の辺りから、冷たい汗がすうっと降りてくるのを感じた。しかし、みゆきは、私の言葉の意味を気にする様子もなく、「そうかもね」と答えるだけ、真っ白な銀世界の中、車を走らせていた。




















つづく



 



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