思いで


その43




  レンタカー屋に車を返しに行ったのが、17時近かった。
  稚内の街中も、相変わらず雪が降りしきっていた。空の上には日の光は既に無く、辺りは暗くなっていた。けれども、真っ白な雪に覆われた街の景色は、不思議なくらい薄明るくもあった。天から舞い降りてくる繊細な細雪は、まるで大きなスクリーンのようで、小さな街灯の明かりでも建物や人の輪郭をぼんやりと浮き上がらせていた。
  私達は、荷物を置きに旅館へ立ち寄った。荷物と言っても、裕子のカメラバックと三脚だけだったので、みゆきと私は靴も脱がずに玄関先で裕子が部屋から降りて来るのを待っていた。玄関先の小さなガラス戸の奥には、宿屋のおばさんが卓袱台の前に座ってテレビを見ていた。彼女は、私達に気付くとにニコニコと笑いながら腰を上げた。
「寒い中お疲れ様。中野さんに随分とこき使われたしょ」
  その小さなガラス戸をがらりと開けて声をかけてきたおばさんに、私達は、苦笑いを浮かべて答えた。
「あんたら、また出かけるのかい?」
「ええ、買い物がてら、食事してきます」
  私がそう答えると、おばさんは、玄関の戸口にぶら下がった掛け時計を見た。
「お風呂ももう沸いてるし、部屋も頃合見て布団敷いてストーブつけて暖めておくから、適当に切り上げて帰っておいで。二人とも疲れた顔してるよ」
  おばさんにそう言われて、私は暖かい部屋と湯気の立つお風呂を連想していた。長旅で疲れた体には、どれもこたえられなかった。すると、腿の辺りが段々と突っ張っていくのを感じた。肩の辺りもずしりと重くなっていく。私の隣にいたみゆきも、大きなため息を吐いていた。そして、けだるそうに傾げた頭を私の方に向けた。
「疲れたね」
  みゆきと目が合った私は、ため息混じりにこう呟いた。みゆきは、頭を大げさに縦に振った。
「モデルは体力勝負だからなぁ」
  私がそうちゃかすと、みゆきは、わざとらしい渋面を作った。そして、その表情を直ぐに笑顔に変えて見せた。細めた目元には、何か企みを浮かべていた。
「少し休ませて」
  みゆきはそう言うと、おばさんの目をはばかることなく私の背中に自分の背中を合わせてもたれかかってきた。彼女は顔を上げたのか、さらさらの髪の毛が私の耳たぶに触れた。その時私は、止まり木のように、体を強張らせた。
「達也さんの背中、あったかい」
  みゆきが声を出すと、背中越しに声の細かい波が伝わってくるのが分かった。彼女の首筋から発っせられた体温が、意外にも暖かかった。間もなく、彼女の息遣いが私の呼吸とシンクロした。それでも、私は冷静だった。恋人と言うのは、こうしてお互いの気持ちを確かめ合うのかなと冷めた事も考えていた。心の中で、芝居と言う二文字が視野の途切れる端の方で見え隠れしていた。だから、みゆきと恋人のように体を合わせていたことが、まるで他人事のように思えたのだった。自分は、みゆきの恋人として上手く演じているのだろうか?そんな疑問ばかりが頭の中を埋め尽くして、次の台詞が出てこなかった。
  二階から引き戸をパタリと閉める音が聞こえると、間もなく裕子が階段を下りてきた。裕子は、背中合わせに寄り添っている私達を見つけると、大げさに吐息をつくと、すぐにニヤニヤして問いかけてきた。
「疲れた?」
  私は、裕子に答える代わりに、首を目一杯捻ってみゆきの表情を伺った。みゆきは、宙を仰ぎながら目を閉じて、口を半分開いていた。
「達也さんの背中でこうしていると気持ちいい」
  独り言のように言い放たれたみゆきの声は、夢心地だった。口元に浮かぶ微笑には全く邪気が無くて、これが天使の顔なんだろうなと思わせた。裕子は、腕組みをしながら私達を見ていた。
「そんなに気持ち良いなら、私にも達也さんの背中、貸してよ」
  みゆきは薄目を開くと、黒目を裕子の方に向けた。そして息をすうっと吸うと、ゆっくりと口を動かした。
「いやだ」
  みゆきの囁き声は小さかったけれども、玄関の一角にはっきりと響き渡った。彼女の答えに、裕子はあっけに取られた表情を見せた。私は、耳元で甘く囁かれたみゆきの声に、やっと心を動かされた。心臓の脈打つ鼓動が強くなっていくのが分かった。その力強い振動をみゆきに悟られやしないかと冷や冷やしていた。
「いやだよ」
  少し間を空けて、みゆきが子供っぽく念を押すと、裕子は笑い出した。
「飯喰う前に、腹いっぱいになっちゃったよ」
  裕子の呆れ声に釣られるように、みゆきも肩を揺らして笑い始めた。そして私の背中から離れて行った。私の横に並ぶと、裕子に向かって「おそまつさまでした」とぺこりとお辞儀をした。彼女のその姿は、緞帳が下りた後に観客のカーテンコールで呼び出された女優のように見えた。みゆきと舞台にいる女優の姿を重ね合わせた時、私の胸で力強く打っていた心臓の鼓動が引いていくのを感じていた。
「あぁ、私にもこんな人がいたんだけどな」
  私達の姿を見てぽつりと呟く裕子の横顔に、寂しさが浮かんでいだ。その表情は、私の目にリアルに映った。彼女の言葉は、経験に基づく生きた言葉で、空想の台本に描かれた活字を脚色して吐かれた台詞では無いと思ったからである。
  裕子は、直ぐにその寂しさを押しのけた。そして、いつもの企みを含んだ笑顔に戻っていた。
  おばさんは、小さなガラス戸から身を乗り出しすと、かがんで靴を履いていた裕子に声をかけて手招きをした。
「他のお客さんに迷惑かけなければ、部屋で呑んだっていいんだから、早く帰ってくるんだよ。寒かったんだから、この人たちをお風呂さ入れて休ませてあげるんだよ」
  おばさんの忠告に、裕子はいい加減な生返事をしていた。だが、思い出したようにくるりと踵を返すとおばさんの顔を押しのけて小さなガラス戸に首を突っ込んだ。ガラス戸の向こうで交わされている会話は、玄関までもれ出てこなかった。ただ、時折感嘆詞を含んだおばさんの小声と裕子の企みを含んだ小さな笑い声だけが、意味もなく私の耳に入ってきた。
  裕子がガラス戸の中に顔を突っ込んでいたのは、ほんの一、二分だったと思う。彼女は、何食わぬ顔をして、突っかけていた靴のつま先をとんとんと叩いていた。
「この雪の中で二人をいいだけこき使ったんだろうから、呑みも適当に切り上げて、ちゃんと九時まで帰ってくるんだよ。お風呂ためて待ってるから」
  おばさんは、再びガラス戸から顔を出すとさっきと同じような言葉を裕子にかけた。裕子は、適当な相槌を打ちながらおばさんの顔を煙たそうに手で払った。そして、「お待たせしました」と言わんばかりに、私達の肩をポンと叩いた。   旅館を出た三人は、まず駅前の百貨店に入った。みゆきの靴を買い求める為だった。彼女が今まではいていたスニーカーは、雪で湿っていたけれども、靴底が磨り減っている以外はそれ程痛んでいるように見えなかった。けれども、みゆきは、荷物になるからといってそれを店に処分してもらうことにした。
  彼女が新しい靴に履き替えると、その足で衣料品売り場の方へ出向いた。宗谷岬で寒風吹きすさむ中モデルをしていたみゆきが、流石に寒いと漏らしていたからである。私は、寒さ対策にセーターか何か上に羽織る物を買うものだとばかり思っていた。けれども連れて行かれたのは、衣料品売り場の一角にある女性物の下着売り場だった。女物の下着が着せられているマネキンが何本並んでいるのを見つけた時には、思わずその場に立ち止まってしまった。何だか気恥ずかしくなって、一人で隣の男物の服が並んだ売り場へ意味もなく進んで行った。
  彼女達は、ワゴンの中から何着かのシャツを広げて話をしていた。私は、少し離れてその様子を見ていた。暫くすると裕子が、離れた私を見つけて手招きをした。私は、下着を着せられたマネキン達を避けるためにわざわざ遠回りをして、彼女達のいる方へ向かった。
「彼女がこんなのを着てたら幻滅する?」
  裕子は、ベージュ色の長袖シャツを私の目の前に広げて見せると、こう聞いてきた。私は、「どうでしょうね」と答えると、何となく目のやり場に困って俯いた。
「こんな薄いアンダーでも一枚着てるだけで違うよ。いま着てるトレーナーと同じくらい暖かいんだから」
  今度は、みゆきの目の前でシャツをひらひらさせてそう力説した。裕子は、初手から私に意見を求めているわけではなかったらしい。みゆきは、裕子の話に「なるほど」と相槌を打った。
「っていうかね、みゆきさんにそのトレーナー、似合わない。だぼだぼ過ぎて、あなたの体系に合わないし、折角のセンスが台無し」
  裕子は、眉をひそめながらみゆきの服装をそう評した。みゆきは、ベージュのコートの下に濃紺のトレーナーを着ていた。襟元には、見るからに男物のマフラーがくるりと巻かれていた。その両方とも、私が貸したものであった。確かにそのトレーナーは、みゆきが着るとサイズが明らかに大きめで、彼女の背格好や服装からすると少し不自然だったかもしれない。けれども、みゆきは、裕子と出会う前の札幌駅でその着古したトレーナーに何の戸惑いもなく袖を通したのである。
  裕子の意見を聞いた時、私は心苦しかった。自分の持ち物を裕子に酷評されたのが原因ではない。他人が見てみゆきのセンスにふさわしくない格好をさせてしまったことに対して、みゆきに申し訳ないと思っていたのである。
  みゆきは、裕子の意見に何とも答えなかった。答えない代わりに苦笑いを浮かべると、綺麗な指先でトレーナーの裾をいじっていた。
「もしかして、それ、達也さんのトレーナーなの?」
  みゆきが俯きながら「ええ」と答えると、裕子は、ばつの悪そうな顔を浮かべて「そういうことか」と呟いた。
「じゃあ、私がこれを買ってみゆきさんに貸してあげる。それなら良いでしょ?」
  裕子が続けたその言葉の語尾には、「だから明日はそのダサいトレーナーを脱いでね」と言う意味が含まれているのだと思った。みゆきは、何とも答えなかった。俯いた顔から、私に視線だけを向けた。私も何とも答えなかった。裕子が目を離した隙にみゆきに向けて一瞬片目をつぶって見せると、彼女の唇の端が緩んだ。裕子は、黙った二人を前にして、痺れを切らせたようにシャツを畳むと一人でさっさとレジへ持って行った。




















つづく



 



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