思いで


その41




  宗谷岬は、駐車場に到着する観光バスから降りて来た大勢の観光客で賑やかだった。彼等は、海岸に建った三角形の白い塔の周りを義務のように一周すると、ガイドに誘導されて記念写真を撮るための櫓に整列させられていた。カメラマンのシャッターを切る掛け声と共に、彼等は一斉に不自然な微笑みを浮かべていた。そして、一通り記念撮影が終わると、観光客達は白い塔の前に足を留める事無く、バスの出発時間を気にしているのか、それとも冷たい海風に耐え切れないのか、駐車場脇に建っている土産物屋へ足早に吸い込まれていった。
  人がまばらになった所で、祐子は、私とみゆきを塔の下に立たせてカメラを向けた。するとみゆきは、私の二の腕に腕をからめて私の肩に頭を乗せて来た。けれどもその時の私は、不思議と落ち着いていた。みゆきの仕草が、余りにも自然だったからかも知れないが、要するにみゆきのリードに私は完全に身を委ねていた。だから、触れ合うみゆきの体から、彼女の体温や息使いを素直に感じていた。無意識の内に、みゆきの髪の毛に自分の頬を寄せていた。それを見た祐子は、意味ありげににやりと笑うと、ファインダーを覗き込んだ。
  カメラに顔を埋めて片目を硬く瞑った祐子の表情は、とても真剣だった。仕事に打ち込むその姿は、凄く格好良かった。ショートヘアーと言うより高校の運動部の男子と形容した方がしっくりと来る短かく刈り込まれた彼女のヘアースタイルが、その小さな顔立ちに凄く似合っていた。こうして隣にいる裕子の姿を改めて見ると、彼女も実は綺麗な人なのだと感じた。この旅に出てから初めて、みゆき以外の女の人にまともに目を向けられた気がしていた。少しは心に余裕が出来たのかなと思うと、何となく嬉しかった。
  みゆきは塔の下に一人佇むと、カメラに向かって自然な笑みを浮かべた。みゆきの表情は、時間を追う毎に、柔らかく穏やかになって行く気がした。私と肩を並べてファインダー越しにみゆきの姿を見詰めていた祐子も、そんなみゆきの変化に様子に気付いたのか、シャッターを切る度に小さな唸り声を上げ、何度か首を傾げた。
「ねえ」
  祐子は、カメラを構えながら私に声を掛けてきた。私が祐子の方に目をやると、彼女は空いた方の目で私をちらりと見た。
「何か有ったの?」
「何か、って?」
  私が逸らかす様に反問すると、祐子は小さく溜息を吐いてカメラを降ろした。
「みゆきさんさ、ノシャップで撮った時とは全然表情が違うのよね」
「良い表情してるでしょ?」
  反射的に答えた私に、祐子は、虚を衝かれた様に少し驚いた顔を見せた。けれども、直ぐに真顔に戻り、海を眺めているみゆきの姿に目を移した。その目は、カメラマンの視線だった。
「そう、凄く良い表情。ファインダーを覗くたびに表情が良くなって行くのよね。蕾だった花が、ぱぁっと開いて明るく華やいで行くって感じ。元から持ってる彼女の才能だね。とても素人とは思えない」
  そう言って感慨深げに溜息を吐くと、思い出した様に目を細めて私を見返した。
「また彼女自慢?」
「まぁ、そんな所ですか」
  私がさらりと答えると、祐子は横顔で素直な笑顔を見せた。
「さっき送ったフィルム、こっちにすれば良かったなぁ」
  祐子は、残念そうに首を傾げると下唇を突き出した。そして、私の方に向き直ると改めて質問をしてきた。
「所で、何か有ったの?」
「だから、なにかって何ですか?」
  わざと要領の得ない反問を口にした私の顔を、祐子は苦虫を噛んだ様な渋い表情で覗き込んできた。
「空港の駐車場で私が車から降りた後、みゆきさんと二人で何か話したの?」
「いや、別に。何も話して無いですよ」
「本当に?」
  裕子は、疑念の声を強調するように語尾を上げた。そして、いつまでも空とぼける私の顔をまじまじと覗き込んだ。私は、祐子に表情を悟られないように、作り笑いを浮かべた。祐子は、私の表情から何かを読み取ろうとしているのか、何時までも瞳を離さなかった。私は、蛇に睨まれた蛙の如く息を呑んでじっと耐えていた。少しでも動いたら、自分の心の内を見透かされそうな気がして、祐子の前に薄笑いの殻を作っていた。
  私は、みゆきと旅に出てから起こった様々な出来事を祐子に話すつもりが無かった。祐子の前では、みゆきと恋人を演じていればいい、それがみゆきの為になるのなら私もとことん付き合うつもりでいた。けれども、空港の駐車場の車の中でみゆきと二人きりで話をした後から、考えが微妙に変わっていた。裕子には、少し事情を話して置いた方が良いのではないか、そんな事を思い始めていた。
  仮に、こんな所で小樽で見かけたあの男に見つかってしまったら、彼は、みゆきを強引に連れて行ってしまうかもしれない。そうなると、祐子の前で恋人芝居を演じる以前の話になってしまう。空港でみゆきの口からこの男の事を匂わされてから、私は、その点を最も恐れていた。目の前からみゆきが居なくなる事を想像しただけで、背筋が凍りつき肩を竦めた。
  最悪の事態を回避する為には、祐子に頼った方が得策ではないだろうかと思い始めたのは、そんな経緯が有ったからである。私達、特にみゆきに好意を持っている祐子なら、仮に小樽の男がここに現れたとしても、裕子が私達を庇ってくれるだろう、そう思っていた。だったら、せめて小樽で出会った男の事は、彼女に話しておいた方が良いのではないだろうか。裕子に告白した時点で、みゆきと恋人芝居は出来なくなるにしても、少なくともみゆきと離れずに済むのではないか。私は、こう考えていた。
  けれども、自分の考えを行動に移すのに躊躇いがあった。みゆきと私の不思議な関係を裕子がどう受け止めてくれるか、想像出来なかった。第一、私の勝手でみゆきと私の二人だけの秘密を他人に暴露する事を、みゆきが承諾するか疑問だった。たとえ口では承諾したとしても、本心ではきっと迷っているに決まっている。そう思うと私は、一歩踏み込む事が出来ないまま、迷いのあまり押し黙ってしまった。
  気が付くと、私は、自分の表情がすっかり真顔になっているのに気付いた。私は慌てて作り笑いを浮かべて表情を作り直すと、腹を据えてこう口を開いた。
「彼女、演劇やってたみたいですから」
「演劇?」
  突然話題を逸らした私に、祐子は更に素っ頓狂な声を上げた。
「そう、女優もやってたみたいですよ。人前で演技出来るくらいだから、こういうシチュエーションで表情を作る事ぐらい朝飯前なんでしょう。彼女、頭の回転も早いですからね。さっきやってた事を自分なりに応用して、より良いものを作ろうとしているんじゃないかな。だから、自然に良い表情が滲み出てくる」
「へぇ、なるほどねぇ」
  裕子は、吐息を漏らしながら肯くと、みゆきの方を見ていた。
「でも達也君の言い方ってさ、何だか、恋人って言うより、女優を売り込むマネージャーみたいな話し方だよね」
  祐子に笑いながら言われて、確かにそうだと思った。しかし、私と裕子の前で一生懸命フジノミユキを演じているトウノミユキを見た、私の素直な感想でもあった。
「演劇って、大学のサークルか何かでやってるの?」
「いや、川崎にいた時にどっかの劇団で芝居をやってたみたいですよ」
「川崎って、高校時代に?」
「らしいですね」
「どんな芝居をやっていたの?」
「さぁ、それは……」
  曖昧過ぎる答に、自分でも大丈夫なのかと内心どきどきしていた。その時の私も、みゆきの事は、全く知らなかったのである。けれども、私の心配を余所に、祐子は、何時ものように瞳に詮索の光を宿らせていた。その光は、みゆきへの興味の方が勝っていて、私の答えに矛盾を感じていなかったらしい。
「見たこと有るの? みゆきさんの女優姿」
「残念な事にそれは無いですね」
「恋人なのに、勿体無い」
  祐子は、本気で残念がっていた。
「劇団の拠点が川崎とか東京みたいですから、仙台に住んでいると見る機会も無いし。みゆき自身も仙台の大学に入ってしまったから、今はアイディアを送るくらいで女優としては参加していないみたいですね」
  私は、口でそう説明しながら、腹の中で、「でも、彼女は今、私と恋人芝居を演じているのですよ。あなたの為に」と、呟いていた。祐子は、私の表向きの答えに納得するように小さく頷くと、再び質問を浴びせ掛けてきた。
「彼女も、物書きなんだ」
「物書きって?」
「劇団にアイディアを送ってるんでしょ? 台本とか戯曲とか、そんな類のものを書いてるんでしょ?」
  その手の知識が全く皆無な私は、内心、裕子の質問にしどろもどろになっていた。
「そうですね。そう言えば汽車の中でも、なにやら書いてましたよ。劇団に送るんだって言って」
「ふぅん。彼女ってどんなの書くんだろう。読んでみたいな。彼女の作品」
  もっともらしく答える私の様子に、裕子は、私が物書きの類に興味が無い事を見抜いている様だった。けれども、裕子がそう呟いた時、私もみゆきが書いているものを読んでみたいと思っていた。
  裕子は、一通りの質問攻めを終えると、小さな溜息を吐いて再びみゆきの方を見た。
「確かに、人前で芝居をしていた経験がある人なら、こうしてカメラを向けられても堂々としていたれるってのも分かるわね。でも、今のみゆきさんの表情って、演技とかそう言う作られた物じゃないよ。何て言うのかなぁ、……」
  祐子は、眉間に中指を押し当てて少し考え込んだ。その時の私は、一筋縄では行かない祐子にここまで言わせるみゆきの演技力に脱帽していた。
「そう、何かを吹っ切って身軽になった様な、そんな表情だよね。それが自然に滲み出てきている。そんな感じだね」
  祐子の指摘はかなり抽象的だった。けれども、裕子の指摘は、それまで私が抱いていた、みゆきの完璧な演技力の感想を一瞬にして吹き飛ばした。空港の駐車場での会話を実は、裕子に聞かれていたのではないか、そんな疑問さえ浮かんでいた。不意に、膝から力が抜けて行くのを感じた。今にも崩れていきそうな足元を必死になって支えていた。
  祐子が指摘した通り、空港の駐車場で自分の決意を告白した後のみゆきは、確かに何か吹っ切れた様に晴々としていた。それに、とても堂々としていた。祐子の冗談に、人目を憚らずに声を上げて笑っていた。私と二人で土産物屋を冷やかしていても、自然と私の傍に寄り添い、他愛の無い会話を交わしていた。時折見せる屈託の無いみゆきの笑顔が、彼女の本来の表情なのだろうなと思った。だが、そこにいるみゆきは、私の知らないみゆきの姿なのだと思うと、何となく複雑な気持ちがした。このまま恋人芝居を演じ続けていても、裕子に事の次第を告白して自ら芝居の幕を引いたとしても、また、何処かで小樽で出会った男に見つかってしまっても、みゆきは必ずトウノミユキに戻っていく。その時は、みゆきが私の知らない所へ去って行く。私は、一人置いてきぼりにされてしまいそうな気がした。そこに気付いた時、私は、言い様の無い嫌な予感が胸の内を圧迫して、その息苦さに耐えていた。




















つづく



 



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