思いで


その40




  私達の車が雪原の中の小さな空港に滑り込んだのは、千歳行きの飛行機が飛び立つ丁度一時間半前だった。裕子は、ターミナルビルに一番近い駐車スペースを見つけると、急ハンドルを切った。車は、軽い衝撃と共に雪の壁にバンパーが突っ込む形で車が止まった。その時、裕子が、「やばいかも」と呟いたのは、車や私たちを心配していたのではなく、時間を気にしているからだった。航空貨物と言うものは、積み込み予定の便が出発する一時間半前で受付けが締め切られてしまう、そう祐子が話していた。腕時計を気にしながら慌ててドアを開けようとする裕子に、私はフィルムの入った例の茶封筒を差し出した。彼女は、口をぱくぱくさせながらそれを受け取ると、ターミナルビル目掛けて一目散に駆けて行った。私は、祐子の後ろ姿を眺めると、鼻先で小さく笑った。
「本当に慌ただしい人だよね」
  みゆきは、横顔に苦笑いを浮かべた。
「降りないの?」
  私の問い掛けにみゆきは小さく首を振った。すると、気付いた様にシートから体を起こした。
「よけようか?」
「いや、良いや。待っていよう」
  私の答えに、みゆきはこくりと頷くと、再びシートにもたれた。私は、後ろの座席で大きく背伸びをした。そして大きな欠伸をして首を左右に振った。薄目の向こうに、小さく首を動かすみゆきが見えた。何か見えるのかと思い、私もみゆきと同じ視線を外に向けた。けれども、駐車場にまばらに止まっている車しか見えなかった。不意に私と目が合ったみゆきは、ぎこちない笑みを浮かべた。その取繕うような彼女の表情を見た時に、私は、嫌な予感を抱いていた。みゆきは私から目を逸らすと、小さな溜息を吐いた。私は、みゆきの顔をまともに見られなくなって足元に視線を落とした。
「飛行機って……」
  みゆきはこう囁いて言葉を止めた。その声は、細く掠れていた。私が再び目を上げると、みゆきは口元に手を覆って遠慮がちな咳払いを一つした。
「この辺りって、あんな小さな飛行機が飛んでるんだね。あれが千歳に行くの?」
  みゆきに言われて滑走路の方を見ると、ターミナルのエプロンには、十人乗りくらいの双発機が止まっていた。
「まさか。あれは利尻か礼文に行く飛行機じゃないかな?」
「そうなんだ。千歳から来る飛行機は、まだ着いていないのかな?」
「そうだね。午後の一時を過ぎないと来ないよ」
  私が時刻表を捲っていると、みゆきはこんな事を聞いてきた。
「ここの空港って、千歳と離島便しか飛んでいないんだ」
「いや、あと丘珠便が三往復してるよ」
「丘珠って、何処に有るの?」
  みゆきの声が少し上ずった。その声を聞いた時、私は、胸騒ぎを覚えていた。
「札幌だよ。市内に北海道内便専用の飛行場が有るのさ」
  平生を装いながら、時刻表から顔を上げた。すると、みゆきの表情が先程よりも更に強ばっていた。
「その飛行機って、ここに何時に着くの?」
  みゆきの声は、微かに震えていた。
「今からだと、十二時五十分に到着するね」
  私は、答えながらみゆきの表情を観察した。彼女の黒目が、何処に定まる訳でもなくそわそわと動いていた。彼女は、明らかに外の様子を気にしていた。けれども、まともに見るのを躊躇っていた。日焼け止めクリームで白くなった肌は、血の気が引いて透き通るように白かった。
「小樽の男の人?」
  独り言の様に小さく呟いた私の問い掛けに、車内の空気が冷たくなっていくのが分かった。みゆきは、動きを止めた。そして今まで泳いでいた瞳を私にじっと向けた。私は、口にしてしまった後悔の念と、走り出したみゆきへの探求心が、胸の内で複雑に入り組んでいた。
「エンジン、掛けようか」
  みゆきは、白い吐息を漏らしながらぽつりと呟いた。私が相槌を打つと、みゆきは、ハンドルの下に手を伸ばしてエンジンキーを捻った。ヒーターのファンの音が耳についた。同時に、車内に空気が流れ始めた。みゆきは、シートに体をもたれると、顔を上げて目を閉じた。そして、肩で大きな溜息を一つ吐くとフロントガラスをじっと見詰めた。
「あの人に見つかると、祐子さんの前であなたと恋人でいられなくなってしまう」
  みゆきは、淡々とした口調で一息に言った。寂しさが漂うみゆきの横顔を見た時、私は、小樽で見た男を頭の中で蘇らせていた。暗がりでその表情は良く分からなかったが、みゆきへ向けられた瞳をはっきりと見ていた。みゆきに追い縋るような彼の視線を思い出すと、背筋に寒気が走って身震いがした。彼は、みゆきの何なのだろう。みゆきとの間に何が有ったのだろう。そんな疑問が脳裏を過ぎった。勝手な想像を思い巡らせていると、脇の下から染み出た汗が、脇腹を駆け下りた。心臓の鼓動が、やけに早くなっていた。息苦しくなって、浅い息を何度も吐いていた。下唇を噛み締めて、その不快感に耐えていた。
「それは……、困る」
  私は、吐息と共に言葉を吐き出した。今度は、みゆきが下唇を噛み締めた。二人の間に重い沈黙が圧し掛かった。私は、たまらず、胸ポケットから煙草を引っ張り出して火を点けた。そして、煙草とライターをセンターコンソールに置いた。みゆきは、煙草に手を伸ばしかけたが直ぐに引っ込めた。私は指先に挟んだ煙草の先から、細く漂う煙草の煙を眺めていた。すると、不意にみゆきと目が合った。
「何も聞かないのね」
  みゆきは、合わせた目を逸らさなかった。私は、その視線から逃れられなかった。生唾を飲み込むと、肩で大きく息を吸い込んだ。
「今、それを聞いてどうするの?」
  小樽の男の事を、そしてみゆきの過去を聞きたくない言い訳だった。けれども、口にしてから思わず顔を顰めて俯いた。言ってはいけない言葉だったと後悔していた。めまぐるしく変わって行く自分の気持ちに、辟易していた。一方で、自分の気持ちを見詰め直す冷静な自分も居た。胸の中に、焦る自分と冷静な目をした自分が同居していて、変な気分だった。
  みゆきの奇麗な指先が、センターコンソールに置いた煙草の箱に伸びた。
「窓、少し空けていい?」
「ああ」
  私が吐息だけでそう答えると、前のシートでライターを擦る音が聞こえた。細く空いた窓の隙間から、白い煙が外に出てゆき、代わりに冷たい空気が内側から火照った頬を刺した。
「私ね」
  言葉を止めたみゆきに促される様に、私は顔を見上げた。みゆきは、私と視線が合うのを確認すると小さな深呼吸をした。そして、続きの言葉を口にした。
「人の前で、煙草なんか吸った事無いのよ」
「友達の前とかでも?」
「そう。こうして人前で煙草を吸ったのは、この旅に出てから」
  みゆきは、灰皿へ器用に灰を落とした。私が「へぇ」と相槌を打っていると、右手に持っていた煙草の灰が膝の上にぽとりと落ちた。それを見ていたみゆきは、ポケットティッシュを一枚、私に差し出した。
「今まではどうしてたの?」
  私の疑問に、みゆきは、大きな瞳で私を見詰め返した。私が、「煙草を吸いたい時は」と、言葉を付け足すと、気付いたように頷いた。
「今は、アパートの窓際で吸ってるわ。勿論、一人でね」
「もう二十歳過ぎてるんでしょ?別に人前で吸ったって良いじゃない」
  するとみゆきは、苦笑いを浮かべて答えた。
「昔からの癖ね。それに、人前で吸う勇気も無かったし」
「昔からって、何時から吸い始めたのさ」
「高校三年の秋くらいかな」
  みゆきは、短くなった煙草を灰皿に揉み消すと、その吸い殻を指先でもてあそんだ。そしてそれも灰皿へ落とすと、こんな話を始めた。
「その時期にね、母が再婚したの。義理の父にもね、娘がいたの。その子に煙草もお酒も教えて貰ったわ」
「その子って、年上だったんだ」
  みゆきは、小さく首を振ると、一呼吸置いて答えた。
「同い年で学年も一緒。でも、誕生日が私の方が早かったから、私が姉、その子が妹になったの。一人っ子だった私にある日突然、姉妹が出来ちゃったのよ。変な気分だったわ」
「妹さんとは、仲が良くなかったの?」
「いえ、良かったわよ。初めはね、彼女も私も一人っ子だったから突然姉妹が出来て、どうなるのかと思ったけど。でも、お互いに興味を持ち始めて、それが良い方に動いて、結果的には血の繋がった姉妹以上に仲が良かったと思う」
  みゆきは、ほっと息を吐くと再び唇を動かした。けれども、声にはならなかった。そして言葉を飲み込むように、大きな溜息を吐いた。私は、嫌な間が二人を覆ってしまう前に、直ぐに口を開いた。
「酒も煙草も妹さんから教えてもらったって、妹さん、随分悪かったんだね」
「悪かった、って?」
  みゆきの反問に、私は、答えに窮した。
「なんかさ、不良少女、みたいじゃない……」
  言葉尻を濁す様に小声で答える私に、みゆきは、「そういう言い方もあるわね」と言って、思い出した様に鼻で小さく笑った。
「でもね、彼女、私よりも勉強は出来たし、スポーツも出来たし、明るかったし……、なにより、大人だった。何でも知ってたわ。私なんか、世間の事なんか何も知らなかった」
  みゆきは、そう言うと表情を曇らせた。
「君が煙草を吸っているのを見たことがあるのは、君の妹さんと、祐子さんと、僕だけか……」
  私は、みゆきの口からこれ以上、身の上を話されるのを恐れて話題を摩り替えた。
「そういう事ね」
「だとしたら、もし、小樽の男の人が君が煙草を吸っている姿を見たとしても、君だとは分からない」
  私の例えに、みゆきは苦笑いを浮かべた。そして、私を見つめて一息つくと「そうかもね」と言って頷いた。
「仮にね、あの人にまた会ってね、あの人にトウノミユキだろうって問い詰めてられても、私はね、人違いです、自分はフジノミユキですって答える積もりよ」
  みゆきの決意に、私は、「へぇ」と一言呟いた。
「そうしようと決心したのは、あなたのお陰よ……」
  みゆきは、穏やかな表情を浮かべてそう呟いた。みゆきの瞳に、頬を強ばらせて黙り込む私の姿が写っていた。



















つづく



 



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