思いで


その39




  私は、玄関で脱いだ靴を揃えているみゆきの姿をぼんやりと眺めていた。
「悪いね」
  私がそう声をかけると、土間にしゃがみ込んでいたみゆきが、顔を上げて微笑を見せた。その微笑の内には、今更、どうしてそんな事を言うの?とでも言た気な表情も含まれていた。そのニュアンスを読み取った時、私は胸を締め付けられる思いがした。みゆきへの思いにこのまま突き進んでいいものか、立ち止まった方がいいのか、それとも、他に何か良い方法が有るのか、そんなことを考えていた。けれども、幾ら考えても策なぞ見つかる筈も無かった。そして、立ち上がるみゆきの姿を見た時、考えるだけ無駄なのかなと思い始めていた。
  すると、奥の方から大きな足音が聞こえてきた。薄暗い階段を覗き込むと、上から裕子が慌てて降りてきた。彼女は、自分の雪靴に足を突っかけると、じれったそうにかかとに指を突っ込んでいた。
「どうかしましたか?」
  みゆきの問い掛けに、裕子は苦笑いを浮かべた。そして答える時間も惜しそうに、口をもごもごさせた。
「もう出るよ。時間が無いのよ」
「時間? 何のですか?」
  私が声をかけると、裕子は頭に手を乗せて顔を顰めた。
「兎に角時間が無いのよ。荷物を置いたら、大至急、下に降りてきてね。宜しく」
  そう言うと、勢い良く玄関の引き戸を開けて慌てて出て行った。
  私達が二階の部屋から降りてくると、裕子が運転席に座っていた。私がのろのろと後ろの座席に腰を下ろしていると、急かすように裕子が振り向いた。そしてみゆきが助手席のドアを閉めると、車はヨーロッパ辺りのニュース映画の様に勢い良く発進した。
  駅前の信号を左折して国道にぶつかると、車は更に速度を上げた。私は、ルームミラー越しに裕子の目線を覗き込んだ。その目は、完全に座っていた。みゆきの手もしっかりとドアの取っ手を握り締めていた。私は、なんだか可笑しくなって笑いが込み上げてきた。けれども、裕子の前であからさまに笑うのも悪い気がして、声を押し殺した。けれども肩を小刻みに揺らした。みゆきは、ちらりと後ろに目をやると私の仕草に苦笑を浮かべていた。
「時間が無いって、何の時間が無いんですか?」
「飛行機よ。早くしないと千歳行きの飛行機が出ちゃうのよね」
  みゆきの問い掛けに、裕子はまっすぐ前を見て答えた。
「千歳行きの飛行機ですか? まさか……」
  私がそう言いかけた時、ルームミラー越しに裕子の視線を感じた。目は、にやけている。
「邪魔な私にはさっさと帰って欲しいって?えぇ、帰るわよ」
「いや、そんな事は……」
  私が、その先の答えを口に出来ずに頬を引きつらせていると、更にこんな事を言い始めた。
「私が居なくなれば、今晩みゆきさんと二人っきりであの部屋に泊まれるもんねぇ。そしたら、心置きなくあれも出来るし、これもできるよ」
  裕子は、黒目だけを後ろに向けて私を見ると笑みを漏らした。その微笑みは、さっきまで彼女が抱いていた企みを再び蒸し返している様にも見えた。私は狼狽した。裕子は鼻で笑うと、前に向き直った。そして、ミラー越しに再び私を見ていた。その眼差しには、疑問の光が宿っていた。
「どうして、二部屋にしなかったの?」
  私は、裕子の次の言葉を予想していた。無論予想通りの言葉が、私の前に投げかけられた。けれども、予想だけで、対処法を全く考えていなかった。私は、黙っていた。さも聞こえない振りをして、裕子の後頭部を見ていた。
「今日は混んでいるっておばさん言ってたけど、もう一部屋くらい何とかなるわよ。帰ってからもう一部屋くれって言っても、きっと用意してくれる筈よ。なんなら私が交渉してあげようか?」
「いや、もう決めた事だから……」
  私の曖昧な答えに、裕子は、大きく首を捻って見せた。そして、大きな溜息を吐くと、呆れた様な瞳を見せた。
「二人とも若いんだからさぁ、あれ、したくないの?旅に出てから暫くしてないんでないの?違う所でするのも、新鮮味が有って良いものだよ」
  じれったそうに諭す裕子に、私は黙って苦笑いを浮かべるしかなかった。裕子の顔色が赤くなっていった。何か答えないとまずいと思った。放っておいたら裕子がとんでもない大胆な事を言い出すに違いないとも思っていた。けれども、言葉が思いつかなかった。浮かんではいた。裕子の言いたい事も何となく分かっていた。だが、適当な言葉を選び出す事が出来なかった。裕子の湧き出る言葉や仕草に、恐れを成して尻込みしていたのかも知れない。裕子は、堪忍袋の緒をプツリと切ったのか、荒げた語気を投げつけて来た。
「それとも、嫌いなの?」
「嫌いって?」
  私の反問に、裕子はがっくりと肩を落とした。そして、ミラー越しに嘲笑を浮かべていた。
「セックスよ」
  裕子の口から出た単刀直入なその単語を聞いた時、私は、自分の耳を疑った。そして、その単語を理解すると、思わず赤面した。赤面はしたが、この質問には答えなければならないと、即座に言葉を捜し始めた。けれども、焦って喉に痰が絡んだ。急いで咳払いをすると、畏まって答えた。
「……そんな事はないですよ。ただ……」
「みゆきさんは、あれでよかったの? 私、邪魔じゃない?」
  裕子は、愚図愚図していた私の答えを聞くタイミングを逸した。もっとも、思い返して見れば、裕子は初手から私の答えに聞く耳を持っていなかったのかもしれない。結果的に、私の言葉を遮った。けれども、私は、何処からとも無く沸いてくる安堵感に胸を撫で下ろしていた。その代わりに、裕子の視線はみゆきの方に向けられた。
  外は、右手に見える丘陵に銀世界が広がっていた。左手に見える海岸線に、海が下波を立てていた。フロントガラスに無数の細かい粒の雪が当たった。それがデフロスターの熱で融けていくと、フロントガラスに無数の水滴が広がった。裕子は、ワイパーのスイッチを入れた。跡形も無く水滴がふき取られて視界が開けた瞬間、視線を落としたみゆきの表情がフロントガラスに映し出された。半透明なその姿は、とても綺麗で妖精の様にも見えた。映し出されるというよりも、ガラスの上に浮いていると言った方が適切な表現だった。けれども、ワイパーのスイッチが間欠だったので、フロントガラスにはまた無数の雪の粒が当たった。それが直ぐに、融けて水滴になった。暫くして間欠ワイパーが、水滴を拭き取った。すると再びみゆきの姿がガラスの上に浮き上がった。私は後部座席で、その繰り返しをぼんやりと眺めていた。
  みゆきは、ドアの取っ手に肘を乗せ左手で頬杖をついていた。艶やかな長い髪の毛が、左斜めに傾げてそれが真下に一直線に伸びていた。車が雪に取られて揺れるたびに、髪の毛の奥から、白いうなじが見え隠れしていた。その透き通るような肌を見た時、私は、そこに顔を埋めてみたいと言う衝動に駆られた。
  みゆきのうなじには、二度顔を埋めたことが有った。けれども、どちらも突然の出来事でその余韻を味わう余裕など無かった。二つの出来事共、彼女の匂いも肌や髪の感触も何も覚えていなかった。特に、連絡船での出来事は頭の中が空っぽだった。残ったのは、虚しさだけだった。
  もし、二人とも正常な心でお互いを求め合ったとしたら、どうなるんだろう。不図、そんな疑問が脳裏を過ぎった時、私は、夜の部屋、みゆきと二人っきりになった場面を想像していた。窓にかかった薄汚いカーテン。細く火がついたストーブ。何処からとも無く隙間風が吹き込んでいるのか、部屋が全然暖まらない。六枚の畳がはめ込まれた狭い部屋。その上に間無く並べられた二つの布団。……、そこまで頭に思い描いたところで、私は、大きな溜息を吐いた。そして、その溜息とともに、脳裏に思い描いていた小さな部屋を自らの手で消し去った。頭の中をさまざまな色をした粒子が、はらはらと舞っていた。私は、その先を想像できなかったのである。仮に、その場面になっても、耐え切れるのか疑問だった。それより何より、みゆきと一晩床をともにする事なぞ想像出来なかったのである。暗に、その部分を避けているのかも知れない。兎に角私は、頭の中を真っ白にする事にした。そして、細く長い溜息を吐いた。すると、頬のあたりが緩んで行った。その場から逃げ出して一時の安心を噛み締めていたわけではない。無意識のうちに、自嘲していたのである。
  みゆきは、裕子の質問に何も答えなかった。裕子もまた、それ以上みゆきに問い質す事をしなかった。私は、二人の後姿を眺めていた。狭い車内には、沈黙が漂っていた。けれども、その沈黙は、決して重いものではなかった。その静けさは、どうしてだんまりを決め込むみゆきを裕子が攻め立てないのかを私に考える余裕さえ与えてくれた。もっとも、その答えを見出す事は出来なかった。
  私は、諦めて窓の外を眺めていた。大岬まで何キロ、稚内空港まで何キロと書かれた行き先板が後ろに流れた。すると、裕子は振り返りながら「あっ」と小さく声を上げた。そして間もなく、私の名前を呼んだ。私は、返事をして、運転席の方に身を乗り出した。
「後ろにカメラケースあるでしょ?」
「はい」
  私は、再び後部座席に戻ると、ハッチバックに置いてある裕子のカメラケースを引っ張り出した。
「その中にさ、撮影済みのフィルムが六本入ってる筈なんだけど」
「はい、有りますね」
「で、カメラケースの蓋の裏にポケットが有るでしょ?」
「書類と封筒が有るけど、見て良いんですか?」
「良いよ。その書類は、航空貨物の送り状なのよ。送り先は東京の出版社になってるでしょ?」
「はいはい」
「悪いんだけどさ、私の名前の隣に、稚内写真って書いてくれないかな。下の備考の欄に千歳経由って書いておいて。ついでに、封筒に  そのフィルム入れておいて。ガムテープは、カメラの下になってると思うからさ」
「飛行機ってその事だったんですか」
  私は、そのやり取りで、裕子が言っていた「飛行機の時間」の意味がやっと分かった。
「悪いね、私が帰るんじゃなくって」
  裕子は、振り返るとニヤリと笑った。けれども、私の反応を確かた訳でもなく直ぐに前を向くと、説明を始めた。
「羽田行きの直行便が飛んでないから、千歳経由で羽田にフィルムを送るの。稚内空港から千歳に行く便が日に一本しか無いのよ。これを逃すと、明日になっちゃうからさ」
「へぇ、今日撮ったフィルムをもう送るんですね」
「締め切りも近いんだけど、それより編集長にみゆきさんの姿を早く見せたいのよ」
  みゆきの横顔に、苦笑が浮かんだ。
「編集長の喜ぶ顔が目に浮かぶよ」
  裕子は、遠くを見る様に瞳を潤ませた。そして小さくニ三度頷くと嬉しそうな笑みでみゆきを見た。
「みゆきさんのお陰で良い写真も撮れたし、今夜も呑むからね、みゆきさん」
  前の二人は、一瞬顔を見合わせると笑い出した。私は、二人の姿を見た時、同姓同士にしか分からない何か通じ合うものがあるのだと感じた。


















つづく



 



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