思いで


その38




  部屋は、静まり返っていた。ストーブに乗ったやかんの蓋が、蒸気でかたかたといっているだけだった。
  祐子は、私の突然の不意打ちに何も手が打てない様子だった。ただ、鋭い眼光だけ私に向けていた。その光は、驚きというより、私の言葉の真意を探っている様にも思えた。みゆきは、私の隣で黙って俯いていた。私は、おばさんの顔をじっと見詰めた。おばさんは、私達の雰囲気に呑まれかけたのか、ぽかんと口を開けて黒目を泳がせていた。私が咳払いをすると、何かから覚醒する様に頬の辺りを少し引きつらせた。そして、首を傾げると確かめる様に私の顔を覗き込んだ。
「一部屋でいいのかい?」
「ええ、部屋は一つで良いです」
  私は、即座に答えた。
「今日は、この通り混んでるから、そうしてもらうとこっちは助かるけどね。そっちのお姉さんも、それでいいんだね」
  みゆきは、小さく頷いた。おばさんは、みゆきの態度を確認すると、「じゃあ」と言って立ち上がった。そして、茶箪笥の引出しから小さな紙切れを一枚取り出すと、裕子に差し出した。
「あんたも、それでいいでしょ?」
  おばさんに念を押された祐子は、憮然とした表情で一つ頷いた。そして、紙切れに何かを書き入れるとみゆきの前に差し出した。みゆきの手元を覗き込むと、その紙切れは、宿帳だった。みゆきは、ペンを持って名前を書き込んでいたが、「あっ」と小さく声を上げると宿帳の上でボールペンをがりがりと擦っていた。
  宿帳が私の目の前に来た時、思わず肝を潰した。みゆきの苗字の上に有った振り仮名の欄の書き始めが、黒く塗りつぶされていた。「フジノ」と書かれたその文字も、何となく余所余所しかった。私は、さっさと名前を書くと、裕子に見られない様におばさんへ手渡した。
  おばさんは、その紙をろくに見ないでさっきの引出しへ戻すと、風呂の時間と飯屋の案内をした。そして、一泊三千五百円の宿代は前払いだと説明すると、卓袱台の上に手提げ金庫を置いた。一泊三千円と言う話は、祐子の勘違いだった。けれども、祐子は三千円でおばさんと値段交渉を始めた。
「全く、カンノさんにはかなわないねぇ」
  小言を言うおばさんの顔に苦笑が浮かんだ。
「だから、カンノじゃなくってナカノだよ。何度言ったら分かるのよ。今度間違えたら、宿代棒引きにしてもらうよ」
「ただはまずいねぇ。領収書は何時もの通りの名前で切っていいんだね?」
「金額は九千円で切ってね」
  祐子の注文に、おばさんは目だけで祐子の顔を覗き込んだ。
「経費、水増し請求して飲み代にでもまわす積もりかい?」
「違うよ。今日は、私がここの宿代を持つんだよ」
  祐子の言葉に、おばさんはにやりと笑った。そして疑いの眼差しを向けていた。
「彼等にはモデルになってもらってるの。だから、今回の取材は、彼等の宿代も経費で落とせるのよ」
  おばさんは、持っていたボールペンを置くとみゆきの顔を見た。みゆきは、おばさんと目が合うと、
「ええ、そうなんですよ」
  と言って頷いた。
「そうなんだ。良く見たら、このお姉さん、綺麗だもねぇ」
  おばさんは、みゆきの顔をまじまじと見詰めると小さな溜息を吐いた。みゆきは、顔を赤らめながら、
「いえ、そんな事は、……」
  と小刻みに首を振った。
「でも、この人ったら人使い荒くて大変でしょ?」
「その分、貰うものは貰ってますから」
  私の話に、おばさんは苦笑を浮かべた。
  領収書を切ると、おばさんは私達が今晩使う部屋に案内してくれた。八畳くらい部屋の真中に、ポット式の古めかしいストーブが置いてあった。これくらいのストーブでないと、夜になったら暖まらないのだろう。白い吐く息を見ると、寒さが想像出来た。部屋の窓から、稚内駅の線路の終端が見えた。その奥に、フェリーターミナルが有って、船がゆらゆら揺れていた。
「ああ、この前の部屋だ。ここなら三人でも余裕で寝られるねぇ」
  裕子は、部屋の中を見回すと、ほっと息を吐いた。
「そうそう、この人ったらさぁ、この前、連泊してもらったのはいいんだけど、忙しいからって自分の洗濯物、私に押し付けてさぁ。しかも、部屋に干しておけって言うのよ」
  おばさんは、壁伝いに張ってあった細い紐を指差して笑った。
「どうせ、おばさんも洗濯するでしょ? ついでだもん、それくらい、いいじゃない」
「ほら、この言い草だよ。カンノさんには本当、かなわないわ」
  おばさんは、祐子の苗字をわざと間違えているに違いないと思っていた。けれども、祐子は、本気で怒る事も無く苦笑いを浮かべているだけだった。二人のやり取りを聞いていても、不思議と嫌みを全く感じなかった。それは、祐子が常客だからと言う理由だけでは無かった。このおばさんが醸し出す独特の雰囲気が、そう感じさせるのだった。
「部屋は、もう使っていいからね。布団は、後で用意しておくから」
  おばさんは、部屋の鍵を裕子に手渡すと、思い出したようにこう付け加えた。
「何時に帰ってくる?」
「そんなに遅くはならないと思うけど。車も返さなきゃならないしね」
「お風呂の時間まで帰ってきてね。この前なんか、お風呂の時間は九時までだって散々釘をさしたのに、あんたったら、さっぱり帰ってこなかったもねぇ。帰ってきたと思ったら、酔っ払って階段の所で寝転んでるし。あの時は大変だったのよ」
「今日は、この二人がいるから大丈夫だよ。それに今回は写真だけじゃないからやる事もあるし」
  怒ったように裕子は答えた。そして振り返ると、私の隣で声を殺してくすくすと笑っているみゆきの顔を見た。祐子は、頬の辺りを引き攣らせていた。それは、みゆきに対して不快を現していると言うよりも、みゆきの表情に少し驚いている風に見えた。私も、みゆきがあからさまに自分の感情を表に出した表情を見たことがなかったので、少し戸惑っていた。祐子は、米神の辺りを指先で掻くとこんな提案をした。
「じゃあ、いらない荷物は置いていこうか」
「ああ、荷物なら僕達が取ってきますよ」
「それじゃ、ボストンバックだけ持ってきてちょうだい」
  祐子はそう言うと、おばさんと話を始めた。私は、みゆきの手を引いて部屋を出た。
  車の中で荷物の整理をしていたみゆきは、明るかった。祐子とおばさんの声色を真似しては笑っていた。私も、みゆきに釣られて笑っていた。けれども、それは上辺だけだった。心の中は、どんよりと曇っていた。私は、自分がしたことがお互いにとって良かった事なのか、考えていた。その事を、みゆきへ確認したかった。だからみゆきを連れ出したのだ。けれども、その一言を口に出すべきなのか迷っていた。
「あのおばさんも、結構人の良さそうな人だよね」
「ん? ああ、そうだね」
  上の空に答える私に、みゆきは手を休めて顔を上げた。私は、みゆきから視線を逸らして、後部座席に身を乗り出した。すると、その背後から、みゆきが問質してきた。
「どうしたの?」
「いや……」
  私は、俯いて小さく溜息を吐いた。そして、乾いた唇を舐めるとゆっくりと振り返って見た。みゆきは、穏やかな表情をしていた。ここで切り出さなければ、二人になった意味が無くなる、そう思った私は、思い切ってこんな言葉を口にした。
「……これで良かったんだよね」
「今日、泊まる事?」
「それもあるけど、……部屋の事」
「……、ああ」
  みゆきは、思い出した様に呟くと、視線を落とした。
「祐子さんと一緒の部屋で良かったんだよね」
  私は、念を押した。みゆきは、微かに首を傾げた。だが、直ぐにそらした視線を私の方へ向けた。
「あなたが決めた事だから……、それで良いじゃない」
  穏やかに答えるみゆきの語気に、私は逸らかされた気がしていた。
「そうなんだけど……」
  自分の声が少し上ずっているのに驚いた。吸い込む息が少し震えていた。咳払いをすると、続きの言葉を切り出した。
「君は、それで良かった?」
  みゆきは、下唇を噛み締めた。私は、黙っているみゆきを更に問い詰めた。
「どう思ってたの?」
「どうって?」
「僕が、……勝手にそうした事をさ」
  堰を切るように投げつけられる私の質問に、みゆきは表情をくぐもらせた。瞳の奥に、困惑の光を宿していた。そして、再び視線を落とすと、溜息を漏らした。
「分からないわ」
  みゆきの囁き声が、私の耳の内に寂しく響いた。私は、鉛を呑み込んだように、胸の底が重くなった。苦虫を噛んだように、頬を引き攣らせた。すると、みゆきはこんな事を口にした。
「でも、この旅を続けていれば、必ずその時が来るんだろうね」
「その時、って……」
「二人だけで、宿に泊まるって事……」
  みゆきの囁き声は、諦めとも覚悟とも解釈出来た。
「多分ね」
  私は、吐息だけで何とかそう答えた。心の中は複雑な気持ちで満たされていた。みゆきもまた、複雑な気持ちを抱いていた。それは、彼女が醸し出す雰囲気で分かった。けれども、その気持ちは、私とは微妙にずれている物だとも思った。そこに気付いた時、胸の内に不安の念が込み上げてきた。それを押さえ切れずに、思わず言葉を口にしていた。
「それってさ、祐子さんと出会う前の僕達の関係に戻って、その場面を迎えるって言うこと?」
  みゆきは、少し首を傾げた。そして、小さな溜息を一つ吐くと、静かな口調で私の言葉を言い退けた。
「別に戻る必要は、無いんじゃない?」
  みゆきの冷静な顔色を見た時、私は、胸の内から言葉が消えて行くのを感じた。みゆきと私の気持ちの微妙なずれはここに有るのだと気付いた。
  私は、意識が別の所へ飛んでいくのが分かった。荷物の整理もそぞろにその場に立ち竦んでいた。みゆきは、澄ました顔であの大きな鞄を引っ張り出した。そして、「ねぇ」と声を掛けられた所で、私は、意識を取り戻した。自分の鞄とみゆきの大きな鞄を持ちあげると、二人並んで歩き出した。

















つづく



 



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