思いで


その37




  それから小一時間粘ったにもかかわらず、天候は一向に好転しなかった。結局、島影すら拝めなかった。裕子は、諦めたのか展望台からとぼとぼと引き返して来た。そして、体にこびり付いた雪をだるそうにほろい落とすと、肩を落としながら無言で荷物を片付けていた。車を出してからも、後ろの席で溜息ばかり吐いていた。その吐息は、私達の所まで届きそうな勢いだった。私は祐子のその落胆ぶりが訳も無く滑稽に思えて、腹の中で笑いを堪えていた。
  車が稚内市街に戻って来た頃には、既にお昼になりかけていた。再び防波堤の脇を通り過ぎると、離島行きのフェリー埠頭に車を停めた。雪は小降りになっていたが、風が強くなっていた。その風に煽られて、海面に白波が立っていた。海のそばまで歩いて行くと、波のしぶきが頬に掛かるのが分かった。沖に突き出した防波堤の向こうは、海面が目で見えるくらいのうねっていた。そのうねりが港の中に入って来て、岸壁に停泊している二隻のフェリーを揺らしていた。そして、うねる度に陸と船とを繋いだ太いロープがぎしぎしと音を立てていた。その様子を見ていた裕子は、腕組みをして唸り声を上ていた。
「どうしましたか?」
  みゆきは、首を竦めながら裕子の方に向いた。
「船、止まったなぁ」
「船ですか?」
「そう、利尻、礼文行きの船が全部止まったみたい。二隻共今ここにいるって事は、多分欠航したんだなぁ」
「この時化じゃ、どうにもならんでしょう」
  私は、煙草の吸殻を風に押し戻されないように思いっきり海に投げ込んだ。
「まぁ、そうなんだけど、そうなるとさ……」
  裕子は、吹いてきた突風に口元を抑えると、顔を顰めながら再び口を開いた。
「そうなるとね、宿が混むのよ」
「どうしてですか?」
  裕子は、何も知らない私を嘲笑うように口元を歪めると早口で答えた。
「島に渡る人達が夜行で稚内に出てきたのは良いけど、足止めくらうでしょ。この時期、船は朝の一便しか出ていないのよ」
「なるほどね」
「足止め食らった人達は皆、船が出るまでここで宿を取るしかない。そうなると、宿も混んで来るわけ。一応、ターミナルを見に行きましょう」
  祐子は、言いたい事を全て吐き出すと不機嫌そうにぷいと体を返した。そして私達を置いて、どしどしと歩き出した。私は、祐子の後ろ姿を見て思わずこんな言葉を漏らした。
「利尻島を撮影出来なかったのが、かなり堪えてるんだんだな」
  私の隣で、みゆきが頷いた。
「あなた、八つ当たりされてるし」
「何言ってるの。君が八つ当たりされるかと思って、僕が身代りになって上げんじゃないか。そんな事も分からんかったのかなぁ」
  私は、口を尖らせてそう言いったが、顔はにやけていた。みゆは、顎を引くと閉じた唇の間から舌を出して見せた。
「しかし、僕なんかより祐子さんの方がよっぽど感情が表に出るよね」
  二人は、片手で口元を塞ぐと、顔を見合わせて笑った。
  ターミナルビルは、既にひと気も無く、閑散としていた。高い天井から申し訳程度の照明が灯っていたが、全体的に光が行き渡っていなくて薄暗い感じがした。薄汚れたカーテンの掛かった切符売り場には、本日欠航の看板が掲げられていた。それを見た裕子は、溜息を吐いて舌打ちをした。
「やっぱりだ。こんな事してる暇無いや。先に宿探さなきゃ」
  諦めた様な語気でそう呟いていた。ぼさぼさになった頭を掻きながら振り返る祐子と、私は目が合った。
「祐子さんは、最初から泊まる予定でいたんですか?」
「昨日は、私も今晩の夜行で札幌に戻るつもりでいたけども、こう電車ばかり乗り継いで揺られているとさ、さすがに疲れたわ」
  笑顔で答える祐子の表情は、さっきとは丸で別人だった。そして柔らかい瞳をみゆきに向けると、言葉を続けた。
「それにね、真面目に原稿も書きたくなったしね。あなた達に見せる原稿、車の中で書こうとしたんだけど、眠くて書けやしなかったもの。みゆきさん、運転上手いから安心して寝られたもんね。だから、今晩泊まる事にしたの」
  みゆきは、微笑みながら祐子の話を聞いていた。祐子の気持ちの切替えの速さに些か驚いたが、ぎすぎすしていた場の雰囲気が、一気に和んだ気がした。私は、祐子に聞いて見た。
「ホテルに泊まるんですか?」
「いや、何時も泊まってる安宿よ」
「へぇ、幾らくらいで泊まれるものなんですか?」
「素泊まりで、三千円だったっけなぁ、確かそんなもんよ」
「三千円か」
  三千円で一泊出来るのは魅力だった。すると、祐子はこんな事を言い出した。
「そうだ、君達も一緒に泊まって行かない?宿が空いてたらの話だけど」
「どうしようかなぁ」
  愚図愚図している私に、祐子は即座に答えた。
「宿代くらい出すわよ。その代わり、明日も私と一緒に周ってくれると有り難いんだけどな」
  祐子の提示は、自分の懐を痛めずに休息が取れる好条件だった。不図目を向けたみゆきの反応も、決して悪くはなかった。
「周るのは構わないんだけど、でも、宿代までだしてもらうのは悪いなぁ」
  私の心に引っかかるものがあった。
「なに、どうせ経費で落とすから良いのよ。全てモデルの経費。そうしてもらうと、こっちも金銭的に助かるのよね」
「モデルって、僕、肩身が狭くなる一方だな」
  頭を掻いている私の背中を祐子は叩いた。
「達也君もその内モデルになってもらうから、心配しなくていいよ」
  私は「へへぇ」と言いながら、再びみゆきの顔色を伺った。けれども、彼女も迷っている様だった。私と同じ迷いを抱いている様にも見えた。二人は、答えを出せずにいた。
「とにかく宿は直ぐそこだから。途中、寄って行ってくれない」
  痺れを切らした祐子は、車の方に歩き始めた。
  祐子を先に乗せる為に私は助手席のドアの側に立っていた。みゆきは、さっさと運転席に乗り込んだ。祐子は急いで車に戻った割には、乗り込むのにもたもたしていた。その様子を眺めている私に、祐子は意味ありげににやりと笑った。そして私の耳元で、こう囁いた。
「二部屋空いているといいね」
「えっ?」
  私が間の抜けた声を上げると、祐子はみゆきの様子を伺っていた。みゆきがシートベルトの場所を確認する為に私と裕子に対してそっぽを向いた格好になった時、裕子は再び囁いた。
「今晩、頑張ってね」
  その瞬間、私の心が凍った。祐子に私の迷いを見透かされている気がした。みゆきの声が聞こえるまで、その場に立ち竦んでいた。
  「さいはて」と言う名の看板が掛かったその宿は、今乗っている車を借りたレンタカー屋の向かいに有った。宿屋と言うよりは、下宿屋の様な佇まいだった。民家の様な引き戸をがらりと開けると、土間に靴が何足も並んでいた。それを見た祐子は、「やべぇ」と一言漏らすと、直ぐに右手の小さな硝子戸を覗き込んだ。硝子戸の向こうは、建て家具とテレビと卓袱台が並んでいて、ストーブに赤々と火が灯っていた。そこは、まるで茶の間そのものだった。しかし生憎、そこには誰も居なかった。祐子は、無遠慮な大声で、「ごめん下さい」と叫んだ。すると、奥の方から女の人の声が答えた。間もなく廊下の引き戸から、中年のおばさんが顔を出した。薄暗いのに顔の輪郭が浮いて見えるのは、厚化粧の所為だろう。
「宿泊かい?」
  そのおばさんは、年の割には若い声を出した。三人が一斉に頷くと、おばさんは少し悩んだ様な顔を見せた。けれども、すぐに笑顔を見せて、上がって来るように促された。
  三人は、さっきの茶の間に通された。おばさんはお盆からコーヒーカップを取り出すと、「寒かったしょ」と言いながら、コーヒーを入れ始めた。インスタントだったが、冷え切った体を暖めてくれるには十分だった。おばさんは、祐子の前にカップを置くと、思い出した様に声を上げた。
「あら、あんた、良くこっちに来るね。親戚でも居るんかい?」
「だから、仕事出来てるんだって、何時も言ってるでしょう」
  祐子は、声を荒げて否定していたが、顔は笑っていた。
「はいはい、思い出した。東京の出版社のカンノさんね」
「ちがう、ナカノよ。ナカノ。何度言えば分かるのよ。二週間前にも泊まってるでしょ」
「そう言えば、利尻の写真は撮れたんかい?」
「この天気だもん。今日も駄目だったよ」
  愚痴る祐子を余所に、おばさんは、みゆきと私に目を向けた。
「あら、こっちのお客さんは初めてだよね。東京から?」
「仙台から駆け落ちしてきた恋人同士なのよ。かくまってやって」
  裕子の悪戯に、私は、急に耳の辺りが熱くなった。顔を顰めて目の前で手を仰いで見せると、おばさんは笑っていた。
「まぁ、恋人同士には違いないんだけどね。所で、今日、部屋空いてる?」
「それがねぇ、この時化で今日、船止まったしょ。朝の汽車で稚内さ着いた人らが、船の欠航が決まったと同時に流れてきてさ。朝っぱらから大変だったのよ」
「だから、部屋、空いてるの?」
「混んでるけど、空いてるよ。そろそろカンノさんが来ると思ってちゃんと部屋空けておいたんだから」
  おばさんのとぼけた言葉に、祐子は眉間の辺りを指で摘まんで目を瞑っていた。会話の間が開いたその瞬間、私は、祐子の企みを先手を打って潰しにかかった。
「三人部屋、空いてますか?」
  部屋の空気が重くなるのを感じた。
















つづく



 



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