思いで


その36




  雪原の中の展望台での写真撮影は、海の向こうに浮かぶ利尻島が目当てらしかった。けれども生憎、海は鉛色の雲から引っ切り無しに舞い降りる細かな雪で視界が悪かった。肝心の利尻島は、何処にあるのか分からなかった。島が姿を現すのを期待して降りしきる雪の中、薄暗い海を眺めていたが、一時間経っても天候が回復する兆しは無かった。あまりの寒さに、私は撤収を促して車に戻ろうとしたが、裕子はそれを聞き入れなかった。仕方なく、私とみゆきは車に戻った。裕子は寒空の中、三脚に備え付けたカメラにタオルを被せてじっと海を見ていた。
  車に戻ると、みゆきはスノーブラシでフロントガラスに積もった雪を払い落とし始めた。たった一時間車を離れただけでも、雪の下に氷が張り付いていた。体をくの字に折ってガラスに着いた氷を取り除くのも、結構大変そうだった。
「後は僕がやるから、君は、中で休んでな」
  私の申し出に、みゆきはスノーブラシを手渡して来た。みゆきは運転席に座ると、エンジンを掛けた。そして、ガラス越しに彼女の目の前を大きくぐるりと指差した。その範囲の氷をがりがりと殺ぎ落とす私の姿を笑って見ていた。
  ヘラやブラシの先にこびり付いた氷や雪を振り落とす為に、スノーブラシを二、三回振り回すと、私も助手席に乗り込んだ。ドアを閉めてヘットレストに頭をつけると、車内の温もりに思わず「あったかい。」と漏らしていた。背もたれに寄りかかったが、手に持った長いスノーブラシが邪魔だった。仕方なく、一度落ち着いた体をそらして、後ろの座席の足元にスノーブラシを収めた。その時、みゆきと目が合った。彼女は目元に笑みを浮かべながら、「ありがとう」と、礼を言った。
「なに、これくらいはしないとさ。君にばっかり稼がせても申し訳ないし」
  みゆきは、ふふっ息を漏らしてと微笑するとワイパーのスイッチを入れた。そしてハンドルに両腕を乗せて、その上に顎を乗せた。
「少し、寝たら」
  私の問い掛けに、みゆきはかぶりを振った。
「中途半端に寝ても、かえって疲れるだけだから。それに、祐子さんがあんなに頑張っているのに私だけ寝られないでしょ」
「でも彼女、君が運転してる時、後ろの席で寝てたよ」
「裕子さんみたいな業界の人は、現場で頑張らなくっちゃいけないから、移動の時は大抵寝てるんじゃないのかな」
「そんなもんなのかな」
  不快の表情を隠さない私を見て、みゆきは苦笑を浮かべた。
「ああ言う人達はね、寝る暇惜しんで働いてるのよ。私が出版社でバイトした時なんか社員の人達、馬車馬の様に働いていたもん。物によっては、締め切りがきつそうだしね」
「でも君まで裕子さんに付き合う事無いじゃない」
「あなた、裕子さんの事、嫌い?」
  みゆきの突然の質問に、私は首を傾げた。
「嫌いじゃないけど……」
  確かに、嫌いの一言で裕子を跳ね除けるには躊躇いが有った。私が知らないみゆきの一面を裕子が引き出してくれるのだから、かえって感謝しなければならないと思っていた。それに、みゆきと私の間に、一種の防波堤を築いてくれているのも裕子だった。その防波堤に、私が身を寄せているのも事実だった。けれども、あの強引さには聊か辟易していた。特に、鋭い観察眼や詮索力には、悪戯に心を動揺させられた。だから、みゆきの質問を素直に否定出来なかった。
「私はね、裕子さんの事、好きだよ」
  みゆきは、さらりと言いのけた。裕子に詮索されて一番動揺しているのは、みゆきだった。にもかかわらず、どうしてそういう台詞が出てくるのか不思議だった。
「どういう所が?」
「何て言うのかなぁ……」
  みゆきは、腕組みをして暫く考え込んでいた。
「うまが合うのよね」
「うまが合う、か」
  みゆきは、上手い表現をするなと思った。その抽象的な表現は、裕子の雰囲気にぴたりと当てはまる気がした。
「あと、それにね。裕子さんって物をずばずば言うでしょ? そういう女の人、私好きなのよ」
「へえ」
「トイレとかで二人で話していると、楽しいわよ」
「どんな事話してるのさ」
「例えば、あなたの事だけど……」
  みゆきは、口元を抑えて想い出し笑いをした。
「なに」
  勿体つけるみゆきに、私は、少し不機嫌な声を出した。けれども、みゆきは気にする様子も無く、くすくすと笑っていた。
「あなたの髭面見てね、山オヤジやって言ってたわよ。笑うでしょ?」
  私は、力無く「ははは」と乾いた笑いをした。だが、裕子にそう言われてしまうと、怒る気にもなれなかった。それは、呆れていたり反感を抱いていたりしている訳ではなかった。嫌味が無く尚且つ人を不快にしないで物を説き伏せてしまう術を、裕子が持ってるのは事実だった。
「普通言えないよね。その山オヤジの相手を目の前にしてさ。だから言ってやったのよ」
「なんて?」
「髭を剃って髪も整えたら、格好良くなるんだからって」
「そうしたら?」
「首を傾げていたわよ。尤も、私も心の中で首を傾げていたんだけどね」
  みゆきは、手の甲を鼻の下に押し当てると肩を揺らしていた。
「どうして君まで首を傾げるの」
「見た事無いもの。あなたの素顔」
「ああ、そうだよね」
  睡眠不足で更に濃くなった頬の髭を摩った。みゆきは、小さく首を傾げると私の顔をまじまじと見ていた。
「髭を伸ばしている理由って何か有るの?」
「特には無いね」
「じゃぁ、どうして剃らないの?」
  今までは、伸ばす理由も剃る理由も無かった。面倒くさいから剃らない、気が向いたら剃れば良いやと言う軽い気持ちだった。けれども、改めてみゆきに問い詰められると、剃らない理由が頭の中に浮かんできた。私は、考えている振りをして頭に浮かんできた言葉をぐるぐる巡らせていた。だが、その言葉を口に出せなかった。代わりに不自然な笑いを浮かべた。みゆきも、それ以上髭の事を問い詰めてこなかった。その代わり遠い眼をしてこんな事を言った。
「不思議な感覚だよ。会って一日も経っていない人と友達になれた気がするんだから」
「そうだね、でも……」
  私は、次の言葉を続けるのを躊躇った。しかし、みゆきの瞳は私の言葉を待っている様だった。私は、小さく息を吐くと口を開いた。
「僕達だって同じようなものじゃないか。出会ってまだ三日目だもん」
「そうだね」
  思い返した様にみゆきは呟いた。そして、私を見詰めた。
「言われてみればそうなんだけど、何かそんな気がしないんだけどな。でも、実際そうなんだもんね」
  みゆきは、再び視線を遠くに移した。
「そんな事は、良いんだ」
  私は、話題を元に戻そうとした。すると不意に痰が絡んだ。何度か咳払をすると、みゆきの方に向き直った。
「ところで君、顔色、良くないよ。本当に大丈夫か?」
「そう?」
  みゆきは、自分の頬をなでると思い出した様に「ああ」と頷いた。
「昨日、祐子さんから貰った日焼け止めクリーム、さっき駅で塗ったからだ。乾いたから、色が目立って来たのかな」
  みゆきは、顔の角度を変えながらルームミラーを覗き込んだ。
「本当に白くなるんだね。こんなに違うよ」
  そう言ってみゆきは、シャツの上のボタンを一つ外すと、私の方にわざわざ襟元を広げて見せた。首の辺りを覗き込むと、クリームが塗られた部分と色白な素肌との境がくっきりと見えた。みゆきは、顎を引いて少し前かがみになった。すると、豊かに膨らんだ胸の谷間が目に入って来た。その時私は、思わず目を瞑っていた。
「どうかした?」
  みゆきの問い掛けに、私は右手を上げた。そして曇ったフロントガラスに目を向けると、大きく息を吐いた。
「ごめん」
「何が?」
「見ちゃった」
「何を?」
  私は、どうしてさっきみたいに意思が伝わらないのだろうと焦っていた。俯いて首の後ろを掻くと、噛み締めた唇を動かした。
「……胸」
  口元を濁しながらそう告白した時、顔から火がでそうだった。具体的な答えを聞いたみゆきは、さすがに恥じらいの声を上げていた。
「ええ? 胸なんか見えてないわよ。ブラでもずれてた?」
「いや、それは無い。……谷間だよ。胸の」
「あぁ、ごめんね。でも、そんな事くらいでそんなに顔を真っ赤にする事もないでしょう」
  みゆきは、笑っていた。
「そうかな」
「そうだよ。だって、これくらいで赤面してたら、夏の街中なんか歩く時、困らない?」
「どうして?」
「今の若い人達なんか、凄いからね。下手すると、この辺りまで胸を開けてる子いるもん」
  みゆきは、胸の辺りに腕を水平に翳すと苦笑いを浮かべた。私は、若い女性の素肌や胸元など注意して見た事も無かった。暗にそれを避けていたのかもしれない。夏に開襟シャツを着た同級生の女の子の襟元から、鎖骨が見え隠れしているだけでも目のやり場に困っていたのである。その時の私は、若い女の生身の体を知らなかった。知らないが故に女の人の体に対して、一種の神秘性を抱いていた。ましてや、みゆきの体だった。だから、こんなにも恥ずかしかった。頭の中も混乱していた。けれども、その感情をみゆきの前では、表に出したくなかった。男の見栄も有った。私は、乾いた唇を舐めると、強張った頬の辺りを整えた。
「そうだよね。凄いよねぇ。驚いちゃうよ」
  私は、感嘆詞を埋め尽くす事で、精一杯の虚勢を張った。















つづく



 



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