思いで


その35




  裕子が缶コーヒーを手に戻って来たのは、私達が車の前に佇んだ直後だった。
「どうかしたの?」
  裕子は、私の顔を覗き込んだ。みゆきも、私の顔を見ていた。私は、自分が素に戻ってしまっているのだと気付くと、慌てて不自然な笑みを作った。
「風が出てきましたね。一寸寒いや」
「ごめんごめん、先に鍵を渡しておけばよかったね」
  裕子は、缶コーヒーを器用に小脇に抱えると、上着のポケットから鍵を取り出した。そして、みゆきの顔を見ると、にこりと笑って差し出した。
「やっぱり私ですか?」
  みゆきは、戸惑いの目を隠さなかった。けれども、裕子は、白い歯を見せると、
「そうよ」
  と言って頷いた。みゆきは、
「そうですかぁ」
  と小さく溜息を漏らしながら鍵を受け取った。みゆきが助手席の鍵を開けたので、私が後部座席に乗り込もうとすると、裕子は私の背中を突付いた。
「達也君は、助手席だからね」
「いいんですか?」
「だって、その方良いでしょ。良いって言うか、その方が自然じゃない。あなた達、恋人同士なんだから。私は邪魔にならない様に後ろで静かにしているわよ」
  その時私は、裕子の瞳から疑念の光が漏れ出しているのを見逃さなかった。
  裕子は、静かにしていると言った割には、鞄を開いて見たり、荷物を整理して見たりと騒がしかった。そして、私達がシートベルトを締めた時、思い出した様に缶コーヒーを私の顔の横に差し出してきた。
「いやぁ、お疲れお疲れ。これでも呑んで、体、温めて。次の場所でも宜しく」
「僕は、何もしてませんでしたから」
  裕子の言葉に、私は、そのコーヒーを素直に受け取れなかった。躊躇していると、裕子は身を乗り出して私の膝の上に缶を置いた。
「いやいや、何をおっしゃいます。達也君やみゆきさんがいなければ、この仕事もつまんない風景写真と旅行記書くだけで終わってたわ。いいネタ見つけたよ」
  裕子の最後の言葉に引っ掛かった私は、思わず振り返った。
「やっぱり、僕達の事、書くつもりなんですか?」
「そうね、少しは書かせてもらう積もりだったけど。駄目かしら?」
「そうですねぇ……」
  横を向いたら、みゆきと目が合った。その瞳の奥から、困惑の光が見え隠れしていた。
「やっぱり一寸ねぇ」
  私がそう答えて振り返ると、祐子が渋面を作っていた。
「ええっ、そんな事言わないでさぁ。頼みますよ」
  尤も、祐子に駄目と言った所で、ただでは引き下がらないとも思っていた。予想はしていたが、面と向かって頼み込まれると、はっきり嫌とは言いえなかった。
「編集部へ原稿を送る前に、あなた達に見せるから。その内容が駄目だったら直すからさ。だから、良いでしょ? ねっ?」
「もう何か思い浮かんで来ているのですか?」
  みゆきの質問に、祐子は、右手の親指を突き出して見せた。
「みゆきさんの写真撮ってたらねぇ、構想もイメージもバッチリ浮かんで来たのよ。書き終わったら見せるね」
  力を込めて答える祐子に、みゆきは、半ば諦めた様に苦笑を浮かべていた。私は、祐子の駄目押しに、仕方が無く頷いた。頷いてから、不図疑問が浮かんだ。
「原稿、見せてもらうのは良いけれど、僕達、そこまで一緒にいられるのかな」
「あなた達、この辺りを見てまわった後は、どうする積もりだったの?」
  祐子の質問に、私は頭を捻った。どうする積もりも何も、祐子の相手に忙しくて先の事など決めていなかった。それに昨日、各駅停車の中で考えた日程もあまりに大雑把過ぎて、それを基に旅をするイメージが浮かばなかった。私は、慌ててみゆきの方を向いた。
「どうしようか」
  私の問い掛けに、みゆきは、少し首を傾げるだけで何も言わなかった。昨日の小樽の様に、特別寄りたい所も無いらしい。尤も北海道が初めてのみゆきには、行程に関して口を挟むだけの知識が皆無だったし、挟む積もりも無いらしかった。彼女が、道内の都市間の距離感が全く想像出来ないと漏らした時には、さすがに失笑した。けれども、私はみゆきに意見を求めた。裕子の事を含めて、私一人では、決めかねていたのである。
「汽車に乗る?」
  みゆきは、黙って微笑んだ。
「疲れた?」
  今度は、唇を噤んだまま小さく唸った。みゆきが、私に旅の日程の一切を一任した以上、私がそれを決めなければいけなかった。出来ればそうして欲しいと、みゆきは表情で訴えていた。だからもし、この場でどうするかを私が独断で決めても、みゆきは異論を唱えずに私の言う事に従ったのかも知れない。だが、私は迷っていた。ここまで来る為に休み無く船や列車を乗り継ぎ、寝ると言っても狭い椅子や桝席で転寝する強行軍だったから疲れていない筈が無かった。旅慣れしている私でさえ、宿代の事を考えずに手足を伸ばして眠りたかった。たかだか三日の移動で、疲れが泥の様に沈殿しているのが分かった。何時もの旅とは、全く違う感覚だった。変な疲れ方をしていた。けれども、休息の欲求を満たす為の具体的な方法を口にするのは、無意識のうちに避けていた。
「最終まで決めれば良いか」
  私は、考えた末、答えを先延ばしにした。小さく頷いたみゆきも、それを望んでいる風に思えた。
「最終って、札幌行きの夜行の事?」
  確かめる様に、裕子が聞いてきた。
「ええ、そうですね」
「それじゃ、今日一日は私に付き合ってくれるんだ。良かった」
  裕子は、手放しに喜んでいた。
「ところで、次は何処に向かいますか?」
  みゆきは、ルームミラーを覗き込みながら訊ねた。
「駐車場を出たら、右に曲がって」
  裕子は、身を乗り出して行きたい方向を指差した。みゆきは、サイドブレーキを降ろすと、ゆっくりと車を出した。
  車は、稚内市街とは反対方向に走っていた。疎らに建っていた民家も、車が進むに連れて見当たらなくなった。海岸線沿いに何処までも続く一本道は、すれ違う車も無かった。また、前の車に追いつく事も無かった。一台の十トントラックに、勢いよく追い抜かれたくらいだった。私が冷やりとしたのは、その時くらいだった。道路は相変わらず雪で真っ白で、速度も結構出ていたにもかかわらず、私は、安心して助手席に座っていた。それは、最初の右折で滑っている様な嫌な感覚を感じないで車が走り始めたからである。その後も、裕子が運転していた時みたいに、突然車の挙動が乱れる事も無かった。乾燥した路面を走っているのと変わらなかった。みゆきは、運転が上手いんだ、そう思いながら前を見詰めるみゆきの横顔を見て見ぬ振りをしていた。
「コーヒー、呑みたいな」
  みゆきは、ちらりと目線を私の膝の上に向けて呟いた。私は、缶コーヒーの蓋を開けてみゆきに手渡した。
「眠い?」
「少しね」
「休めば?」
「平気」
「煙草は?」
「いらない」
「悪いね」
「いいのよ」
  短い会話だった。語気も形式的で、寧ろ冷めているくらいだった。しかし、こんな短い単語の羅列でも、みゆきの気遣いが伝わって来た。みゆきにも、私の気持ちが通じている様だった。それは、彼女の瞳を見れば良く分かった。女の人とこんな会話だけで意志を伝え合うのは、初めての体験だった。一種の感動を覚えていた。不思議な気分で首を捻りながら煙草を咥えた。みゆきは、缶コーヒーを少し啜ると、私が咥えた煙草の先をちらりと見た。
「やっぱりいる?」
  私の問い掛けに、みゆきは口元に笑みを浮かべながら小さく頷いた。私が煙草を差し出すと、みゆきは前を向いたまま缶コーヒーを私に返して煙草の箱から器用に一本抜いた。私は、火を点けたライターをみゆきが咥えた煙草の先に翳したが、私の手元が落ち着かなくて中々火が点かなかった。その内、車が左右に振れ始めた。私は自分の煙草に火を点けると、みゆきの口元に持って行った。みゆきは、一瞬躊躇した素振りを見せた。しかし、直ぐに微笑んだ。そして、火の着いていない煙草を私の手の平に乗せると、吐息だけで、
「ありがとう」
  と礼を言い、火の着いた煙草を咥えた。私は、返してもらった煙草を箱に収めると、もう一本別の煙草に火を着けた。何となく気恥ずかしかった。漂う煙を目で追うと、ルームミラーで目が止まった。ミラー越しに、裕子は腕組みをしてこくりこくりと船を漕いでいた。車は、何処までも真っ白な一本道を雪煙を上げて走っていた。














つづく



 



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