思いで


その33




  車が路地を曲がる度、しゃっくりの様な息遣いが前の座席から聞こえて来た。私は、横を向いていた首を前に向けた。けれども、前の二人は、しゃっくりをしている様子も無く、肩を並べて前を向いていた。
  私は、ドアに背をもたれて腕組みをすると右側を眺めた。突き当たりのT字路を左に曲がると、洋風の建造物が視界に入った。道沿いに続くやけに長細いこのコンクリートの建物には、均等の間隔で太い柱が何本も建っていた。その建物が途切れてその後ろに海岸線が見えると、これは防波堤なのだと分かった。宗谷海峡の荒波は、さぞかし激しいのだろうとぼんやり想像していると、いきなり体がドアの方に押し付けられた。私が思わず、「あっ」、と声を上げたと同時に、前の方で息を吸い込んで出た様な不自然な悲声がした。再び前を向くと、肩肘を張ったみゆきがドアの取っ手にしがみついていた。裕子は、曲がる方向とは逆に大きくハンドルを切っていた。けれども、ルームミラー越しに見えた瞳は冷静だった。しゃっくりと悲鳴の主は、みゆきの様だった。
「ごめんごめん、一寸スピード出し過ぎちゃった」
  裕子は、車の挙動が落ち着くと頭を掻きながらちらりと助手席を見た。みゆきは、顎を引いて咳払いをすると口元を少し吊り上げた。私は、今起こった状況が良く分からなかった。心臓の鼓動がやけに高鳴っていた。道路に対して車が斜めになっている所を見ると、車が滑ったらしい。やっと状況が呑みこめた。
「勘弁してくださいよ」
  溜息交じりに漏らした私の言葉に、裕子は首を素早く斜めに向けて苦笑を見せた。
「昨日、小樽で借りたレンタカーがスパイクタイヤ履いててさ。それと同じ様な感覚でハンドル切ったんだけど、どうもこの車、スタットレス履いてるみたいだね。滑る滑る」
  私は、それぞれのタイヤの利きがどれ位違うのか良く分からなかったので、「はぁ」としか答えられなかった。
「みゆきさんは、雪道は走った事有るでしょ?」
「ええ」
「ほら、やっぱり雪道を運転した事あるんだ」
  裕子は、わざわざ振り返って勝ち誇った様な顔を私に見せた。そして、直ぐにみゆきの方に向き直ると言葉を続けた。
「その時は、スパイク履いてた? スタットレス履いてた?」
「スタットレスです。自分の車は、冬になるとスタットレスに交換しますから」
「自家用車まで持ってるんだ。さすが医者の娘」
「そんな事無いですよ。車だって親のお下がりですから」
「へぇ、その車で、達也君とドライブしてるんだ」
「ええ、まぁそうですね」
「達也君」
  突然、祐子に名前を呼ばれて、私は身構えた。
「なんでしょう」
「みゆきさんの運転って、どう?」
「どう、って言いますと?」
「私に比べると上手い? 下手?」
  みゆきの運転する車に乗った事の無い私は、何と評するか迷っていた。ぼろが出てしまいそうな気がして、このまま逸らかしてしまおうと考えた。だが、祐子は私の答えを待つ様に黙っていた。仕方が無く、重く口を開いた。
「下手ではないと思いますよ。上手くも無いと思うけど」
  曖昧を通り越して答えになっていない私の言葉に、前の二人は肩を揺らしていた。自分でも変な答えだと分かっていたので、思わず鼻に掛かった様な自嘲の笑いを漏らしていた。
「その答え方じゃあ、分からないなぁ。でも、みゆきさんの運転に乗り慣れているから、みゆきさんの運転の方が安心するでしょう」
  私がにやにやしながら少し首を動かすと、ルームミラー越しに祐子の視線を感じた。
「みゆきさん、スタットレスでの雪道は大丈夫でしょ」
「多分、大丈夫だと思います」
「なら、後で交代して。その方があなたも逆に安心でしょ?」
  みゆきは、なんとも答えず横顔に苦笑を浮かべた。裕子は、みゆきの言いたい事を代弁するかの様に優しい声色でこんな事を言った。
「やっぱりねぇ、普段、車を運転する人が、未熟なドライバーの助手席に座ると精神的に疲れるんだよね」
「どうしてですか?」
  私が横槍を入れると、裕子は、短く唸った。
「走り方って、それぞれ個性が出てくるのよね。それが自分より少しでも荒っぽくなったり、例えばアクセルの踏み方やブレーキの踏むタイミングが少しでも違っても、助手席の人は怖く感じたりするものなのよ」
  両親が車を持たない私は、年単位で乗用車に乗る機会が無かった。その為、裕子の言う恐怖の感覚は、想像すら出来なかった。稀にタクシーやバスに乗っても、プロがハンドルを握っているんだから間違い無いと安心しきっているので怖いと思った事が無かった。黙っていると、裕子は首を傾げてルームミラーを覗き込んだ。
「やっぱり、免許を持っていない達也君には、分からないか」
  さらりと言いのけた裕子の語気に、嫌味は感じなかった。私は、「確かにそうですね」と答えると頭を掻いた。しかし、裕子の続きの言葉には、口を閉じた。
「早く免許取って、みゆきさんを助手席に乗せてあげな」
  私は、本格的に黙り込んだ。
  車は十分も走らないうちに、ひと気の無い雪の広場に停まった。祐子がサイドブレーキを引いたので車を降りて見ると、目の前に小さな灯台が建っていた。
「ここは、何処ですか?」
  黙り込んでからろくに外の景色を眺めていなかった私は、何処に連れて来られたのか良く分からなかった。裕子は、アルミの四角いケースからカメラを取り出す手を休めると、私を見て答えた。
「ノシャップ岬だよ」
「ここが? 何も無いですね」
「あそこに看板が有るわ」
  祐子が指を刺した方角を見ると、小さな看板が申し訳無さそうに立っていた。
「一寸準備があるから、先に行ってて」
  裕子は、別な鞄を開くと再び手を動かし始めた。
  私は、みゆきと二人で並んで歩いても後ろが気になった。首だけで後ろを向いて、裕子がまだカメラの整理をしているのを確認すると、みゆきに声を掛けた。
「やっぱり、十八、十九の男が免許を持っていないと可笑しなものなのかな」
  他愛のない私の言葉に、みゆきは笑顔で答えた。
「そんな事ないよ。だって、私の周りも免許持っていない人、結構いるから。私が特別早過ぎただけよ。免許の話になると、みんな驚くもん」
「そうなんだ。でも、裕子さん、僕が免許を持っていない事に随分拘ってるよね。目茶目茶苛められた気分だよ」
「苛めてるつもりは無いと思うわよ。でも、当てを外したのは事実ね」
「どう言う事?」
「彼女、あなたに運転してもらうつもりだったみたいだよ」
「はは、そりゃ、見事に当てを外したわ」
  私は、してやったりと言う気分で得意げに笑って見せた。
「でもねぇ、謝礼は受け取りづらくなったわね」
「謝礼、って例のギャラの事?」
  みゆきは、「うん」と言って頷いた。
「どうして?」
「だって、あなたの分も含めて考えていたんじゃない? 凄い金額言ってたもの」
「それは、初めに運転できるかと聞かないあっちが悪いのさ」
  悪ぶって見せたものの、内心気が引けていた私は、みゆきの耳元でそっと聞いてみた。
「でも幾らって言ってたのさ」
「二万円だって。凄いでしょ?」
「二万? 一人一万かい? 簡単に一万って言っても俺の二日半分の給料だよ」
  冬休みに時給四百五十円で働いていた私にとって、とてつもない大金だった。みゆきは、上ずった私の声色に少し身を引くと苦笑を浮かべた。
「やっぱり受け取れないよね。そんな大金」
「でも、君の分は受け取ってもいいんじゃないの」
「私だけ?」
  不思議そうに私を見詰めるみゆきに、私は真面目な顔で答えた。
「そう、君は、モデルだから。しっかり稼いで頂戴。それに、裕子さんは君が目当てみたいだからね。君がモデルなら、良い写真が撮れると思うよ」
「私がモデルねぇ」
  小さく微笑むみゆきの口元に、少しはにかみが浮かんだ。
「なぁに二人の世界に入ってるのよ」
  突然の裕子の声に、私達は驚いて振り返った。裕子は、にやにやしながら私達を見ていた。その首にぶら下がった二台のカメラが揺れている所を見ると、今さっきその場に立った様子だった。私達の話は聞かれていないなとほっと胸を撫で下ろしていると、裕子は早速カメラを構えた。私が脇に避け様とすると、裕子は私を制する様に手を振った。
「ほら、ちゃんと並んで」
「僕、ここにいると、邪魔じゃないですか?」
「邪魔なんかじゃないよ。それに折角ここまで来たんだから、二人の写真を撮って上げるよ。君達のカメラでも撮って上げるから貸しなさいね」
  私は、カメラを持って来ていなかった。みゆきも持っていない様だった。けれども仮にどちらかがカメラを持っていても、二人並んで写真を撮る気にはなれなかった。何時までも、撮影依頼をしない私達に裕子は、じれったそうに聞いて来た。
「二人とも、カメラ、持って来なかったの?」
  私が「ええ。」と答えると、裕子は怪訝そうな目を見せた。
「そうなの。まぁ、とりあえず並びな」
  裕子が再び手を振るのを見て、私達は並んだ。けれども、人前で並ぶ恥ずかしさから、私が遠慮してみゆきとの肩の間隔が縮まらなかった。
「そんなんじゃ、恋人に見えないって。一年も付き合ってるんでしょ?今更、何を恥ずかしがってるのよ。私に遠慮なく、くっついて頂戴」
  裕子の冷やかしに、みゆきの肩に思い切って手をかけた。するとみゆきは、笑顔を見せて私に寄り添って来た。赤面する間も無く、シャッターが切れる音がした。











つづく



 



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