思いで


その32




  私は冷静になると、まゆみの事を思い出した自分に腹が立った。けれども、どうしてここまで腹が立つのか、自分でも分からなかった。まゆみの事を、引き合いに出してしまったからだろうか。だったら、どうして順子の事も思い出せなかったのか。いや、大体にして、彼女達を例えで引き合いに出してしまう事が、みゆきに対して失礼なのではないか。例え口に出さなくても、そう思う事自体が悪い事ではないか。もしかすると、心の何処かで、彼女達とみゆきの事を比べてしまったのではないだろうか。言い様の無い罪悪感に苛まれていた。考えれば考えるほど、結論は纏まりを失って行った。箸を突っ込んだら解れて行く、この駅の立ち食いそばをぼんやり眺めていると、みゆきと裕子の楽しそうな話し声が耳に入って来た。
「立ち食いそばって案外美味しいものなんですね」
  汁まで飲み干したみゆきは、感心した面持ちでそう語った。握り飯を手にした裕子は、口元を抑えながら答えた。
「何処の駅そばも同じような味なんだけど、不思議なもので駅ごとに違う気がするのよね。遠くに来ると特に美味しく感じてしまう。それがまたいいのよ。これを食べないと、私、旅に出た気がしないもん」
  黙々とそばを啜っている私を、丸で垣根越しにしているかの様に女達の会話が飛び交っていた。彼女達の声を聞いていると、ここで、二人の大人の女に囲まれている自分が、場違いな気がしてきた。「どうして俺はここにいるんだろう。そもそも俺はここに居て良いのか?」微かに湧き上がった疑問は直ぐに深くなって行き、言いようの無い不安が襲ってきた。再び箸を止めると、薄黒いそばの汁を眺めた。
「……食べたの?……、ねぇ達也君ったら」
  祐子の声が、真っ白だった頭の中に断片的に響いた。その声が私を呼んでいる事に気付いた時、硬直した体が突然解き放たれる様に、一瞬痙攣した。
「なに?何ですか?」
  聞き返えした私の口調は、吃っていた。吃っていた割には、声量が有った。その声は、何だか自分のではないような気がして内心驚いていた。祐子は、呆れ顔を浮かべていた。みゆきは、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「どうしたの、大丈夫?」
  みゆきの問い掛けに、私は息を整えてやっと答えた。
「うん、大丈夫だよ」
「また考え事をしていたの?」
  優しいみゆきの言葉が、胸に刺さる様に痛かった。何とも答えられないで黙っていると、祐子が横やりを入れた。
「単位の心配でもしてたんでしょ」
「単位?……ええ、まぁそんな所ですね。この前の試験は一寸難しかったから」
  『単位』と言う単語を理解するのに数秒を要した。そこから連想する言葉を適当に羅列していた。ぼんやりと答える私の口調が余程可笑しかったのか、祐子はにやにやと笑っていた。
「折角、旅に出てきたんだから、そんなつまらない事考えてたって仕方が無いじゃない。ねぇ、みゆきさん」
  祐子に同意を求められたみゆきは、苦笑を浮かべると「そうですね」と答えた。
「終わってしまった事を何時までもくよくよ考えていたって、結果は何も変わりやしないのだから」
「終わってしまった事か……」
  祐子の何気ない言葉が胸の内に染み渡っていくのを感じた私は、無意識のうちにそう呟いていた。みゆきも何かを振り払う為に、この旅に出たのかな。そんな疑問が頭を過ぎって、不図みゆきの方に向いた。彼女は、両手で包み込んだ器の底をじっと見ていた。
「腰、大丈夫?」
  私は、みゆきに漂う雰囲気を察して声を掛けていた。みゆきの眉間に寂しそうに寄せられた小さな皺が、私の声に反応するかの様に解きほぐされた。声を掛けて良かったと思っていた。私は、直ぐに用意していた言葉を続けた。
「裕子さんに手伝ってもらって、湿布、張替えて来たらいいでしょう」
  彼女達の会話の流れに私の言葉がかみ合っていない事は、十分承知していた。けれども、今はこの二人の女達との間に少し距離を置きたかった。物理的に一寸離れて頭を冷やしたかった。みゆきもまた、それを望んでいるに違いないと思った。みゆきは、こくりと一つ頷くと視線を祐子の方に向けた。祐子は、怪訝そうな顔色をしていた。けれども、間もなくして口元に笑みを浮かべると私の肩を突ついた。
「なんだ、みゆきさんの事を心配してたんだ。だったら、初めから言えばいいのに」
  祐子は、私の苦笑に満ちた顔を確認する様に覗き込むと、みゆきを連れて化粧室へ消えて行った。
  レンタカー屋は、駅から歩いて直ぐの所に有った。小さなプレハブのその事務所を目の前にすると、私は、受付けのカウンターが小さそうだからと言い訳をして外で一人待っていた。道路は、踏み固められた雪で真っ白だった。鉛色の空から、白いものが今にも舞い下りてきそうだった。時折、北から吹いて来る強い風が、肌を刺す様に痛かった。私は、煙草を吹かしながら硝子越しにぼんやりと彼女達の背中を眺めていた。すると祐子は、みゆきに二言三言何かを言い、薄っぺらい引き戸をがらりと開けた。
「達也君、免許は?」
  祐子の質問にもじもじとしていると、今度はみゆきが二言三言、祐子に話し掛けていた。事務所の中でそんなやり取りが交わされている中、正面に小さな車が回されて来た。私は、車から降りてきた男に、この車が祐子が借りたものかと確認した。男は「そうです」と言うと会釈してその場を離れた。私は、助手席を倒して後ろの座席に荷物を積み込んで、さっさとその隙間に座り込んだ。すると、裕子が助手席のドアを開けてこんな事を言った。
「みゆきさんが運転するんだけど、達也君、助手席に座らない?」
「本当に? あの子が運転するって?」
  私が驚いて反問すると、裕子はまじめな顔で答えた。
「ええ、言っていたわよ」
「いや、でもあの子はまともに雪道を運転した事が無い筈だから、止めておいた方が……」
  頬のあたりを引きつらせながら忠告する私の顔を見て、裕子は笑い始めた。
「みゆきさん。あなた信用されて無いみたいだよ」
  裕子の後から着いて来たみゆきは、事情がよく飲み込めていないらしく、裕子の顔を見て首を傾げた。
「運転する?」
  裕子の勧めに、みゆきは、片手と首を大きく振って辞退した。裕子は、私の方を向いて舌を出すと駆け足で運転席に回った。
「足元、窮屈じゃない? もっと前に出そうか?」
  助手席に乗り込んだみゆきは振り返ると、靴を脱いで膝を立てていた私に訊ねた。私は、「大丈夫」と一言だけ答えた。
「何を話していたの?」
「君が運転するって話」
  みゆきは、私の答えを聞くと、苦笑しながら前を向いた。私は、助手席のヘットレストに手をかけて身を乗り出した。
「本当に運転するの?」
「その積もりで、申込書には私の名前も書いてきたわよ」
  平然と答えるみゆきに、私は念を押した。
「でも、大丈夫なの?」
「あぁ、信用してないってその事ね」
  みゆきは、再び振り返ると目を細めて突き放す様に言った。しかし、私がばつが悪いのを取り繕う様に頬の辺りを歪めると、吹き出した。
「そんなに、いじめる事無いじゃないの」
「いじめたのは、あなたの方でしょ?」
  私が文句を付けると、みゆきは、澄ました顔をして前を向いた。祐子は運転席に腰を降ろすと、エンジンキーを捻りながらみゆきを見た。
「みゆきさんって免許取ったの随分早いんだね」
「そう、かもしれませんね」
  みゆきは、裕子の顔色を確かめる様に覗き込んだ。
「十八歳の誕生日を迎えたその月に、免許貰ってれば大したもんでしょう。四月生まれでしょ。高校三年の四月にはもう免許貰ってたんだ。運転歴は、私の倍近くあるも有るんだから凄いよね」
感心しきった裕子の様子に、みゆきは、右の眉だけ少し上げた。
「そうなんですか?」
「そうだよ。だって私、免許取って二年しか経ってないもの。高校生の時から免許を取るなんて、みゆきさんも、余程車が好きなのね。でも、良く御両親が免許取るのを許してくれたわね」
「免許を持っていない頃は、父が運転する助手席に乗るが好きで良く一緒に出かけていました。けど、運転には全く興味が無かったんですよ。父がいる以上、自分が運転するなんて事は想像出来なかったし。でも、父が私の誕生日の少し前に私に内緒で勝手に自動車学校の入校手続きをしてのです」
「それも凄い話だね」
「仕方が無く、渋々通い始めたんですが、通い始めたら始めたで、何時になったら免許は取れるんだって急かされて、半ば無理矢理取らされました。どうしてそんなに私に免許を取らせたがるのか不思議になって、父に聞いて見たんです。そうしたら、取れる時に取っておきなさいと言われて。あの時は、別に今じゃ無くても良いのではと思っていたのですが」
「それは、理解がある親だよ。取れる資格は取って置くべきよ。私なんか大学に通い始めて直ぐに免許を取りたいって親に言ったら危ないから止めろって反対されたもん。結局、この仕事をするようになって、私が車を運転せざるを得ない状況になってから、初めて親も首を縦に振ったもんね。それがつい二年前の話だもん。それまでは、自分のお金で取るからって言っても駄目だったからなぁ」
  裕子は、ルームミラー越しに遠い目を見せた。しかし、思い出した様に視線をみゆきの方に向けると、再び口を開いた。
「でも、免許を取ったら取ったで運転したくなったでしょ?」
「私はそんなに運転したく無かったんです。学校では車の免許は勿論、運転も当然禁止されていましたし。幾ら東京の学校に通っていたからって、川崎でも見つかる可能性だって有るのですから。でも、免許を取ったら父が私と一緒にドライブへ出かけたがるんです。しかも、私の運転で。取った当時は、結構運転させられました」
「お父さんは、娘のあなたに運転してもらいたくて、免許取るのを急かせたんだ。綺麗な娘さんとドライブしたがる父親の気持ちも、何だか分かる気がするな。それに結構豪快な先生だもんね、あなたのお父さん。今でも先生とドライブしてるの?」
  祐子は最後の言葉を口にした途端、慌てて口元を手で押さえた。するとみゆきの横顔に、寂しげな笑みが浮かんだ。
「父は、その後直ぐに死んでしまいましたから」
  みゆきのくぐもった声に、車内は一瞬沈黙した。けれどもみゆきは、努めて明るい声で言葉を続けた。
「でも父は、自分の死を予感していたから、あんなに急かしたんでしょうね。あの時は、父を乗せて運転するのが嫌だったけど、今は、少しは親孝行が出来て良かったと思っています」
「良いね。親子でドライブか。うちの親なんか、私が運転する車に絶対乗らないからね。全く失礼しちゃうわ」
  的の外れた裕子の言葉は、彼女なりの気遣いなのだと思った。前のヒーターから、何時の間にか暖かい空気が流れ始めていた。









つづく



 




文芸の世界へ          その33へ            ホームへ




inserted by FC2 system