思いで


その31




   ぼんやりと薄目を開けると、車窓から薄暗い雪原が見えた。そのまま遠くに目をやると、丘陵の稜線の遥か向こうに海岸線が見え隠れしていた。海は真っ黒だった。押し寄せる大きな波が、ここまで来るのではないかと恐れた。その上に折り重なる様に鉛色の空が広がっていた。そこから、さらさらとした粉雪がひっきりなしに降っていた。向かいの座席には、見知らぬ女が寝息を立てていた。誰だろう。分からない。首を真横に向けると、寝違えたのか刺さるような痛みを感じた。すると私の隣にもまた知らない女が座っていた。綺麗な人だった。この女の人、何処かで見たことが有る。何処でだろう。胸の中に何処からとも無く霧が立ち込めていった。まるで冷たい湖面が冷気に晒されているように。
  私は、もやもやした感覚を断ち切る様に、一重で切れ長な瞼を大きく見開いてみた。変な夢を見ていた所為か、頭がずきずきと痛んだ。背中の辺りが湿っぽかった。目の前には、祐子が半分開いた口から規則正しい寝息を漏らしていた。昨日の夜とは反対側に首を傾げていた。肩と耳がくっついているのを見た時、寝違いやしないかと心配して苦笑いをした。自分はどうかと思い首を横に振ってみたが、幸いにも寝違えていなかった。すると、艶やかな長い髪の毛が目に入った。私の隣にはみゆきが居た。物思いにふけっている様子だったが、私の気配に気付いて瞳をこちらへ向けた。その瞳を見ると、みゆきは随分前から目を覚ましている様に見えた。
「眠れたの?」
  私の囁き声に、みゆきは小さく頷いた。
「本当に」
  大きな欠伸をしながら念を押す私に、みゆきは微笑みを浮かべた。
「眠らないと体壊すよ。先は長いんだから」
  今度は、両腕を真上にぴんと伸ばしながら凝った首筋を回した。すると、みゆきの膝の上に便箋の束とあの黒光りした万年筆が乗っているのを見つけた。
「手紙でも書いていたの?」
  私の問い掛けに、みゆきは少し俯いて小さく首を振った。
「一寸ね」
  その短い言葉は、意味ありげに私の胸に響いた。私が疑問の眼差しを降ろしていないのに気付いて、みゆきは、直ぐに言葉を付け足した。
「少しは芝居の台本でも書いておこうかなぁと思って」
「今でも、本とか送ってるんだ」
  みゆきは、小さく頷いた。
「でも、便箋に?」
「手元に有る紙が、これしかなかったの」
  みゆきの言い訳に、私は苦笑を浮かべた。
「書けたの?」
「少しはね」
「あんな酔っ払った状態で、よく書けるよね」
  大げさに感心した私に、今度はみゆきが苦笑を浮かべた。
「イメージが浮かんだ時点で書き留めておかないとね。不意に浮かんだアイディアって結構、忘れてしまうものなのよ。でもそれは、勿体無いでしょ?」
「それは、そうだね……」
  そう答えて見たものの、物を書くと言う趣味の無かった私は、みゆきの答えにぴんとは来ていなかった。みゆきの膝の上に乗った便箋をぼんやりと眺めていると、無意識の内にこんな言葉が漏れ出した。
「昨日の出来事が随分良い刺激になったんでないの?」
「そんな事は……」
  みゆきは、表情をくぐもらせた。私も口にした瞬間、思わず胸を抑えていた。
「皮肉?」
  みゆきの一言は、冷たかった。皮肉の積もりは無かった。話の流れで軽々しく口にしただけだった。けれども、その言葉で、みゆきの心の中にインキの雫を落として小さな染みを作ってしまったのも事実だった。
「ごめん」
  私は、肯定も否定もしなかった。ただ一言で謝った。その一言で、みゆきの心につけてしまった染みは抜けないとも分かっていた。その言葉が、いかに不誠実かと言う事も分かっていた。けれども、場違いな一言と知りつつも、その言葉でこの場を収めてしまいたかった。私の胸に罪悪感が芽生え始めていた。しかし、それ以上みゆきに声を掛ける言葉を見付けらなくて、黙っているしか無かった。みゆきは、何も言わなかった。そのかわり、瞳を薄暗い窓の外へ向けてしまった。
  裕子が起きだしたのは、列車が南稚内を出発した直後だった。目が覚めると同時に、彼女は狭い座席の上で駄々をこねる子供の様に体を左右に振った。
「具合悪い」
  顔を歪めて吐き捨てる様にそう呟くと、窓枠に置いてあった煙草に手を伸ばした。
「大丈夫ですか? もう着きますよ」
  私が忠告しても、裕子は煙草の先に火を点けた。
「朝の一服をつけないと、一日が始まらないから、一寸待ってね」
  裕子は、スパスパと煙草の煙を吸い込んだ。そして、「あぁ、首痛ぇ」と、吐き捨てる様に独り言を呟きながら何度も首を左右に振った。そしてあっと言う間に灰にした煙草を灰皿にもみ消すと、こちらを向いて訊ねた。
「所であの後、大丈夫だった?随分戻ってこなかったから、心配はしていたんだけど」
「すみませんでした、まぁこの通り何とか」
  私は、そう答えてみゆきの方を向いた。内心、みゆきの顔を直視する事を恐れていた。けれども、微笑み返すみゆきの表情に、私は安堵した。
「待ちきれなくて先に寝ちゃったんだけどね。ごめんね、みゆきさん。無理にあんなに飲ませる積もりはではなかったんだけど」
  頭を掻きながらてれ笑いを浮かべる裕子に、みゆきは、首を振った。
「いいえ、そんな無理になんて。かえって私がご馳走になってしまって。とても美味しいお酒でしたわ。それに楽しかったし」
「本当に?そう言って貰えると嬉しいねぇ。今夜も呑もうか?」
  裕子の提案に、みゆきは私が見た事の無い満面の笑顔を見せた。私は、その笑顔に胸が高まった。驚きの表情を隠す様に、無理に苦笑いを浮かべた。すると、私の顔を見た裕子が、笑い出した。
「冗談だよ。それより、君達、これからどうするの?」
  裕子の質問に、みゆきは小首を傾げた。私は、「そうですねぇ」と前置きをするとこう答えた。
「岬にでも行って見ようかとは思っていたのですが」
「宗谷? ノシャップ?」
「ええ。両方行ければ、行こうかと思っています」
「それから先は?」
「さぁ。行きたい所は決めましたが、どういう風に周るかは決めていません。足の向くまま、気の向くままですね」
「良いね、そういう旅」
  裕子は、視線を落とすとしみじみそう呟いた。
「でも貧乏旅行ですから」
「私もね、こんな仕事じゃなくって、男でも連れてのんびり旅がしたいわ。君達が羨ましいよ」
  天井を見上げながら呟く裕子の姿を、私は黙って見ていた。しかし、感傷に浸っていたのも束の間、直ぐに口を開いた。
「岬へは何で行く積もりなの?」
「一応、バスの積もりで時間は調べましたが」
「そうなんだ。私もさぁ、この辺りをうろうろするつもりなんだけど、良かったら車で一緒に行かない?」
「車って、タクシーですか?」
「違うよ。レンタカー借りるの」
  裕子の提案に、私はみゆきの顔色を伺った。満更でもなさそうなみゆきの表情に、私はどう答えたら良いのか少し悩んでいだ。
「ありがたい話ですが、でも、僕達、裕子さんの仕事の邪魔になりはしませんか?」
「邪魔になんかならないわよ。私としては寧ろ一緒に行ってもらった方がありがたいのよね」
  裕子の言葉の真意を読みかねていた私は、少し首を傾げて見せた。
「写真のモデルになってもらえればなぁ、なんて思ってたのよ。風景だけじゃ面白くないからねぇ」
「モデル? 僕達が?」
  私は、驚いて眉を潜めると顎に生えた無精髭を摩った。そして少し考えると言葉を続けた。
「モデルって言っても、みゆきは綺麗だから良いとして、僕は一寸……」
「車代は私が全部面倒を見るから、ね? 良いでしょ?」
  祐子の申し出に、それでも首を傾げていた。
「どうもこうも、みゆきはどうしたい?」
「そうねぇ」
  みゆきは、含羞みながら私を見た。みゆきの様子を見た祐子は、平手をぽんと叩くとみゆきを指差した。
「プラス、稚内での食事代。ええい、幾らかギャラも出すわよ」
「はい、乗った」
  みゆきは、きっぷの良い江戸弁口調で祐子に答えた。一瞬、祐子はたじろいだが、直ぐに豪快な笑い声を上げた。みゆきの決断に驚いたのは、私の方だった。
「いいの?」
  動揺する私の耳元で、みゆきは囁いた。
「貧乏旅行なんだから、良い話じゃない」
「でも……、まぁ、君が良いなら良いんだけど」
  思わず素に戻っていた私に、みゆきは片目でウインクをした。私は、慌てて口を塞ぐと目玉だけ祐子に向けた。祐子は、相変わらず笑っていた。けれども、思い出した様に笑いを収めると、真顔に戻ってこう言った。
「それにしても、達也君って随分素直な人だよね」
「僕が素直ですか?」
  もしかして嘘がばれたかと思い、米神の辺りの肉を引きつらせた。
「素直って言うか、素敵だよ」
「どうしてですか?」
「だって、自分の恋人を前にして、他人に奇麗だなんて言えないよ、普通」
「そうですねぇ」
  言われてみればそうだなと思った。もし、私の隣に、まゆみが座っていたとしても、そんな事は言わないと思っていた。尤も、本当の恋人で無いからこそ、そう言う言葉が自然と漏れ出したのではないかと思い苦笑いをした。
「それだけ、みゆきさんの事を愛しているんだね」
  私は、返す言葉が思い浮かばなかった。みゆきは、虚しさを一生懸命笑顔で取り繕うとしていた。裕子は、そんな私達の心の動揺などこれっぽっちも気づいていない様子だった。
  列車は、速度を落とすとプラットホームが一本しかない駅に到着した。









つづく



 
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