思いで


その30




   デッキのドアを開けると、みゆきは壁にもたれ掛かり、少し深めの息を何度も吐いていた。
「大丈夫?」
  私が声を掛けると、みゆきは苦笑を浮かべた。
「祐子さんのペースには、ついていけなかったわね」
  吐息の間から漏れたみゆきの言葉に、今度は私が苦笑した。
「お酒が? 話が?」
  わざとらしい言葉をみゆきに投げかけると、彼女は笑いながら私の肩を軽く突いた。
「あの人について行こうと思うのが間違いだよ。何か冷たいものでも飲む?」
  私は、デッキの自動販売機に小銭を入れるとみゆきに勧めた。みゆきは、「ありがとう」と礼を言うと、ボタンを押した。そして私が差し出した缶ジュースを受け取ると、不図視線を床に落とした。
「話しているうちに、なんだか、何処までが本当で、何処からがお芝居なのか分からなくなってきたわ」
  切なそうに語るみゆきの言葉に、私は胸を締め付けられた。
「そうだね」
  私は胸の底から声を絞り出した。みゆきは潤んだ瞳で私を見詰めた。みゆきは、かなり酔っていた。肩を一寸でも押すと、そのまま倒れ込んでしまうだろうと思うくらい足元がおぼつかなかった。それに、随分感傷的になっているのもその表情から読み取れた。顔色も優れず、肩で息をしていた。私は、体調が思わしくないみゆきの感情が、良からぬ方向へ逸れて行くのを恐れていた。
「立っていられる? 支えていてあげようか?」
「立ったら余計に酔いが回ってきた。少し苦しいけど、でも大丈夫」
  みゆきは、そう言いながら私の肩にもたれかかった。列車がゴトゴトと揺れる度に、二人の肩が触れ合った。
「じゃあ、席に戻る? 肩、貸そうか?」
「もう少し冷たい空気に当たっていたいから……。大丈夫よ。こうしていたら時期に気分も良くなるから。心配掛けてごめんね。・・・…ごめんね」
  繰り返されたみゆきの謝意が、微かに震えていた。私の頬に触れた長い前髪の奥に、涙に浸ったみゆきの瞳が見え隠れしていた。みゆきは、酒に酔って具合が悪いのではない。三人で交わしたさっきの会話で彼女が吐いた嘘が原因で罪悪感に苛まれているのだ。そう感じた私は、このまま彼女の頭を優しく撫でて、彼女の胸の痞えを受け止めてあげるべきなのかを迷っていた。
「腰、大丈夫? 痛くない?」
  けれども彼女の気持ちを受け止められる自信が無かった。仕方が無いので、現実的な話題に導こうと必死だった。だがみゆきは、私の肩に額を押し当てながら小さく首を振った。そして、顔を上げて潤んだ瞳を私に向けると微かな声で唇を動かし始めた。
「……裕子さんを誘った私が悪いんだけど……、私の下手な嘘の所為で裕子さんに変な疑念を抱かせてしまったわ。それに……」
  みゆきは、言いかけた言葉の続きを声にならない吐息で吐き出した。私は、みゆきの言いかけた言葉を頭の中で想像していた。その言葉を思わず口に出しそうになった。だが、咄嗟にそれを呑み込んだ。その代わりにこう言った。
「さっきの話は有り得るかも知れない。そうやって実際に恋人になった人も世の中にはいるかも知れないよ。君の話し振りを見て、僕はそう思った。だから、君の話もあながち嘘では無いのさ」
「でも、嘘は嘘なのよ。それにあなたは、私の嘘で動揺していたわ」
「何処の話で?」
  私の声は、思わず上ずっていった。みゆきは、躊躇うように俯くとポツリと呟いた。
「私の苗字が話に上がった時……」
  その話は、きっと話題に出てくるだろうと覚悟していたつもりだった。けれども、みゆきの口から大きなため息をと共に呟やかれたその一言は、私の心を大きく揺り動かすには充分だった。私は、何度も鼻で大きく息を吸い込んで動揺を静めようと努めた。そして、冷静を装える様になると自分に言い聞かせるように答えた。
「君の苗字は、……フジノさんでしょ?」
  とぼけた私の言葉に、みゆきは、目を逸らした。
「……間違えているなら訂正してくれれば良い」
  恐る恐る尋ねたが、みゆきは、何とも答えなかった。
「大体にして、君の苗字の件は、僕が勝手に間違えて、その間違えが結果的に嘘のタネを蒔いてしまったようなものだから、君が気にする事は無いさ。それに、僕は今でも君の苗字をフジノさんだと思っている」
  こみ上げて来る言葉を並べて行く内、冷静を演じていた私の努力は無駄だったのだと感じた。みゆきの唇が動くのを封じるように、私は感情的な言葉を漏らしていた。
「そう思っていたいんだよ。だからこの旅が終わるまでは……、せめて裕子さんと別れるまでは、それで良いじゃないか」
  みゆきは、肩で一つ大きな息を吸うと重い口を開いた。
「私、裕子さんにあなたと出会った本当の経緯を話してしまうわ。このままそっとしていてくれる人ではないと思うから。変に詮索されるくらいなら、本当の事を話してしまった方が少しは気が楽になるわ」
「告白して一時的には気が楽になるだろう。けど、話した所できっと裕子さんは、僕たちの関係をもっと深く探ってくると思うよ。そうなると、君が苦しくなるだけだからやめておいた方が良い。それにね、僕はこれで今の状況を楽しんでいる積もりだよ」
  私の忠告に、みゆきは小さく首を振った。
「嘘を積み重ねて行く度に、祐子さんに、そしてあなたに対して罪悪感を抱いてしまうのよ。こんなにまで苦しくなるとは思わなかった……、祐子さんに嘘を吐こうって言ったのは私なのにね。本当にごめんなさい。それに……、あなたにも本当の事を言わなければ……」
「その必要は、無いさ」
  私が首を振っても、みゆきは頑として受け付けなかった。
「この列車に乗ってから、あなたが一番傷ついている気がするわ。私は、あなたを傷つけてしまう事が一番嫌なの」
「そんな事は無い」
  私は、強い口調で否定したが、みゆきはかぶりを振った。
「そんなに言うなら……」
  突き放す様な私の語気に、みゆきは顔を上げた。私は、みゆきの瞳を見据えると思い切って口を開いた。
「この列車に乗ってからの会話の中で、僕も嘘を吐いているよ。君はその嘘に気付いたかい?」
「いいえ」
「僕の言葉の何処が嘘だったか知りたい? 何が真実なのかを君は知りたい?」
  みゆきは、唇を噛んで俯いた。
「僕は君より年下だって言うのは本当だけど、さっき裕子さんに教えた年の差は、嘘なんだよ。なにより僕は……」
「止めて、お願いだからもう言わないで」
  みゆきは、嘆願するように叫ぶと、私の肩を両手で力強く壁に押し付けた。私は、暴走しかけたみゆきへの感情を彼女の手で止めてもらった気がした。そう感じた時、みゆきに自分の言葉を遮られて内心ほっとしていた。私の肩に掛かったみゆきの手に、自分の手を重ねてみた。すると彼女の手は、私の手をするりと抜けて私の唇を遮る様に添えられた。しかし、私が少し唇を動かすと、その手は力無く降ろされた。
「相手が真実を求めて来なければ、嘘は真実になりうるんだよ。かえって嘘を吐き通した方が万事丸く収まる事だって有るんだと思う。でも……」
  私は、次々と湧き出す言葉に胸が痞えていた。胸の内で張り裂ける様に心臓が鼓動していた。それを抑える様に煙草に火を点けた。そして大きく息を吸い込むと、煙と共に続きの言葉を吐き出した。
「でも、格好良い事言ったけど、それが本当に良い事なのか、それとも矢張り悪い事なのか、……仮に良いにしても何処までが適度な加減になるのかは、僕にも良く分からない。……難しいかけ引きだよね」
「かけ引き……、か」
  みゆきは寂しそうに呟くと、私の隣にもたれ掛かった。そっぽを向く様に真っ暗なデッキの窓に目を向けていたが、直ぐに私の方に向き直った。一瞬私と目を合わせたがすぐに視線を逸らした。そして大きく深呼吸をするとこう囁いた。
「あなたがそれで良いと言うのなら、そうしましょう。……そうするしかないよのね」
「そうだね。今は……」
「お互いに本当の事を知ったら……、その時が来たら、私達どうなるのかな」
  独り言のように漏れたみゆきの言葉に、私は息を呑んだ。けれどもみゆきは、再び顔を上げると優しい瞳を向けてこう言った。
「あなたは、大人だね」
「大人じゃないさ。ビール一本で酔っ払ってしまったもの」
わざと答えをはぐらかした私に、みゆきは首を傾げて微笑んだ。互いに視線を合わせたまま、互いに黙って相手の言葉を待っていた。
  すると、私の背後に人の気配を感じた。驚いて振り返ると、かがんだ車掌が床の小さな蓋を開けて何かをしていた。私達の視線に気付いた車掌は、にこやかに声を掛けて来た。
「車内の暖房、暑過ぎたでしょ。今、少し下げましたから」
私は、軽く相槌を打った。
「客室の明かりも落としましたので、お席に戻る時には足元にお気をつけ下さい。あと、寒い時には遠慮なくお申し付けください」
  私が会釈をすると、車掌は隣の客室に入って行った。車掌の後姿を見送ると、私はみゆきの手を取り歩き出した。
「この列車に乗ってから、時間の流れが随分遅く感じるのは私だけ?」
  みゆきの疑問は、まるで今まで夢でも見ていたような言い方だった。その言葉に私は、黙って苦笑を浮かべるだけだった。
  さっきまで騒がしかった客室は薄暗くて、何だか別世界に足を踏み入れた様で不気味な気がした。鉄輪がレールを滑る小刻みな音だけ響いていた。








つづく




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