思いで


その29




  祐子は、手持ちのワンカップを空にするとスチームの上に置いて有る酒に手を伸ばした。
「達也君も医学部なの?」
  私は、裕子がみゆきの苗字についてもっと突っ込んだ話をしてくると思っていた。けれども、祐子の興味の矛先は、突然私の方へと変わっていた。みゆきは心なしかほっとした表情を浮かべると、ちらりと私を見た。
「いや、僕は……」
  心の準備が出来ていなかった私は、祐子の奇襲に何と答えるか迷っていた。嫌な間が、私の胸を締め付けた。
「……僕は、経済学部です。尤もまだ学部には上がっていませんが」
  愚図々々していた私の受け答えが、いかにもはにかんでいる風に見えたのか、祐子はニヤニヤと笑っていた。
「まだ教養部なんだ。でも、国立も入ったら入ったで大変だよね。希望の学部に上がる為にまた試験を受けるんでしょ?」
  祐子は、私がみゆきと同じ大学に通っていると勝手に決め付けている様子だった。
「試験と言うか、希望の研究室に入るのが大変みたいですね」
  私の話は、無論全くの嘘だった。けれども、今更引っ込みも付けられなかった。幸いにも私には、趣味を通じて知り合になった東北大学に通う学生がいた。更には、そこへ入れるだけの学力を持った友達がいた。大学生の日常に興味を持った私達は、祐子が私にした同じ質問を知り合いの大学生にした事が有った。その記憶を必死になって捲りかえして、なんとかこの場を切り抜けようと適当な言葉を並べていた。だが、そんな付け焼き刃な知識で、経験豊かな祐子に嘘が見抜かれやしないかと内心冷や冷やしていた。それより何より、現役で東北大学へ通うみゆきに、私が祐子に話した会話内容をそのまま鵜呑みにさせるか、それとも本当の素性を明かすべきなのか迷っていた。私の悩みを余所に、祐子は容赦無く次の質問を投げかけてきた。
「そうなると、達也君はみゆきさんよりも学年が下なんだね」
「浪人して大学に入ったから、彼女よりも学年では二年下です」
「年下なんだ」
「歳は一つ年下ですね」
  祐子の目に私とみゆきとの年齢関係が、どの程度に写っていたのか想像出来なかった。けれども、とりあえず、一年浪人した大学一年生でみゆきよりも一つ年下くらいにしておいた方が無難だろうと思い付きで答えていた。それに、下手にみゆきと同学年と言ってしまうと、祐子の鋭い観察眼で、私の正体を見抜かれる恐れも有った。ただ、実際みゆきよりも年下だったので、自分はみゆきよりも年下だと言う事を意識的に強調していた。みゆきへもそれとなく自分の素性を明らかに出来るとも思っていた。私は、一瞬の内に頭の中で様々な思いを巡らせていた。そして生唾をごくりと呑み込むと、祐子の答えを待った。祐子は遠目で私の顔を見ると、小首を傾げた。
「そうは見えないなぁ」
  私は、祐子の言葉の真意を一瞬見失った。焦る気持ちが頬の辺りを引きつらせて不自然な笑みを作った。すると祐子は、何を勘違いしたのか慌ててこう言い直した。
「達也君は、年の割に随分落ち着いて見えるわよね。みゆきさんと一緒にいても、達也君の方が年上に見られるでしょ?」
  祐子の言葉の意味をやっと理解した私は、安堵の溜息を表に出さないように噛み殺していた。
「ええ、そう言われればそうですね」
「学年が違って学部も違うのに、二人は出会った訳だ」
「そういうことですね」
  私は、話を逸らかすように小声で答えた。
「あそこの大学も随分学生が居るわよね」
「そうですね」
  私の額から不意に一筋の冷や汗が滴り落ちた。それを知ってか知らずか祐子は、再びニヤニヤと笑みを浮かべた。彼女の視線を感じた時、私は、耳たぶの辺りが急に熱くなって行くのを感じた。そして祐子の唇が動いた時、私は、滴り落ちた汗の点が自分のズボンの膝に染みて行く様子をじっと見ていた。
「どうやって二人は出会ったの?」
「……」
  私の想像力は、そこで途絶えた。頭の中が真っ白になって行くのが分かった。顔を上げる事すら出来なかった。すると、みゆきが、大きく息を吐くと口を開いた。
「達也さんと出会ったのも何かの巡り合わせですね。ここで、こうして偶然同郷の祐子さんと出会った様に」
  みゆきの口調は、穏やかだった。穏やかと言うより、寧ろ落ち着いていた。瞳は、祐子をじっと見据えていた。
「そうだね。人の出会いって本当に不思議だよね」
  祐子の答えに、みゆきは小さく肯いた。私は、下唇を噛み締めて視線を宙に泳がせていた。
「あなた達はどうやって出会ったの?」
  祐子は、私が答えられなかった質問を、みゆきに投げかけた。私は、みゆきが何と答えるのか興味が有った。けれども、聞くのが恐いとも思っていた。複雑な心境でみゆきの様子を伺っていると、彼女は咳払いをして私をちらりと見た。みゆきと目が合った時、私は、思わず目を閉じた。すると瞼の裏に写ったみゆきの残像に、誰かを重ね合わせていた。誰だろうと考え始めた時、私は反射的に目を開いた。目の前には、小さく微笑むみゆきの姿が有った。その表情を見た時、一瞬の緊張から解き放たれた気がした。思わず私が頬を緩めると、みゆきは私に目配せをした。そして再び祐子の方に向き直ると口を開いた。
「私達は、付き合い始める随分前から、お互いの顔は知っていたんです」
「どういう事?」
  裕子は、不思議そうな表情を見せた。
「祐子さんは、通勤や通学の時、バスか電車に乗りますか?」
「ええ、学生時代も、今も電車を使ってるわ」
「私も、大学に入学した頃から地下鉄とバスを乗り継いで通っているのですが、実は、そこで達也さんと出会ったんです」
「へぇ、電車の雑踏の中お互い見ず知らずで、どうやって付き合うまでになったの?」
  裕子の瞳から、詮索とも観察とも取れるギラギラした光が見え隠れしていた。
「私って、地下鉄に乗る時は大体同じ車両に乗って同じ席に座るんです」
「そう言われれば、私もそうね。何時も乗る電車も何時の間にか乗る車両が決まってしまっているし。何時もの場所じゃないと落着かな  いのよね。違う場所だと寝られないし」
「そうなんですよ。仙台って初めて来た土地ですから、慣れるまでそうしていようかと思っていたのですが、色々有ってその席にいついてしまったんです」
  みゆきは、顔を赤らめて視線を落とした。それは、ストーリーに詰まって慌てていると言うよりも、そのストーリー自体にはにかんでいる様子だった。コップ酒の淵に唇を少し着けたみゆきは、腹を据えた様に口を開いた。
「教養部の講義は大抵朝からでしたから、自ずと乗る電車も決まってしまうんですよ。その電車は通勤時間に丁度ぶつかるものだから、  駅に停まる毎に混んで行くんです。でも、市役所が有る駅に停まると、一気に人が降りて目の前ががらりと開けるんです。私が二年生になった頃から何時の間にか彼が私の向かいの席に座っていました。そして、私と同じ駅で降りるんです。でも、改札を抜けると何時の間にか彼の姿は何時も見えないんです」
「達也君はその時、何処に行ってたの?」
  祐子の突然の質問に私は、何も答えないで黙っていた。すると祐子は、思い出した様に何度も肯いていた。みゆきは、話を続けた。
「初めは、何気なく彼の事を見ていたのですが、その内興味を抱くようになっていました。けれども私が夏休みになって一月以上何時もの地下鉄に乗らなくなって、彼の事を忘れかけていました」
「達也君もみゆきさんの事を忘れかけてたの?」
  私は、首を傾げて見せた。
「夏休みが明けて久しぶりに地下鉄に乗って彼を見かけた時、正直ほっとしました。どうしてそんな気持ちになるのか、自分でも良く分かりませんでしたが、何故か安心しました」
  裕子は、「なるほどねぇ」と相槌を入れた。
「長雨が続いた秋のある日、私が座席に傘を忘れてしまったんです。それに気付いたのは、学校へ行くバス停に並んだ時でした。その時は霧雨だったし、どうせすぐにバスに乗ってしまうから傘の事は帰りにでも駅に聞いてみようと思ったんです。でも、帰りの地下鉄の改札口の前で、私の傘を持った男の人が立っていたんです」
「それが、達也君だったんだ」
「彼の姿を見た時、驚きましたよ。私、傘の事は半分諦めていましたから。それに帰りはアルバイトやらサークルやらで帰りが結構不規則だったんです。その日も、遅い時間でした。彼が随分待っていた事は、容易に想像出来ました。けれども開口一番、明日でも良かったのにって言ってしまったんです。その時の私は、とにかく驚いてしまって、お礼も言えなかったんです。でも、彼は雨が本降りになってるからとそれだけ言い残して改札を抜けてしまったんです」
「追いかけなかったの?」
「追いかけようとしたのですが、何故か体が動かなくって暫くそこに立っていました。それにまさか彼と話す機会が来るなんて思っていなかったから緊張していたのでしょう。その時は、とにかく何も出来ませんでした。後になって、随分失礼なことをしてしまったと後悔しました。明日、彼と会ったらにどんな顔をすれば良いんだろうって本気で悩みました。けれども次の日、彼が私の顔を見て微笑み返してくれたのでほっとしました。思い切って声を掛けてみようと電車を降りた彼を追いかけたのですが、何時もの様に見失ってしまいました」
「達也君は、その時みゆきさんに追いかけられていた事に気付いてたの?」
「何となくは……」
  急に話をふられた私は、思わず口篭もった。裕子は、私の顔を見て苦笑を浮かべた。
「じゃあどうしてみゆきさんと話さなかったの? みゆきさんを避けていたの?」
「避けていたわけではないけども……。綺麗な女の人と話すのが恥ずかしかったんですね。それに、予備校にギリギリの時間の電車でしたから先を急いでいたんですよ」
  裕子が私の話に納得するように頷くと、みゆきは話を先に進めた。
「それから暫くは、二人とも会話を交わす機会が有りませんでした。その内春になって、私は学部に通うようになって乗る電車が少しずれたんです。彼とも、電車で会わなくなりました。でも、ずっと気にはなっていたのです。傘のお礼も言っていなかったし、それに……」
  みゆきは、含羞む様に口元を抑えた。裕子は、目をぎらぎら輝かせて、みゆきの話を待っていた。
「何かの用事で教養部に行く機会が有って久しぶりラッシュの電車に乗ったら彼が居たのです。声を掛けようかと思ったのですが、きっかけが無くて何時もの駅で電車を降りてしましました。それにその時、彼は私に気付いていなかったみたいなんです。何も出来ずに彼を見失った私は、教養部行きのバス停に向かいました。すると、バス停に並んでいた私の前の人が彼だったんです」
「そういう偶然って有りなの?」
  裕子は、怪訝そうな顔で私を見た。
「目出度く大学に受かったら、また彼女に再会出来て、その彼女が偶然にも同じ大学に通っていて、そこからはとんとん拍子に話が進んでここまで来ましたが、考えてみれば可笑しな話ですね」
  私は、誰に答える積もりでもなく、書かれた台詞を棒読みする様に虚ろに呟いた。けれども、何気なく答えたその台詞が、何となく辻褄が合っている風に思えて来て不思議な気持ちになっていた。
「だから人の出会いって不思議です。いろんな偶然が重なって彼と出会えたのだから」
話を終えたみゆきは、ほっと溜息を吐くと安堵の表情を浮かべた。その姿は、大舞台を演じ切った女優のようにも見えた。
「私もそんな偶然に巡り合いたいもんだ」
  裕子はそう呟くと、羨ましそうに私たちを見詰めていた。
「一寸飲み過ぎたみたい」
  みゆきは、突然そう言うとふらふらと立上がった。そして列車の揺れに足元を取られながら、デッキの方に歩いていった。私は、わざとらしい苦笑いを祐子に見せると、
「みゆきの様子を見てきますわ」
  と断って席を立った。
「お酒、勧め過ぎたかしら。ご免ね」
  祐子は、身を乗り出してみゆきの後ろ姿を心配そうに見ていた。私は、祐子に相槌を打つとみゆきの後を追いかけた。







つづく



 
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