思いで


その28




  列車は、レールの継ぎ目を規則正しい音を立てて通り抜けた。時間が過ぎるに連れ、その振動が段々早くなっていった。
  三人は、沈黙を保っていた。私達の頭の上には、どんよりと澱んだ空気が立ち込めている気がした。祐子は、私とみゆきの雰囲気を察したのか不自然な笑みを浮かべていた。そしてワンカップを水の様に煽るたびに、ゴクゴクと喉を鳴らしていた。私は、その音に釣られるように、温くなった缶ビールを口に含んだ。しかし、その温いビールは、喉を潤すどころかかえって喉から水気を奪った。中途半端に残った中身を放棄したかったが、みゆきを横切ってそれを窓枠に戻すのを躊躇った。仕方無しに、一気に缶の中身を口の中へ押し込んだ。喉とも食道とも分からない所からゴクリと音がしてビールの最後の一口が腹の中に納まると、背中の辺りに不快な汗が滲むのが分かった。それを紛らわすように、胸ポケットから曲がった煙草を一本取り出して火を点けた。煙を呑み込むように吸い込むと、胃の辺りがきりきりと痛んだ。奥歯を噛み締めてじっと耐えていると、手に持ったアルミ缶を無意識の内に握り潰していた。円筒形の缶がパキパキと音を立てて形を失っていく様子を他人事の様に眺めていると、不意に隣から手が伸びて来た。
「空なんでしょ?」
  みゆきは、素っ気無い口調でその空き缶を取り上げた。
「ああ」
  私も、素っ気無く答えた。みゆきは、窓枠に置いてあった自分の缶も手早く握り潰すと足元の袋に詰め込んだ。
「ビール?」
  私達のやり取りを見ていた裕子は、脇から慌てて缶を取り出した。私が戸惑いながら缶ビールを眺めていると、代わりにみゆきが答えた。
「ごめんなさい。ジュースは有りますか?」
「ウーロン茶でいい?」
  四つの瞳が一斉に私の方へ向いた時、私は息を呑んで小さく頷いた。祐子から受け取った缶は、暑すぎる暖房の所為か温くなりかけていた。だが、私の乾き切った喉は、アルコール以外の飲み物を欲しがっていた。直ぐにウーロン茶を喉に流し込むと、ほっと息を吐いた。すると、みゆきが、再び私の目の前に手を出した。
「まだ入ってるよ」
  私が真面目な顔で注意すると、みゆきは笑った。
「お茶、手に持っていると温くなるでしょ? ここに置いておくと少しは冷たくなるわよ」
  私は、みゆきに缶を渡すと、腕を伸ばして窓に手の平を翳してみた。硝子越しに伝わる外の空気は、意外に冷たかった。みゆきの話を聞いた祐子は、残りの缶ビールを窓枠に並べていた。缶を並べ終わると今度は、ワンカップのガラスビンを足元のスチームヒーターへ置いた。
「そんな事すると、お酒が暖まってしまうのでは?」
  私が再び真面目な顔でそう注意すると、祐子も笑った。
「お酒は、温めの方が美味しいのよ」
  こう答えると、ちらりとみゆきの方を見た。みゆきは、頬の辺りを緩めると、奇麗な瞳を細めた。
「お酒は温めのカンが良い、魚は炙ったイカで良い」
  祐子は、遠い目をして随分昔に流行った歌の歌詞をぽつりと口ずさむと酒をぐいっと煽った。私は、その歌の寂の所を心の中で呟いていた。
「みゆきさんは、お酒飲むの好き?」
  祐子の質問に、みゆきは穏やかな表情を浮かべた。
「ええ、楽しく飲むお酒は好きです。辛い思い出を流す為のお酒は、幾ら飲んでも苦しくなるだけだけど」
「今は、どうなの?」
  みゆきは、私の問い掛けにさらりと答えた。
「楽しいお酒を飲んでるわよ。ねぇ、祐子さん」
  みゆきに振られた祐子は、含み笑いを浮かべると、悪戯っぽい瞳で私を見た。
「ええ、そうね。達也君はどうなの?」
  二人の酒飲みの視線が私に向けられた時、今まで張り詰めていた虚勢の細い糸が、ぷつりと切れた。
「僕は、缶ビール一本で沢山だね。後はその場の雰囲気を味わって皆と楽しく話せれば、それで良です」
  語気は素っ気無かったが、私なりに素直な言葉だった。
「だから、楽しいお酒を飲んでますか?」
  じれったそうに前のめりになった祐子は、明らかに酔っていた。何時もの私なら、あからさまに嫌な顔をするのだが、その時の私は、笑って頷いた。
「ええ、久しぶりに楽しいお酒の場に当たりました」
  作ったつもりの言葉だったが、彼女等の雰囲気で何時の間にか本心に思えてきた。その場の雰囲気を自在に操る裕子は、凄いなと思った。裕子は、何度も首を縦に振ると思い出した様にワンカップをみゆきに勧めた。
「お酒も美味しそうだけど、ビールが残っているし……」
  戸惑っているみゆきに、私は、横やりを入れた。
「ビールは僕が飲むから良いよ。半分くらいしか残ってないでしょ?」
「その位だけど……。大丈夫?」
「それ位のビールなら、まだ飲めるさ。それに僕も少しは飲まないと君達に着いていけなくなるからね」
  みゆきは苦笑を浮かべると、ワンカップの蓋を開けた。
「じゃあ、遠慮無く」
そして祐子に軽く会釈をしするとコップを傾けて一気に半分位空けた。酒が見る見る減って行く様を見た私は、目を丸くした。
「良い飲みっぷりね」
  祐子は満面の笑みを浮かべて、満足気に肯いていた。
「このお酒、辛くて美味しい」
  みゆきはそう感想を漏らすと、再びコップを傾けた。
「でしょ?一級酒よりも、この二級酒の辛口の方が断然美味しいのよ。私、北海道に来ると、このお酒ばっかり飲んでるもん」
「確かにそうですね。前に研究室の飲み会で特級酒を飲んだ事ありますけど、喉に付くような甘さでとっくり全部空けられませんでしたもの。何か味醂でも飲まされている感じでしたね。それに比べると、このお酒の方が断然美味しいわ」
  みゆきの頬の辺りが再びほんのりと紅色に染まった。祐子は、みゆきの話に大袈裟に肯いていた。私は、二人のやり取りに着いて行けず、ただ微笑していた。
「飲みやすいお酒だよ。少し飲んでみる?」
  みゆきの進めるままにワンカップを少しだけ舐めてみた。けれども、その酒は私にとって苦いだけだった。旅で疲れている所為かお酒を一口も受付けなかった私は、ついに泣き言を言ってしまった。
「お酒は、二人で飲んでよ。今日はビールで勘弁して」
「女二人、酔わせてどうするつもり?」
  不意に投げかけられた祐子の言葉に、私は思わず肝を潰した。確かに、みゆきを酔わせてみたかった。酔ったらどうなるのか、興味が有った。あわよくば、酔ったみゆきの口から、私の知らないみゆきの身の上や過去が明らかにされる事を暗に期待していた。祐子もみゆきに興味を持っているに違いないと思った。きっと突っ込んだ話をして来るに違いないと予覚していた。けれども例えみゆきの心が暗い方向に向いたとしても、祐子の存在が歯止めを掛けてくれるだろうと言う妙な安心感も有った。今まで煙たかった祐子の存在が、頼もしく思えた。
「二人とも、学生さん?」
  裕子の質問に、みゆきと私は揃って頷いた。
「大学は何処なの?」
「東北大学です」
  私が答えないでいると、みゆきが口を開いた。すると、裕子はみゆきの方へ向き直った。
「へぇ、学部は?」
「医学部です」
「女医さんの卵か。凄いわね。御両親もお医者様なの?」
「ええ、母も父も医者です」
「開業医?」
「そうですね。小さな町医者です」
  みゆきも本格的に酔いがまわり始めた所為か、大分口が滑らかになっていた。
「そうなんだ。実家はどちらなの?」
「川崎です」
「川崎の何処?」
  みゆきの答えに、祐子の声色が上がって行くのが分かった。
「宮崎台です」
「田園都市線の?」
「ええ」
「みゆきさんってもしかして、宮崎台駅のバス停の近くにある藤野医院の娘さん?」
  祐子の質問にみゆきの表情が一瞬強張った。
「そうですけど」
  みゆきの声が少し震えていた。私は、みゆきと祐子の意外な繋がりと、ここでこの女の人二人が巡り合った偶然に絶句した。祐子は、驚きの表情を隠さなかった。
「奇遇ね。私の実家は馬絹なのよ。高校までは、あなたの病院に良く掛かったものなのよ。……あれ、お父さんって亡くなったのでなかったかしら」
  思い出した様に付け足された祐子の一言に、みゆきは下唇を噛み締めていた。私は二人の様子を、息を呑んで見守っていた。みゆきは、重そうに口を開くとこう答えた。
「ええ、四年前の夏に……、その後、母は再婚して、今は義理の父と二人で病院を切り盛りしています」
「そうだったんだ。そう言えば、病院の名前が変ったものね。この間久しぶりに実家に帰った時、確かトウノクリニックになってた様な……」
  祐子は、言葉を途切れさせると私の顔を怪訝そうに見詰めた。そして何か言いた気に唇を動かした。けれども、その言葉を飲み込む様にコップ酒を傾けた。






つづく



 
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