思いで


その27




  祐子は、缶ビールを窓枠に置くと、私達の表情を不思議そうに見ていた。みゆきは、ビールの所為で血色が良くなっていた頬からも段々血の気が引いて行くのが分かった。そして、昨日、小牛田を出た列車の中で見せた寂しそうな表情を浮べて黙っていた。私は、祐子とみゆきの狭間に立たされた気がして、その隙間に神経を押し潰される様な苦しみを覚えていた。みゆきの沈黙が祐子の好奇心を煽ってしまい、祐子がとんでもない事を口走るのではないかと不安になった私は、彼女達の意識を私の方へ逸らす様に咳払いをすると、思い切って口を開いた。
「では、簡単に僕達の自己紹介をしますね。彼女は、フジノミユキ」
  みゆきの方を向きながら彼女の名前を口にした時、みゆきは、目を丸くしていた。みゆきの驚いた表情を見た時、私は、胸の内で「矢張り。」と呟いていた。私は、みゆきの苗字を読み間違えたのだ。みゆきは、訴えるような眼差しで私を見ていた。けれども、口に出して私の言葉を打ち消さなかった。私もみゆきの大きな瞳を凝視していた。けれども、彼女の正確な意図を読み取る事は出来なかった。それに、私もみゆきの苗字を正しいと思われる読み方で呼ぶのが怖くて、みゆきの意図を読み取る事を暗に避けていた。私は、不安を抱きながらも次の言葉を続ける他無かった。
「そして僕は……」
  私は、咽返る振りをしてわざと顔を伏せると、再びみゆきの表情を伺った。みゆきは、顔を伏せると長い髪の毛で顔を覆う様にしていて、その奥でじっと瞳を閉じていた。私は、躊躇っていた。心の中が、ざわついていた。だが、これ以上、口篭もって祐子を待たせるのも不自然だった。仕方が無いので、口元に手を添えながら、祐子の顔を見上た。
「僕は、クマガイタツヤです。よろしく」
  自分の名前を口にするのに、こんなにも罪悪感を抱いたのは初めてだった。高ぶって行く心臓の鼓動が丸で耳元で脈打っているかの様に思えた。背中の辺りに、嫌な汗が滲み出ていた。私は、泳がせていた視線を恐る恐るみゆきの方へ向けた。みゆきは、私の言葉に表情を変る事も無く、浅い息を一定のリズムで繰り返していた。その様子は、私の言葉を他人事でやり過ごそうとしている風にも見えた。
「あなた達、結婚していないんだ」
  祐子は、残念そうに呟いた。私は、その言葉を理解するのに、微妙な間が有った。そして、その言葉を理解すると同時に、心臓の辺りを握り潰されるような感覚に陥り、思わず息を呑んだ。
「結婚? 僕達が?」
  私が、驚いて反問すると、祐子は小刻みに首を横に振った。
「あなた達が余りに仲が良いから、そうだったら良いなと勝手に思っただけ。失礼しました」
  裕子は、首を突き出す様に頭を下げると、不自然な微笑を見せた。
「フジノさんにクマガイ君ね。フジノさんは、漢字でどう書くの?」
  私が、何故そう思ったのか突っ込んだ理由を訊ねる積もりで言葉を選んでいると、祐子は素早く話題を切り替えた。そして、分厚い手帳を膝の上に乗せると、まずみゆきに訊ねた。みゆきは、突然覚醒させられた人の様に、一瞬顔を強張らせた。そして、それを取り繕う様に薄い唇をぎこちなく広げると、少し間を置いて答えた。
「フジは藤沢市の藤、ノは野原の野です」
「名前は?」
「平仮名です」
  裕子は、手帳にメモを取ると、今度は、私の方を向いた。
「僕は、クマにタニで熊谷。タツは達人の達、ヤはナリの也です」
「字は、これで間違え無いかしら」
  私達の説明と共にメモを取っていた裕子は、ペンを置くと、分厚い手帳を私に手渡した。白いメモ紙に、蟻の様な細かい字が並んでいた。そして、新たに区切られた余白の上に、私とみゆきの名前が綺麗な字で書かれていた。私は、みゆきにも見える様に、手帳を二人の間で開いた。みゆきは、顔だけ手帳の方に向けて一つ頷いたが、視線は微かに逸らしていた。
「ええ、この字で間違い無いです。僕達も取材の対象になるのですか?」
  私が、その手帳を裕子に返すと、裕子は、意味ありげな微笑を浮かべた。
「書かれてみたい? 無論、実名とかは出さないわよ」
  裕子の問い掛けに、私は、咄嗟に照れ笑いを浮かべて首を傾げた。
「物にもよりますが……、祐子さんって、どんな題材の物を書かれているのですか?」
「今は、殆どが雑誌に載せる旅行物ね。今回は、青函連絡船を絡めた春先の北海道旅行記みたいになるのかな。まだ、全然構成を考えていないけれども。まぁ、この時期の北海道は三月と言っても、まだ冬みたいなものだけどね」
「密着取材みたく書かれるのですか?」
  冗談で、私はそう訊ねた。みゆきは、黙って缶ビールを傾けていた。それを見ていた裕子は、新しい缶ビールをみゆきに手渡した。
「密着取材か。仲の良い恋人同士が、春先の北海道を旅するって言うのも良いわね」
  思い付いた様に、裕子は、私達を見た。
「いや、やっぱり止めましょう。恥ずかしいから」
  私が思わず首を振ると、祐子は苦笑を浮かべた。
「でも、こんな事を聞いて、どうするのですか?」
  私は、素朴な疑問を祐子に投げかけた。
「職業柄、出会った人達の事を忘れないようにこうしてメモを取るようにしているの。今は仕事で使うのが殆どだけども、将来的にはこの手帳が私の財産になるわ」
「財産って言いますと?」
  私の質問に、祐子は含羞を含んで笑みを浮かべた。
「将来は作家になりたいのよ、私。小説って、結局書き手の経験や、書き手が出会った人達の人物像が描かれると思うの。だから、出会った人達の年齢や性別、そして性格や容姿なんかを系統立ててファイルして置く事が重要なのよ。そうしておくと、書きたいストーリーや題材によって、登場人物を選択出来るでしょ?」
  その時の私は、物を書く事に全く興味が無かったので、祐子が瞳をぎらぎら輝かせて話す物書き云々について空相づちを返していた。裕子は、私の表情などお構いなく、次の言葉を続けた。
「だから今は、色んな人と話しをして、それらの人達を詳しく観察しているのよ」
「観察ねぇ」
  多少興奮ぎみの祐子の言葉に水を差す様に、私はぽつりとそう呟いた。そして、みゆきの表情をちらりと伺った。みゆきは、他人に自分を観察されるのを嫌っていると思ったからである。私自身、こう改まって他人に観察されるのも良い気持ちではなかった。けれども、みゆきは、穏やかな表情で祐子の話を興味深げに聞いている様子だった。私は、不意に味方を失ってしまった気がしていた。何かに裏切られた、そんな気持ちで私が再び前を向くと、祐子はこう言い訳をした。
「面と向かって話をしている人に、今あなたを観察していますよなんて言うのも何だけどね。まぁ、こうやって色んな人と出会った事が、自分の為になるのよ。それは、小説を書くって事を全く抜きにしても、今後の人生、役に立つ時が必ず来るわ」
「人の出会いって、不思議ですよね」
  突然、みゆきが独り言の様に呟いた。祐子は、その言葉に反応する様にみゆきを指差すと、何度も肯いた。
「そうそう。人って思わぬ所で繋がっていたり、その繋がりで助けてもらったりしますから。そう考えると、人の出会いと言うか、その巡り合わせって不思議だよね」
  祐子の言葉を聞いた時、私は、自分の身の回りの人間関係を改めて思い返していた。中学から高校へ上がった時、知らない中学から来たクラスメイト達や初対面の先輩達が、中学の頃の身近な人間を知っていたりして驚いた事が有った。更には、私の過去において存在している人達、即ち、まゆみと順子も私を介さない全く別な場所で、知り合いになっていたのである。その意外な繋がりを思い出すと、みゆきや祐子の言った事も何となく分かる気がした。けれども、祐子は実社会における人間関係の深い部分を言いたいのだろうと勝手に思い込んでいた。祐子の言葉の意図は、彼女の年齢を想像すると、実社会の経験が殆ど無い未熟な私とは、論点が全くずれているのだろうとも感じていた。私は、一歩引いて祐子とみゆきの会話を半ば傍観しようとしていた。すると、祐子は不意打ちを掛ける様に、私に声を掛けて来た。
「今日、私とあなた達が出会ったのも何かの巡り合わせよね。達也君とみゆきさんも、何かの巡り合わせで出会ったのでしょ?」
「そう言われれば、そうですね」
  私は、祐子から視線を逸らした。嫌な予感を抱いていた。次に投げかけられるであろう祐子の言葉が、容易に想像出来たからである。
「あなた達は、どういう風に知り合ったの?あなた達を見ていると、何か運命的に結ばれた糸みたいなのが見えるのよね」
「運命的って、僕達がそういう風に見えますか?」
  私は、努めて静かな口調で反問した。
「そう見えたわよ。最初に食堂で見かけた時、あなた達の事を随分若い夫婦だと思ったもの。だって、あそこでは本当に仲が良かったじゃない。今でも、凄く仲が良いけど。駅のトイレでみゆきさんと再び出会って、あなた達の関係を聞いた時、恋人って言われたのが嘘だと思ったのよ。みゆきさんには申し訳無いけれども、なんかわけ有りの若夫婦に見えたのよね。で、階段で見せたあなた達の仕草と言い、ホームで見たあなた達の鞄と言い、完全にそう思っちゃったのよねぇ」
  祐子は、そう力説すると、まじまじと私達を見た。私は、祐子へ反問する代わりに苦笑を浮かべた。ビールから何時の間にかワンカップに切り替わった祐子の口は、饒舌だった。また、随分感情的にも聞こえた。けれども、表情は冷静だった。裕子の観察は、当たらずも遠からずだと思った。私は、遠慮を知らない祐子の言葉が、ある意味羨ましかった。もし、私の口がもっと饒舌だったなら、みゆきの意図や考えをもっと明らかに出来たかも知れない。そう思うと、自分が歯痒かった。そう感じる反面、不躾な質問で私やみゆきの心を惑わせる祐子を妬ましくも思った。私は、祐子をどうやって煙に巻こうか考えていた。今更、本当の事を口にする訳にも行かなかった。しかし、ありふれた作り話すら頭に浮かんでこなかった。今まで靄が掛かった頭の中が、今度は真っ白になって行くのが分かった。段々言葉が消えて行くに連れ、私は、その場を誤魔化そうと頭を掻くしか無かった。祐子は、何時までも返事を待っていた。みゆきは、缶ビールを窓枠に置いて小さく息を吐いた。






つづく



 
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