思いで


その26




  私達は、列の中程の所にいたが、ユウコの的確な指示と素早い身のこなしで難なく座席を確保する事が出来た。私がみゆきの大きな鞄で確保した座席のその前の座席をユウコは、手際良く回転させて私達と向かい合わせにした。私とみゆきが並んで腰を降ろすと、ユウコは、座席に大きなカメラケースと小さなボストンバックを並べて置いた。私は、荷物で埋められた目の前の座席のを見て、ユウコは何処に座るんだろうと、彼女の様子を眺めていた。すると、ユウコは、ボストンバックの中から食堂で開いていた分厚い手帳を取り出すした。そして、中腰のままで私達の方へ視線を移すとこう言った。
「長旅だからね、一寸買い出ししてきますわ」
「じゃあ、僕も一緒に行きますよ。き、…みゆきも、何か呑む?」
  私は、躊躇しながらも辛うじて、みゆきを名前で呼んだ。呼んだ後、人前でみゆきを名前でよく呼べたなと、自分自身で感心していた。感心すると同時に、恥ずかしくなった。恥ずかしさの余り、鼓動が段々と強く、そして早くなって行き、顔面が熱くなって行くのが分かった。みゆきの方は、丁度前髪が被さっていた右目だけで瞬きを一つすると、
「ビールかなぁ」
  と、平気な顔で答えて、財布から札を取り出した。私は、平然を精一杯に装いながらみゆきの手からお金を受け取ろうとした。すると、ユウコが突然、「いやいやいや」と小声を上げながら首を振った。私は、みゆきから札を受け取る前に思わず手を引っ込めた。みゆきは、お札を手にしたまま、ユウコの方を向いていた。ユウコは、動きを止めた私達の表情を確認する様に、私とみゆきを一度ずつ交互に見ると、こう口を開いた。
「今夜は、私におごらせて。だって、あなた達、二人っきりの旅を邪魔してしまうのだから。席も見ててもらわなきゃいけないし、一寸電話もかけなきゃいけないし、私一人で行って来ますわ」
  そして、軽く右手を上げると、再び列車の外へ出て行った。
  ユウコが居なくなった私達の座席は、車内の殆どの座席が埋まりつつある中で、一際浮いていた。座席を向かい合わせた人達は、四人で膝をぶつけながら掛けていた。二人掛けのままで使っている人達は、尚更窮屈そうだった。そこを三人で使おうとしている私達は、モラルに反している様に思えた。広い足元に良心が痛み、胸の辺りが締め付けられる苦さを味わっていた。ユウコと出会いさえしなければ、こんな思いにならずに済んだのかも知れないと、責任転嫁までしていた。尤も、座席に荷物を盛大に置いている私達の席に、相席を願い出る乗客はいなかった。けれども、車掌が通ったら、きっと何か言われるのではないかと言う不安が付きまとっていた。
「ユウコさんに気を使わせてしまったわね。悪い事しちゃったな」
  みゆきの言葉に、私は、「はぁ」と、溜息ともつかない上の空な相づちを返した。すると、みゆきは、不意に表情を曇らせると、独り言の様にこう呟いた。
「やっぱり、ユウコさんと一緒に行くの、断れば良かった」
「どうして?」
  みゆきの具体的な言葉に、私は、慌てて反問した。
「だって……」
  みゆきは、そう呟くと私から視線を逸らした。そして、右手の人差し指を唇に添えて少し首を傾げると、私とぎこちなく目を合わせた。
「あなたが、嫌がっている様に見えるもの。それに……」
  みゆきは、言いかけた言葉を躊躇う様に引っ込めると、唇を噛んで視線を落とした。そして、再び向けられたその瞳は、寂しそうに私へ何かを訴えかけていた。私は、みゆきが無言で語り掛けて来るその瞳の光をぼんやり眺とめていた。その光は、私が心の内に秘めたみゆきへの感情を表に導く目印にも思えた。そして、瞳の光の意味がおぼろげながら分かって来ると、彼女の意志をそれ以上深く掘り下げて読み取る事に怖さを覚えて、その光を直視出来なくなった。みゆきは、間隔の長い瞬きを二回見せると、言葉の続きを口にしようとしたのか、小さく息を吸い込み口元を微かに動かした。だが、声にはならず、代わりに小く息だけを吐いた。表へ吐き出せない感情を胸の内に詰まらせて苦しんでいるみゆきの姿は、ついさっきプラットホームの階段で見せた、切なそうなあの表情と同じだった。私の態度でみゆきの心を左右させている事に気付いた私は、みゆきを不憫に思った。そして、みゆきを苦しめている私自身を、いまいましく思った。みゆきをこれ以上苦しめずに済むには、どうしたらいいのだろうかと考え始めていた。すると不意に、「別れ」と言う二文字の輪郭が脳裏に浮かんで来た。その時、私は、口の中が段々乾いて行くのを感じた。その乾いた口から、思わず空気だけを呑み込んでいた。今更、そんな事は出来ないと、握り潰す様にその答えを頭から否定した。そして、そこから逃げ出したい一心で、別の答えを探し始めた。しかし、別の答えなど出て来る筈が無かった。今の感情を別の何かに摩り替えたかった私は、とにかくどんな言葉でも良いから口に出さなければいけないと、半ば投げやりにも似た変な焦りを感じていた。
「嫌じゃないさ。本当に嫌なら、断っているよ。君の頼みでもね」
  私は、平然を装いながら、みゆきの言葉を静かに否定した。しかし、心の内では、みゆきの頼みを断る勇気は無いと思っていた。嘘をついてしまった自分自身への罪悪感と、そしてみゆきに対して、後ろめたさを感じていた。けれども、みゆきは、私の答えに小さく微笑むと、優しい瞳で私を見ていた。私は、彼女の表面的な表情に胸を撫で下ろしていた。
「所で、腰はどうなりましたか」
  私は、みゆきが答えを返して来る前に、意識して話題を変えた。
「座ったから、随分楽になりましたよ。こうして座っている分には、痛みは殆ど無いですね」
「それは、良かった。食堂を出た後の君を見た時には、どうなるかと思ったけれども」
「心配掛けてごめんね。でも……」
  みゆきは、口篭もると、目線だけで辺りを見回した。そして、顔を私に近づけると、耳元でこう囁いた。
「こんなに混んでいるのに、私達だけ座席を余計に取っているのも悪い気がするわ。足を伸ばせて楽には楽なんだけど、何か肩身が狭いよね」
  みゆきの言葉に、私は苦笑を返した。だが、心の中では、みゆきと私が同じ感情を共有していた事に喜んでいた。
  すると突然、背後から、
「すいません。この席、空いていますか?」
  と、声を掛けられた。私とみゆきが、驚いて振り向くと、ユウコが笑いながら立っていた。
「なんてね、驚かせてごめんね」
  ユウコは、悪びれた様子も無くそう言うと、ボストンバックを荷物棚の上に乗せて、窓側の座席へ腰を降ろした。そして、キヨスクの大きなビニール袋から缶ビールを取り出して私とみゆきへ手渡すと、思い出した様に、みゆきの方を向いてこう訊ねた。
「私が彼氏の向かいに座っちゃっていいのかしら?」
「ええ、どうぞどうぞ」
  みゆきは、二、三度肯きながらそう答えた。ユウコは、みゆきの勧めに、にこりと微笑んだ。
「沢山買って来たから、遠慮無く飲んでね」
  ユウコはそう言うと、蓋を開けた飲み口から溢れ出たビールの泡を慌てて吸い込んでいた。そして、泡が落ち着くと、缶を私達の前に翳した。私達も、ユウコの後に続いて缶を翳した。ユウコが先陣を切って「乾杯」と音頭を取ると、三人は、一斉に缶を傾けた。私は、緊張の連続で乾き切った喉を潤す様に、ビールを一気に飲んだ気でいた。しかし、中身の残った缶を窓枠に置いてみゆきとユウコとを見ると、彼女達は喉を鳴らしながら缶を傾け続けていた。私は、どこまでこの二人は飲み続けるのだろうと、その姿に固唾を飲んでいた。まず、みゆきが顔を上げて大きな溜息を一つ吐いた。
「全部飲んだの?」
  驚く私に、みゆきは、笑いながら缶を振った。
「まさか、まだ残ってるよ。後少しだけどね」
  私とみゆきは、ユウコに視線を向けた。ユウコは、傾けたていた缶を高々と上げると、顔を顰めながら缶を握り潰した。
「かぁ、止められねぇわ。電車の中のビールもまた最高だね」
  ユウコの濁声に、私とみゆきは一瞬呆気に取られた。私達の表情に気付いたユウコは、唇を強張らせて白い歯を覗かせた。ユウコの姿に、私とみゆきは、笑った。
「凄いですね。一気に飲んでしまうんだもん」
  ユウコが、次の缶ビールの蓋を開けて既に口を付けている様子を見た私は、驚きの言葉を隠さなかった。
「何言ってるのよ。ビールってのはね、初めの一杯が一番美味いのよ。それを逃しちゃ勿体無いでしょう。ねぇ、みゆきさん。もう一本どうぞ」
  ユウコは、缶ビールをみゆきに差し出しながら答えた。彼女から、いきなり同意を求められたみゆきは、持っていた缶を慌てて空にすると、ユウコから缶ビールを受け取った。私は、半分以上残っている缶をチビチビと舐めていた。
「君は、男の癖に、酒が弱いんだねぇ」
  煽る様に缶を傾けているユウコは、顔色一つ変えずに呟いた。私は、その言葉に反論しようとして、「いや、……」と、口にすると、みゆきが、
「私が、代わりに飲んでますから、勘弁してやって下さいね」
  と、目元を仄かな紅色に染めながら答えた。ユウコは、豪快に笑い出すと、
「本当に良いカップルだわ。君達」
  と言って、大きく肯いていた。みゆきは、少し含羞む様に照れ笑いを浮かべた。
「それにしてもユウコさんは、強いですね。顔色全然変ってないもん。僕なんか直ぐに顔が真っ赤にるもんな」
  私は、みゆきの仕種とアルコールの所為で火照った頬を摩りながら、ユウコに言った。
「いや、私も飲むと、直ぐに顔に出るのよ。これ本当」
  三本目の缶に手を掛けたユウコの言葉は、信用出来ないと思った。怪訝そうな表情を浮かべている私に気付いたユウコは、思い出した様に言葉を続けた。
「おばさんはね。お肌が弱くて、雪でも直ぐに焼けちゃうのよ。だから、日焼け止めを塗っているのよ」
  私は、ユウコの言っている事が分からず、みゆきの方を見た。みゆきは、ユウコの言葉に納得した様に頷いていた。ユウコは立上がると、ボストンバックの中から小さなチューブを取り出した。
「この日焼け止めで助かってるわ。雪国の取材に出かけるには手放せないわね。後々の事を考えたら、ここでどんな格好になっても良いのよ」
  チューブの蓋を開けると、手の甲に絞り出した。そして、歯磨き粉みたいなクリームを薄く延ばすと、ユウコの顔色そっくりの色と艶になった。
「これ、みゆきさんに上げるわ。まだ一本残ってるから。彼氏も、真っ赤な肌より、みゆきさんの白くて綺麗な肌の方が好きでしょ?」
  みゆきは、ユウコの言葉に苦笑しながら、クリームを受け取った。私は、ユウコも何だかんだ言って女性なのだなと、変な所で感心していた。
「へぇ、取材ですか。ユウコさんって色んな所に出かけていらっしゃるんですね」
  私の問い掛けに、ユウコは上着のポケットから革表紙の小さなケースを取り出した。
「申し遅れました。私、こういう者で御座います」
  その中から名刺を取り出して、私とみゆきに手を添えながらそれぞれに手渡した。私は、ユウコの態度の変化を心の中で可笑しく思いながら、名刺を受け取った。
「中野祐子さんは、出版社の方なのですね。どうりで、色んな所を飛び回っている訳だ」
  私は、名刺に書かれた名前と祐子の顔を交互に見ていた。
「その出版社はね、主に原稿を出している会社の名前なの。実はフリーなんだけどね」
「へぇ、フリーの人が、会社の名前を使って良いものなのですか?」
  世の中の仕組みを何も知らない私の質問に、祐子は、あからさまに苦笑を浮かべた。
「私の場合は、フリーだけどこの会社の専属って言うか。会社も名刺に社名を入れても何も言わないし、名刺を使う事で取材の時にある程度の信用をもらえて、仕事もしやすくなるからね。私が仕事をする事で向こうも儲かってるんだから、まぁ、持ちつ持たれつみたいなものかな」
  私は、何となく祐子の言いたい事が分かった気がした。
「そう言えば、君達の名前を聞いていなかったわね」
  祐子の言葉を聞いた時、私は、横目でみゆきを見た。みゆきは、口元に不安げな表情を浮かべていた。その噤んだ口元は、答えを拒んでいるようにも見えた。私が、何と答えるか悩んでいると、列車は小さな衝撃と共に、札幌駅のホームから滑り出した。









つづく



 
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