思いで


その25




  みゆきは、早足で歩いていた。私は、みゆきの後を、駆け足で追いかけた。
「歩くの早いよ、君。本当に腰、大丈夫なの?」
  文句とも労りとも付かない私の言葉に、みゆきは、振り向いて笑った。
「腰は、走らなければ大丈夫ですよ。湿布を貼って大分楽になったし。私って歩くの早いかなぁ」
  私が急いでみゆきの隣へ並んだ時、彼女が他の歩行者を抜き去るのを見て、私は苦笑した。
「君が大丈夫なら、良いんだけど。矢張り、都会育ちの君は、歩くのが早いんだね」
  私の言葉に、みゆきは、思い出した様に答えた。
「そう言えば東京の街の中を歩くと、確かに皆、歩くの早いわね。私なんか遅い方なんだけどな。でも、初めて仙台に来た時は、駅前でも皆のんびり歩いているなって思ったわね」
「そんなに違うものなのかな」
「実家へ帰って、偶に渋谷なんか歩くと、人の流れの速さに驚きますからね。仙台の感覚で歩いていると、後ろから押しのけられちゃいますから」
  みゆきは、笑いながら答えると、ポケットから取り出した手帳を開いて、改札口の駅員に見せた。私も慌てて小さなパスケースに入れた切符を駅員に見せると、みゆきの後に続いて改札口をくぐり抜けた。
  プラットホームへ続く薄暗い地下道へ入った二人は、何人ものサラリーマンや学生達の脇をすり抜けて先を急いだ。
「あのね」
  みゆきは、小さな声でそう囁くと、私を見た。私は、みゆきの早足に着いて行くのに精一杯で、口を開かずに首を傾げて次の言葉を待っていた。すると、みゆきは、少し含羞む様に視線を下へ落とした。そして、喉に詰まったものを吐き出す様に口を開いた。
「ユウコさんの前で、私の事を、君って呼ぶのは止めて」
「どうして?」
  みゆきの意図を直ぐに読み取れなかった私は、困惑の表情を隠せなかった。みゆきは、白い頬を赤く染め始めていた。
「だって、私達、ユウコさんの前では、恋人同士でなければいけないから」
  私は、みゆきがユウコに話した私達の関係の事を思い出して苦笑した。
「それもそうだね。それじゃあ、君の事、何て呼ぼうか」
  みゆきは、少し考えるとこう答えた。
「名前で呼んで。その方が自然でしょ」
「みゆきさん、ね」
  私が、そう確認すると、みゆきは、首を振った。
「さん、は、いらないわ。呼び捨てで構わない」
「みゆき、で良いの?」
  私が驚いてそう問い直すと、みゆきは少し息を止めた。そして、早足の歩みと共に言葉を言い流してしまう様に一言で答えた。
「それで良いわ」
「それじゃ、君は僕の事を何て呼ぶの?」
  私が、ふと思い浮かんだ疑問をみゆきへぶつけた時、二人は階段を上り切り、プラットホームの様子が丁度視界へ入る所へ立っていた。夜行列車は、ホームに入っていなかった。列車を待つ旅人達が、ホームに溢れ返っていた。私達は、旅人達の中へ入る手前で立ち止まり、お互いを見詰めていた。
「僕の名前で、呼んでくれるの?」
  みゆきが、未だに私の名前を知らない事を承知しておきながら、私は、みゆきに対して手痛い言葉を呟いていた。みゆきへの疑問が、みゆきへの感情へと変化して行った。同時にその感情が、無意識の内に高ぶって行くのを感じていた。それは、みゆきと恋人を演じるからだけでは無かった。もっと深い所の何かが、そうさせていた。湧き上る感情の所為で、私の神経は、まるで熱にでも魘されている様だった。私は、頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出そうとしていた。
「それとも……」
  昨日の夜、連絡船の甲板でみゆきが私の耳元で囁いた「マサトシさん」と言う名前が、ふと脳裏を過ぎった。思わずその名前を口に出しかけたが、本能的にまずいと感じた。咳払いをして寸前の所で引っ込めた。みゆきは何とも答えないまま、潤んだ瞳を宙に泳がせると小さな溜息と共に俯いた。
『僕は、誰でもない、僕自身なんだ。だから、僕の名前で呼んで欲しいんだ』
  私は、心の中でそう叫んでいだ。しかし、その言葉を表に出す事が出来ない勇気の無さと、それをみゆきに伝えられないもどかしさに唇を噛んだ。
「だから……」
  私が苦し紛れに口にした言葉に、みゆきは、自分を苛む様な寂しい表情で答えた。みゆきの唇が、微かに動くのが分かった。だが、言葉にはならなかった。みゆきもまた、私に伝え切れない感情に苦しんでいる様子だった。すると、雑踏の中から、不意にユウコの叫び声が聞こえた。
「こっちこっち」
  向こうの方で大きく手招きをするユウコの姿を、階段を上り切ってホームへ出て行く旅人達が怪訝そうな目で見ていた。私は、ユウコの声を聞いたとたん、熱が冷めて行くのを感じた。みゆきは、ぼんやりとユウコの姿を見ていた。
「行こうか、みゆきさん。じゃなかった、みゆき」
  私は、何事も無かった様に、みゆきの手を引いた。私は、その言葉と仕種で、みゆきに対して詫びを入れている積もりでいた。みゆきは、一瞬躊躇しながら顔を上げると、笑顔を浮かべて頷いた。私は、みゆきの表情を見た時、蟠りが解けて行った気がした。
  ユウコが居たのは、私達が荷物を置いた列だった。
「もう少しで電車が来るみたいよ。とにかく間に合って良かったわ」
  ユウコは、私達を見て安堵の表情を浮かべた。
「で、あなた達の荷物は何処にあるの?」
  ユウコの質問に、私は、彼女の背後を指差した。ユウコは、ぐるりと首を回すと、「うわっ」と、無遠慮な驚きの声を上げて体を仰け反らせた。
「ユウコさんの荷物は?」
  みゆきの問い掛けに、ユウコはみゆきの大きな鞄の前に置かれた、小さなボストンバックを指差した。三人は、その偶然を目の前にして笑い出した。ユウコは、感慨深気に吐息をつくと、こう呟いた。
「人の出会いって面白いわよね。どの道、私はあなた達と一緒に旅する事になっていたのか。そう言う定めだったのよ」
  私は、ユウコが口にした「定め」と言う言葉の響きに、心の揺れを感じずにはいられなかった。何時の間にか、その言葉を頭の中でぐるぐると巡らせていた。そして、みゆきと私が出会った事も定められた巡り合わせだったのだろうかと言う疑問にたどり着いた時、心の奥底の何処かが再び熱くなって行くのを感じた。けれども、心の中でもう一人の私が、その思考を遮ろうとしていた。それは、ユウコの手前と言う事も少なからず影響していたのだろうが、本質的には無意識の内に働いた本能的な自己防衛なのかも知れないと感じた。今までの私なら、そんな冷静な自分を見つけ出す事が出来ただろうか?そんな疑問が頭の中を過ぎった時、私は、答えを逸らかす様に小さな溜息を漏らしていた。
「それにしても、随分大きな鞄だね。二人で駆け落ちでもして来たの?」
  私の心の内を知る筈も無いユウコは、みゆきの大きな鞄を指差すと、目を細めて私達を見ていた。みゆきは、ユウコの言葉と視線に顔を真っ赤にして俯いているだけだった。私は、みゆきが旅に出た真意を知らなかったので、みゆきの代弁をするにしても何と答えればいいのか分からなかった。しかし、ユウコは笑ってやり過ごしてくれる様な相手で無い事を直感した私は、思い付いた言い訳を適当に並べた。 「学校も休みに入ったから、行き当たりばったりの長旅に出たのは良いけれど、この子が旅慣れしてないものだから、こんなに荷物が大きくなってしまったんです。ユウコさんはどの位の予定で旅行なされているんですか?」
  話題を摩り替える積もりで一息に喋ったが、ユウコは、まだにやにやしていた。私は、この言葉がユウコにどう響いたのだろうかと不安になっていた。空気は寒いのに、後ろ手に組んだ手の平に汗が滲んで来るのが分かった。私は、変な緊張感を覚えながら、ユウコの答えを待っていた。
「東京を出て来て、もう一週間位経つかな。もう少しこっちに居るつもりよ。けど、十二日には、函館にいないといけないんだけどね」
  平凡なユウコの答えに、私は拍子抜けした。思わず吐きそうになった安堵の溜息を慌てて呑み込むと、話をそちらへ逸らす為に直ぐ口を開いた。
「十二日に函館ですか。連絡船の最終便に乗って帰るんですか?」
  私の質問に、ユウコは首を大きく横に振った。
「あの船には、乗れないわよ。だって、定期便の船に乗るのでさえ随分苦労したんだから。最終便に乗る為に、多分もう並んでるんじゃないのかなぁ」
「まさか、そんな事」
  ユウコの言葉を当て推量と決め付けた私は、嘲笑する様にそう一蹴した。
「あら、だって私が青森から船に乗った時、乗船の為の行列とは別に、若い人達が小さな列をもう作っていたわよ。多分、あれがそうなんじゃない?」
  言われてみれば確かに、私達の並んだ列の他に短い列が有った。私達が連絡船に乗って青森を離岸する時、桟橋の向こうに残った何人かの旅人達が船のデッキに居た人達に向かって手を振りながら最終便云々とか言っていたのを思い出した。そうなると、ユウコの言葉もあながち的外れではないのかなと思った。そう感じた時、私は、既に連絡船の最終便を待っている旅行者達に対する驚きとも、ユウコへ現してしまった自分自身の意見に対する侮蔑とも付かない小さな苦笑を浮かべて、
「そうかもしれませんね」
  と小さな声で答えると、ユウコに詫びる様に首を小さく傾げた。尤も、ユウコは、私の真意に気付く様子や、私の言動に不快を抱いている様子もなく、
「あなた達も、連絡船に乗って来たの?」
  と、新たな質問を投げかけていた。
「ええ、昨夜の連絡船で。物凄い混み様でしたよ。乗れるかどうか心配……」
  みゆきがそう言いかけた時、機関車に引かれたブルーの客車が発電機のエンジンの轟音を引きずる様に私達の前をゆっくりと過ぎて行った。そして、ドアの所にさしかかると、けたたましい金属音と共に車体は止まった。






つづく



 
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