思いで


その24




   待っている時間は、異常に長く感じられた。私は、腕時計の秒針を目で追い始めた。秒針がカチカチと回る度に、焦りが積み重なった。そして、積もった焦りが苦痛に変わっていった。人を待つのに、こんなにも辛い思いをした事が無い私は、変な胸騒ぎを覚えていた。私は、その胸騒ぎの原因を胸の内で探っていた。その答えは、私の目の前に直ぐさま映し出された。けれども、それを認めたくはなかった。何故なら、その先には不安な未来が待ち受けている事を予期していたから。その不安な未来に、目を背けたかったから。私の胸の内には、不安と共に切なさが込み上げていた。その切なさを振り切る様に、目を閉じて一定の深さの呼吸をしていた。
   みゆきが不自然な姿勢で入り口から出て来た時、私は、だらりと伸ばした腕を手首だけ曲げた。そして、人差し指で袖の内をそっと捲し上げると、腕時計の針を遠目に確認した。針が指していた文字盤の小さな数字は、みゆきを待ち始めてから実際には五分も経っていない事を教えてくれた。すると、それまで心の中で思い巡らせていた感情が、急に虚しく思えて、寂しく笑った。
「お待たせ」
  みゆきは、私に明るく声を掛けた。けれども、私の顔を覗き込むと、
「どうかしたの」
  と、心配そうに訊ねた。私が、「いや」と生返事を返すと、みゆきは、遠慮する様に自分の腕時計をちらりと覗いた。私は、みゆきの仕種を遮る様に慌てて作り上げた明るい声で言い直した。
「湿布は、ちゃんと貼れましたか」
「ええ、手伝ってもらいましたから。ちゃんと貼れましたよ」
「はぁ、誰に手伝ってもらったの?」
  私が驚いてそう問い直すと、みゆきは、悪戯っぽい微笑みを見せて入り口の方に振り返えった。すると、みゆきの後ろから食堂で一緒になった女の人が笑いながら歩いて来た。その女の人は、私の前に銀色の大きなカメラケースを降ろすと、一直線に私を見詰めていた。私は、みゆきの顔を見てその人の顔を見て、再びみゆきの顔を見た。
「君も随分冷たい人だね。大切な恋人が、辛そうにしているのに手伝ってあげないんだもの」
  その女の人は、まるで子供にでも説教する様な口調でそう言った。私は、心の中で「はぁ」と驚きとも疑問とも取れる声を上げていた。けれども、心の中で留めておいたはずの感情が、表情にも漏れ出していたらしく、みゆきと、その女の人は顔を見合わせて笑っていた。私は、唇の辺りを引きつらせて笑った。
「なんてね、嘘々。女子トイレの中まで男がいそいそとくっついて行くのも、可笑しな話だもんね」
  その女の人は、豪快に笑うと、カメラケースを再び肩に掛けて、
「さあ、行くよ。早くしないと、電車が入って来ちゃうから」
  と、大声で私達を促した。みゆきは、悪戯っぽい微笑みで私を見ていた。私は、その女の人が口にした「電車」と言う単語に、かなりの驚きと、まさかと言う不確かな予覚が胸の中で交錯していた。その交錯は、やがて疑問符と感嘆詞が交互に積み上げられて行った。結局は訳も分からずに、その女の人の後を付いて行った。
   詳しい事情が飲み込めていない私は、おどおどする事を通り越して、ただきょとんとしていた。そんな私の表情に気付いたみゆきは、歩きながら私と視線を合わせると、こうなった経緯を説明し始めた。
「いや、私が洗面台の前でどうやって湿布を貼ろうか悩んでいたら、ユウコさんが声を掛けて来てくれたの。それでね……」
「ユウコさん? ってこの人の事?」
  私は、みゆきの言葉を遮る様に、前を小走りに歩いている女の人の背中を指差した。みゆきは、歩みの反動で首を縦に揺らしながら、「それでね……」と言葉を続け様とした。すると今度は、ユウコがみゆきの言葉を遮った。
「ほら、詳しい話は後々。急がないと、本当に電車が来ちゃうよ」
  振り返ったユウコの目付きは、鋭かった。
「あの、電車って、稚内行きの夜行列車の事ですか?」
  私は、さっきから抱いていた疑問と不安を一括りにして、恐る恐るユウコに確かめてみた。
「そうよ。今の時間ならそれしかないでしょ?」
  ユウコは、その言葉の後に「当たり前じゃないのよ」と付け加えんばかりの勢いでそう反問すると、上着のポケットから懐中時計を取り出して硝子を指で叩いていた。そして、「走るよ」と、私達に声を掛けると、本当に走り出した。私は、振って沸いた様なユウコとの出会いが意味も無く可笑しくて、笑いたいのを我慢していた。みゆきは、私に苦笑いを見せた。
「と……」
  私は、声に出そうとした言葉を慌てて引っ込めると、鼻の下に人差し指を立てて、みゆきの方を見た。みゆきは、ちらりとユウコの背中を見ると、私に向かってこくりと肯いた。私は、みゆきの側に近づくと、耳元でこう囁いた。
「所で、ユウコさんに、何て言ったの」
  走りながらで要領の得ない私の質問に、みゆきは、首を傾げた。私は、自分を指差し、次いでみゆきを指差した。
「私達の関係?」
  みゆきの唇と指の動きが、そう問い返して来た。私は、はっきりと一つ肯いた。みゆきは、戸惑った様に視線を落とすと、
「恋人」
  と、唇を動かした。その言葉に、私は、思わず眉間を指で摘まんで下を向いた。すると、みゆきは、不安そうな表情を浮かべた。私は、慌てて首を振った。みゆきは、何か言いた気に私を見ていた。私は、耳に手を翳すとみゆきの口元に近づけた。
「だって、ユウコさんたら、初めから私達の事をそう思い込んでいたんだもの」
  みゆきの言い訳に、私は苦笑した。みゆきは、私の耳元に手を翳すとこうも言った。
「説明する暇も無かったわ。話がどんどん進んでしまって」
  そして潤んだ瞳を私に向けると、吐息だけで、
「ごめんね」
  と、囁いた。私は、みゆきの囁きを耳にした時、トイレの前でみゆきを待っていたさっきと同じ切なさが込み上げていた。その切なさは、胸を締め付けて行き、やがて苦しくなった。苦しくて、走るのを止めた。みゆきも、私と並んで立ち止まった。私は、寂しげな光を放ったみゆきの瞳を見詰めながら、努めて穏やかな調子で口を開いた。
「君が良ければ、それで良いんだよ」
  みゆきの瞳の寂しげな光は、何時の間にか表情全体に広がっていた。私は、胸の内で広がる切なさを押し戻す様に大きく深呼吸をすると、こう付け加えた。
「深く考える事はないさ」
  私の言葉は、私にとって言い訳でしかなかった。そして、みゆきにとっては、私が押し付けた偽善でしかないと思った。けれども、みゆきは何かに安心した様に頬を緩ませると、こくりと頷いた。私は、みゆきのその仕草を見た時、誰かに何かを許してもらった様な錯覚を覚えていた。すると、かなり前で振り返ったユウコが、そんな私達の雰囲気を切り裂く様に、大声で叫び始めた。
「一寸、あなた達、本当に電車が来ちゃうわよ」
  そして、人目も気にせず、大袈裟な手招きまで始めた。みゆきは、腰を摩って首を傾げて見せた。ユウコは、思い出した様に何度も肯くと私達に向けて手刀を切っていた。
「面白い人だね」
  私は、呆れ半分にそう言った。
「面白い人でしょ」
  みゆきは、私を見ると得意気に言った。
   私達がユウコのもとに追い付くと、結局は、三人並んで歩き始めた。
「腰、大丈夫? ごめんね、急がせてしまって」
  ユウコは、心配そうにみゆきに尋ねた。みゆきは、首を何度も横に振ると、
「いえいえ、時間も無いのにもたもたしていた私達も悪いんですから。腰は、走ると一寸痛い位です。まぁ大丈夫ですよ」
  と、笑って答えた。ユウコは、神妙な面持ちでみゆきを見ると、口を開いた。
「ゆっくり来て良いよ。私、先に行って三人分の座席を確保しておくから」
  ユウコのその言葉で、今までの行動が彼女なりの善意だった事を知り、私は、思わず頭を下げていた。みゆきも、私に倣う様に慌てて軽く会釈をした。ユウコは、手を左右に振って一歩身を引くと、
「私が彼女に無理矢理頼んで、一緒に稚内へ連れて行ってもらう事になったんだから、これ位はしないとね」
  と、最後には、笑顔を見せた。私達よりも年上と思われるユウコは屈託の無い笑顔を見せていた。私は、ユウコに対して、妙な親近感を抱いていた。
「こちらこそ、宜しくお願いします。所で座席を取ってもらうのは良いけれど、僕達の荷物、どうしようかな」
  私の心配に、ユウコは私の肩を軽く叩いた。
「座席さえ確保してしまえば、どうにでもなるよ。私、もうホームに荷物を並べて有るし」
  そう言いながら、上着のポケットに手を突っ込むと、懐中時計を取り出した。そして時間を確認すると、急に顔色を変えた。走り出そうと身構えたが、直ぐに振り返ると、
「とりあえず、先に行ってますわ。ゆっくりで良いから、早く来てね」
  と、言い残し、慌ててかけ出した。私は、ユウコの言葉の矛盾を笑いながら、右手を軽く上げてユウコを見送った。
「まずいなぁ」
  ユウコが通りを折れて姿が見えなくなった時、私は思い出した様に呟いた。
「どうしたの?」
  みゆきは、心配そうに私を見た。
「いやね、ユウコさんが、どの車両に席を取るのか聞くの忘れてた。まぁ、何とかなるか」
  私の投げやりな語気に、みゆきは、目元を緩めて頷いた。
「さて、行きますか、恋人さん。ユウコさん、待たせちゃ悪い」
  私の言葉に、みゆきは、首を少し傾げながら奇麗な笑顔を見せた。
「道中、楽しくなりそうだわ」
  私は、複雑に交錯する胸の内を他人の目で見る様に、そう呟いた。みゆきは、私のそんな胸の内を知る筈も無く、
「そうだね」
  と、笑いながら答えた。






つづく



 
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