思いで


その23




  食堂を出て、不図腕時計を見た私は、時計の針が指し示した時刻に思わず唸っていた。みゆきは、私の顔を見ると少し心配そうな顔をして問い掛けて来た。
「どうしたの」
「うん、食事の時間、長過ぎた。あの店に、何だかんだで三十分は居ましたね。道理で店員が何杯も水を汲みに来るわけだよ」
  私は、食堂で費やした時間を腕時計の小さな文字盤で勘定すると、苦笑いをした。
「あの食堂、随分混んでたけど、早く出ろって言わんばかりに、さっさと器まで下げに来る事無いじゃないよね」
  みゆきは、そう言って唇を尖らせると、小さく首を傾げた。
「夜行列車が出る前の、今時間位が稼ぎ時なんだろうさ、あそこは。それに、時期も時期だし仕方が無いんじゃないのかな」
  私は、みゆきを宥める積もりでそう言った。けれども、みゆきは、「そんなものなのかな」と、膨れっ面で一言答えただけだった。店の為の言い訳をしても仕方が無いと気付いた私は、こう言い直した。
「一人で食事するよりか、はるかに楽しかったよ。知らない間に、随分時間が過ぎてしまったもの。何時もの僕なら、あの女の人みたいにさっさと飯を食って、店を出てしまうでしょうね」
  私の言葉に、みゆきは目元を緩ませると口元に含羞みの表情を少し浮かべた。
「一人よりも二人の方が、良い時もあるよね」
  みゆきは、そう答えると、口元に浮かべていた含羞みを、寂しさに代えていた。私は、それに気付かない振りをして、みゆきの表情の変化を伺っていた。すると、みゆきは、
「私も楽しかったから、良しとするか」
  と、無邪気な笑顔を見せながら、そう答えた。私は、みゆきの答えと言うよりは、その表情に安心して相づちを打つと、再び自分の腕時計に目をやった。
「それにしても、そろそろ時間が不味いなぁ」
  私が、ひとり言を呟くと、みゆきは、私に釣られて自分の腕時計に目をやった。
「まだ、九時十五分じゃない。列車が出るのは五十分でしょ?」
「いや、九時半を過ぎると、列車が入って来るんだよ、確か。いや、もう一寸遅かったかなぁ……」
  私は昨年の夏、同じ夜行列車に乗った時の事を思い出そうとしていた。けれども、記憶が曖昧で、あの夜行列車が何時にホームへ入線して来るのかはっきりと思い出せなかった。思い出せないもどかしさと共に、こうしている間にも確実に過ぎて行く時間に焦りが出て来た。
「とりあえず、九時半迄にはホームに戻ろう。それまでに、ここで足せる用事は済ませておかないと」
  私の意見に、みゆきは右手を上げて立ち止まった。
「ごめん、それじゃあ、薬局に寄ってくれませんか」
「薬局? どうしたの、具合でも悪いの?」
  私は、驚きの言葉と共に、心配しながらみゆきの顔を覗き込んだ。大袈裟な私の口振りに、みゆきは上げた右手と首を大きく振った。
「具合が悪いと言うのじゃ無いんだけども、実は、あそこの店の席を立ってから何か腰が痛くなって来たのよ。湿布薬でも貼れば、少しは楽になると思うのですが」
  みゆきは、そう答えると頬の辺りを少し歪めて無理に笑顔を作りながら、腰の辺りを摩っていた。
「一日中、列車の固い椅子に座りっぱなしだったから無理も無いけど、大丈夫かい?」
「大丈夫には大丈夫なんだけど、小樽で転んだ時に打った所が今ごろ痛くなって来たのよ。ご飯を食べて、気持ちが緩んだ所為かなぁ」
  踏み固められた雪とも氷とも付かないあの歩道に腰を強打して、今まで平気だったと言うのも不思議な気がした。けれども、小樽運河で声を掛けて来たあの若い男の影を思い出した時、みゆきの神経が私の想像をはるかに絶する位張り詰めていたのだと思った。そうなると、あの若い男は、矢張りみゆきの知り合いなのだろうか。疑問が、不安に変化して行くのを感じていた。
「さっきまで、何でもなさそうだったのにね」
  私は、心の中で一瞬の内に色んな思いを巡らせると、遠回しにみゆきを試す様にこう言った。
「知らない内に指に小さな切り傷を負って、その傷を見つけた時、初めて痛みを感じるのと同じ様なものよ。それに、小樽の景色はとても奇麗だったし、その景色が痛みを忘れさせたのでしょうね。多分」
みゆきは、微笑みながらそう答えた。私は、「ふうん」と相づちを打つと、
「そんなものなのかな」
  と、肯定とも否定とも取れない曖昧な返事をした。
「そんなものよ」
  みゆきは、笑顔で答えた。私は、みゆきの答えと自分の答えの指している意味が全く違う気がしていた。けれども、そこでそれを云々する気にもなれず、みゆきの笑顔を見ていた。
  目的の湿布薬は、それ程苦労する事無く手に入れられた。しかし、それを薬としての役目を果たさせるには、患部に貼らなければいけないと言う事に気付いた私は、みゆきの顔を見て、首を小さく傾げた。
「困ったね」
  私が遠慮とも含羞みとも取れる意味で発した言葉に、みゆきは表情で疑問符を打っていた。
「湿布、何処で貼りますか?」
  私の質問で、みゆきは、私の意図をやっと察した様だった。
「このまま放っておいても、辛くなるだけだしなぁ。買ったのは良いけれども、どうしようかなぁ」
  みゆきは、小首を傾げると自分の手に持った湿布薬の入った薬局の紙袋を見た。言葉では呑気に構えている様子だったが、実際には歩いていて方向を変える時に生じる多少の体の捩れでも眉間の辺りに皺を寄せていた。腰を庇う所為か、歩き方が段々ぎこちなくなって来ているのも分かった。
「トイレかな」
  私が何気なくそう呟くと、みゆきは、閃いた様に私を指差した。
「そう、トイレしか無いわね、貼れる所は。さすが、あなた、旅慣れしているだけの事はありますね。私、全然思い付かなかったわ」
  みゆきの誉め言葉に、滑稽を感じた私は、「そう?」と反問する様に答えると、苦笑とも照れ笑いとも付かない微笑みを浮かべた。
  私達は、地下街の端を目指して歩きはじめた。以前に何度かこの地下街を歩いた記憶が有った私だけれども、トイレの場所を正確に覚えている程記憶力は無かった。けれども、何処の建物でもトイレと言うのは、端にある物だと思っていた。この地下街を歩くのが初めてだったみゆきは、私の後に付いて来た。尤も、目的地は当たらず外さずと言った場所に有った。
「一寸行って来ますね」
  みゆきは、上着と財布を私に預けると、多くの人達が出入りする入り口へ足を向けかけた。けども突然、思い出した様に私の方へくるりと振り返った。するとその瞬間、「あっ。」と声を上げて息を飲み込み顔を歪めた。そして、片膝を少し曲げると、腰に手を当てた。
「何々、どうしたの」
  私が慌ててみゆきの側に寄り添うと、みゆきは、「大丈夫、大丈夫」と苦笑に笑みを作りながら首を振った。
「馬鹿だね、私。痛いのに腰を捻っちゃった」
  みゆきは、自分自身を嘲笑するかの様に舌を出して見せた。
「所でどうしたのさ。忘れ物かい」
  私は、真面目な顔でみゆきに問い掛けた。
「いえ、あなたに私の荷物を持ってもらっていたら、あなたが用を足せないかなと思って……」
「用って、僕の心配かい」
  今度はみゆきが、真面目な顔で肯いた。私は、みゆきの言葉に大きな溜息を吐いた。
「あのね、それは気の使い過ぎだよ。僕は大丈夫。気にしないで行っていらっしゃい。ここで待っているからさ」
  私が諭す様にそう言うと、みゆきは改まった表情を見せた。
「ほら、時間が無いよ。急いだ急いだ」
  私が、片腕を胸の辺りにかざして入り口を差す様にばたばたさせると、みゆきは、笑い出した。
「ごめんね。心配ばかり掛けて」
  みゆきが再び真面目な顔を見せると、私は、「いや」と答えて言葉を続けた。
「君が謝る事はないさ。お互いに気を使う事も大切だろうけど、今は自分の心配をした方が良いよ。特に体の事なんだからさ。ほら、早く行っておいで」
  私は、みゆきの動きを促す様に手首を動かした。みゆきは、再び笑顔を見せると、ぎこちない姿勢で入り口の方へ歩いて行った。
  私は、みゆきを送り出した後、ぼんやりとその場に立っていた。ぼんやりと立ちながら、トイレの入り口を出入りする人達の姿を眺めていた。この人達は、誰かを気遣いながら用を足しているのだろうか。無意識の内にそんな事を考えている自分が、滑稽に思えて苦笑していた。何故こんな事を考えるのだろうかと、改めて思い返した。それまでの私は、こんな気持ちになるまで他人を思いやったり、また他人に思いやられたりした経験が無いと思っていた。その経験をさせてくれたみゆきの存在は、大きいのだと改めて感じていた。
  そんな事を思いながら、ぼんやりと立っていると、向こうの方から、食堂で一緒になったあの女の人が、すたすたとトイレの入り口目掛けて歩いて来た。その人は、脇目も振らずに私の横を通り過ぎると、入り口へ消えて行った。きっとこの人は、みゆきよりも早く出て来るに違いないと勝手な想像をした私は、変に胸を高ぶらせながらじっと入り口を見詰めていた。そんな私の姿を通行人達が、怪訝そうな目付きで通り過ぎて行くのに気付いた。私は、怪しくトイレの入り口を見詰める自分の姿を客観的に想像した時、急に顔の辺りが熱くなって行った。その場から立ち去りたい気持ちで、一歩足を動かしたが直ぐに止めた。そして、誰に照れを隠す訳でもなく苦笑いをすると、だらしなく伸び切った前髪を鼻の辺りまで引っ張りながら、髪の毛の間から見える入り口の光景を覗き見していた。しかし、何時まで経っても、その女の人は出てこなかった。みゆきの姿も見えなかった。どうしたんだろうと、急に不安になったが、どうする事も出来ずにその場に立っているのだった。






つづく



 
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