思いで


その22



  早足に小樽駅へ戻ると、ホームに停まっていた江別行きの赤い電車へ逃げ込む様に乗り込んだ。その列車は小樽を出発すると、駅へ停まる度に人が増えて行った。手稲を過ぎる頃には座席も殆ど埋まり、私達もサラリーマンの二人組みと相席になっていた。ほぼ一駅間隔ですれ違う上り列車も、満席に近い状態なのを見た時、私達は札幌圏に入ったのだと感じた。
  みゆきは、小樽運河の横断歩道を渡った路地を曲がってから、終始無言だった。頬の辺りを強張らせて、黙って物思いにふけっていた。私は、横断歩道の向こうに立っていた、あの男の事を思い出していた。しかし、何度思い返してもその若い男の顔に見覚えが無かった。若いと言っても、あの形から見て、私よりも年上に見えた。多分、二十代前半位であろうと予想した。けれども、その年頃で、しかもあんなに小奇麗な格好をした知り合いなど、私には一人も居なかった。だが、あの男は、横断歩道の向こう側で、私達を鋭い目付きで見詰めていた。その男の鋭くて縋る様な視線には、何か只ならぬ物を感じていた。私は、横断歩道の周りの状況を思い返していた。しかし、あの付近には私達以外、人影を見なかった。そうなると、あの男は、矢張り私達を呼び止めたのだろうか。いや、私達を誰かと見間違えていたのだろうか。それとも……。霧の中で見え隠れしていたその後の言葉が不意に心の中に浮かんで来た時、私は、胸の辺りが圧迫されるような感覚に陥った。息を少し止めると一気に吐き出して、呼吸を整えようと試みた。けれどもそれをする度に、呼吸は整う所か、更に重たい何かが圧し掛かって来るのだった。その苦しみから逃れ様と、みゆきの顔を見た。しかし、外界の刺激の一切を拒絶する様な彼女の表情を見ると、声を掛ける事も出来ず、諦めの溜息を吐いた。そして、窓の外を流れる街の明りをぼんやりと眺めていた。
  私達が再び口を開き始めたのは、札幌駅に降りた後、夜行列車が出発するプラットホームだった。二十時を回ったそのプラットホームには、通勤客の他に、旅行者らしき人達がうろうろしていた。柱伝いに張られたワイヤーに、このプラットホームから出発する列車の乗車案内の小さな案内札が、何枚も並んでいた。私は、その中から二人が乗ろうとしていた夜行列車の案内札を指で差しながら探した。そしてやっとの思いで目的の案内札を見つけ出し、その袂を見ると、乗車の順番を確保する為に置かれた鞄がプラットホームの真ん中まで一列に並べられていた。私は、自分の目を疑う様に案内札とその袂に並んだ鞄の列を何度も確認した。
「ここもかい……」
  落胆とも諦めとも付かない呟きと共に大きな溜息を漏らすと、列の最後尾に新聞紙を敷いて荷物を置いた。すると、人の話し声とガラガラと言う列車のエンジン音が共鳴した駅独特の雑音の中に、背後から微かにみゆきの声が聞こえた気がした。
「何?何か言った?」
  私は大声で反問しながら振り向くと、みゆきが、にこりと微笑んで唇を動かしていた。
「まだまだこれからでしょ。頑張って行こうよ」
  みゆきは、大きな声でそう言い直すと、細い腕を振りかざし拳を握った。私は、思い掛けないみゆきのその姿を見た時、今まで張り詰めていた緊張が一気に解けた気がした。
「腹減ったね。飯でも食いに行きますか」
  私がそう言ってみゆきに微笑み返すと、彼女は、両手でお腹の辺りを押さえて、首を小さく傾げた。私は、思わず声を出して笑っていた。
  私達は、寒い街中へ出る気にもならず、駅の地下にある食堂街を歩いていた。
「座席を確保するために荷物だけずらりと並んでいたけど、そこに人が居ないって言うのも、おかしな光景だよね」
  みゆきは、思い出した様にそう言うと、苦笑いを見せた。
「まぁ、確かにそうなんだけれども、ああやって荷物を置いておいても、盗まれないんだから、不思議だよなぁ」
私は、今までに何度か長い旅に出て、駅のプラットホームでこの時と同じ様な事をして来たが、荷物を無くした事は一度も無かった。その事をみゆきに話すと、彼女は「へぇ、そうなんだ」と感心していた。そして、「無料のコインロッカーみたいな物だよね」と笑ったが、直ぐに、「でも、東京辺りでそれをやると、多分、置き引きにあうよ」と真面目な顔でそうも言った。
「無料コインロッカーは、良いよな。荷物が盗まれないって事は、長閑って事も有るんだろうけども、荷物を置く人が、それだけ他人を信用しているって事でも有るんじゃないんですかね」
  私が笑いながらそう答えた。すると、みゆきは、「信用か……」と吐息と共にそう囁き、瞳の奥に寂しそうな影を浮かべて視線を落とした。けれども、二三度瞬きをすると、直ぐに私の方を向いた。
「荷物、置くのは良いけれど、皆何処に行っているんだろうね」
  みゆきの疑問に、私は、通り掛かったカレー屋の窓を指差した。カレー屋の大きな硝子窓の向こうには、大勢の人達が狭いカウンターに犇めき合い、肩をぶつけながら銀色のスプーンやフォークを忙しそうに動かしていた。その光景を目にした私達は、二人同時に大きな溜息を吐くとお互いの顔を見て苦笑いをした。
「ここだけ混んでるのかなぁ」
  みゆきは、そう呟くと、隣の食堂の入り口を覗き込んだ。そして、微笑みながら振り向くと、私を手招きした。
  その食堂も、かなり込んでいたが、レジに立っていた中年の店員に「取り合えず、こちらへどうぞ」と小さなテーブルに案内された。ショーケースのメニューもろくに見ないで店へ入った私達は、何にしようかと悩んでいると、お冷やを持ってきた店員が伝票片手に、私達の注文を待っていた。私は、焦りを感じながら、メニュー冊子に書かれた小さな文字を目で追っていた。その中から、値段的に手頃で、量が多そうなものを探し出すと、店員に注文した。みゆきも、同じ物を頼んだ。店員は、早口で私達の注文を繰り返すと、忙しそうにレジの方へ戻って行った。
「食い切れないくらいの料理が出てきたら、どうするのさ」
  私は、向かいに座ったみゆきにそう訊ねると、彼女は、笑って答えた。
「その時は、半分あなたに手伝ってもらうから、宜しくね」
  みゆきの答えに、私は苦笑を浮かべた。
「これ以上、肥えても困るんだよね。でも、痩せたいけど、食べたいんだがな」
  私の冗談に、みゆきは、口元に手を押し付けると必死に笑いを堪えていた。私は、肩を揺らしているみゆきを余所目に、「さて、どの程度のものが出て来るのやら」と、一人言を呟いて、他の客の前に並べられた大きな器を眺めた。すると、私達の注文を取った店員が慌てて戻って来た。私は、頼んだ料理が品切れだとか言い始めるのかと身構えていると、店員は、相変わらず形式的で早口な口調でこう断って来た。
「お客様、誠に済みませんが、お一人様、相席願いませんか?」
  私達がはいともいいえとも答える前に、店員は、銀色の大きなカメラケースと長い三脚を抱えた女の人を連れて来た。黒いトレーナーの上に黒革のハーフコート、それにジーパンという出で立ちで現れたその人は、私の隣の椅子にカメラケースと三脚を置くと、みゆきの隣に腰掛けた。そして、メニュー冊子に手も付けず待っていた店員に注文を言いつけると、コートのポケットから煙草を取り出し火を点けた。煙がテーブルの周りを漂い始めた時、その人は、私の顔を見た。私は、目が合うと、こくりと頭を下げた。その人も、不自然な青白い顔色に不自然な微笑みを浮かべて小さく会釈した。みゆきが、ちらちらと煙草の先を見ているのに気付いた、その人は、
「あっ、ごめんね。食事をする所で煙草なんか吸っちゃって」
  と言って灰皿に慌てて煙草を揉み消した。そして、自分の息で漂っていた煙を拡散させ様としたのか、唇を尖らせて頻りに息を吐いていた。みゆきは、その人の行動に少し戸惑った様子を見せると、
「私も、偶に吸いますから、遠慮せずにどうぞ」
  と、今度は恐縮した。
「あら、そうなの?あなたみたいな人がねぇ。本当、北海道の女の人って煙草、吸うのね。じゃあ遠慮なく」
  その人は、灰皿の前で手刀を切ると、燃えさしの煙草を取り上げた。そしてそれを咥えると、ポケットからライターを取り出して再び火を点けた。ゆっくりと息を吸い込んで、味わう様に煙を潜らせると、逆のポケットから分厚い手帳を取り出した。難しい顔をしながらぺらぺらとページを捲ると、ぼさぼさになったショートカットの髪の毛をぼりぼりと掻いていた。
  料理は、異常な速さで私達の前に運ばれて来た。もうもうと湯気が上がったその丼物に、三人ともほぼ同じに箸を付け始めた。その女の人は顔色一つ変えずにほぼ一定の速度で口の中に料理を詰め込むと、さっさと席を立った。
「味、分かって食ってたのかな、あの人」
  レジで清算を済ませたかと思ったら、既に窓の外の通路を涼しげな表情で足早に横切ったその人の姿に私は、呆気に取られてそう呟いた。
「どうなのかな。それにしても、随分豪快に食べてたよね」
  みゆきは、半分も手を付けていない自分の器の中身を見ながら苦笑した。
「確かに、凄かった。何をそんなに急ぐのかな」
  私は、その女の人の後ろ姿を目で追いながら相づちを打った。そう言いつつも、私の器の中身も、ほぼ無くなり掛けていた。それに気付いたみゆきは、
「私の食べていいよ。そんなに汚くしていないから、こんなので良ければどうぞ」
  と言い、几帳面にご飯を垂直に崩した丼物が入った器を私の前に差し出した。
「随分小食だね。じゃあ、遠慮無く」
  私は、自分の器の隣にみゆきの器を並べると、あの女の人がした様に器の前で手刀を切った。
「煙草、吸う?」
  再び肩を揺らして、笑いを堪えているみゆきに、冗談でそう訊ねた。みゆきは、目を瞑って下を向くと、
「いや、いらない」
  と、笑いを堪える様に声を揺らしながら早口で答えた。私は、込み上げて来る笑いで喉元が咽るのを我慢しながら再び箸を付け始めた。









つづく



 
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