思いで


その21





  坂を下り終わり、車の往来が激しい四車線の太い道路を横断すると、その道路と平行して古い倉庫が何件も軒を連ねていた。私達は、運河に掛かる橋の上に立っていた。
「ここが、そうみたいだね」
  私は、橋の欄干に積もった雪を払い落として手を掛けると、運河を緩やかに流れる水の動きを眺めながら言った。運河というからには、船の往来が出来るくらい広くて、荷役が出来る様な設備も整備されていて、その周辺はさぞかし人の動きが有って賑やかなのだろうと想像していた。だが、実際に見ると、川幅はそんなに広いわけでもなく、河岸は煉瓦が低く積まれているだけで運河に掛かる橋の高さもそれほどではなかった。第一、人影もまばらだった。どう見ても、街の中を流れる何処にでもありそうな川そのものだと感じた私は、想像していたものと実際とのギャップに少し落胆していた。
「あなたは、小樽に初めて来たの?」
  みゆきの声に、私は振り返った。みゆきは、穏やかな瞳で私を見ていた。
「ええ、通った事は有りますが、降りた事はありません。遠野の時と同じですね」
  みゆきは、「ふうん」と言って肯くと、こう続けた。
「そうなんだ。何度北海道に渡ったって言っていましたっけ?」
「今回で、三度目かな?前の二度は、列車ばかり乗ってましたからね。途中下車なんか、殆どしないで」
  私は、前にも何度かした言い訳を再び口にしていた。
「夏って言っていましたよね。夏も良いのでしょうけど、でも、今のこの雪が有る景色が凄く素敵ですよね、北海道らしくて」
  みゆきは、私の隣に並ぶと、瞼を細めながら綺麗な雪が無数に舞い下りて来る空を仰いでいた。私は、みゆきの嬉しそうな表情を見た時、彼女をここへ連れてきて良かったと思った。
  私達は、橋の横の階段を降りると、運河沿いに続く遊歩道を歩き始めた。歩道沿いの河岸には、規則正しい間隔でガス灯が建っていた。降りしきる雪の純白なスクリーンの上に、ガス灯の暖かく黄色い明りがぼんやりと浮かび上がっていた。みゆきは、その光景を目の前にして言葉も無かった。
「傘、邪魔だな」
  私がそう言って傘を引っ込めると、みゆきは、「ありがとう」と、礼を言って、綺麗な瞳を私に向けて微笑んだ。その時私は、みゆきが浮かべたその微笑みに思わず息を呑んだ。彼女の見せたその表情は、今まで一緒に居た中で最も綺麗だった。それは、今まで彼女が見せていた取繕う様な微笑みとは、全く別物だった。私の前で初めて見せたみゆきのその表情は、綺麗としか形容出来る言葉が見つからなかった。私が、ぽかんとみゆきの顔を見ていると、彼女は、含羞む様に視線を少し逸らした。
「景色、綺麗だけど、寒いわね」
「中に何枚着てるのさ?」
  私の問いに、みゆきは、顎を引いてコートの首から服の中を覗き込んだ。
「コートを入れて四枚かな。けれども、その内の一枚は、着ていても着ていなくても、この寒さには役に立っていないわ」
  みゆきの言葉に、今度は私が思わず赤面した。みゆきは、私の表情の変化に気付いたのか、悪戯っぽい微笑みを返してきた。私は、その微笑みを跳ね返す様に気を取り直してこう言った。
「実質三枚では、この寒さには厳し過ぎるね。着る物、他にちゃんと持ってきたの?」
  私が函館でした同じ質問を再び投げかけると、みゆきは、首を傾げた。
「函館位の寒さなら耐えられたし、大丈夫かなって思っていたんだけど、まさか小樽がこんなに寒いとは思ってもみなかった。実は、この寒さに耐えられる様な厚手の物って殆ど持ってきていないの。でも、何とかするわ。ごめんね、心配掛けて」
  みゆきの言葉にはっきりとした当てが無い事は、分かっていた。
「そうなんだ、それは困ったね。でも、寒さと空腹ほど切ないものは無いからなぁ……」
「明日、靴と一緒に着るものも買うわ」
「靴はどうしようもないけれども、服は、勿体無いでしょう。戻ったら貸しますよ。トレーナー、余計に持って来ているから。一枚有るだけで、随分違いますよ。それでも寒ければ買えば良い。今は、とりあえず、これだけでも違うでしょう」
  私は、自分の首に巻いたマフラーを解いてみゆきに差し出すとこう断った。
「男物だけど、贅沢は言っていられないよ。寒くなければそれで良いんだから」
  そして、私は、躊躇するみゆきの手にマフラーを持たせた。
「そんなの、あなたに悪いわよ。寒いでしょ?」
  みゆきの気遣いに、私は首を横に振った。
「僕は、五枚着込んでいるし、後はこれで十分だよ」
  私は、上着のポケットから手拭いを取り出すと、首に掛けて襟元へ押し込みながら言葉を続けた。
「風さえ入らなければ、どうって事無いんだよ。この寒さを凌げるのであれば、格好何か気にしていられない。けれども、君にこの格好をさせるのは酷でしょ?それに、してほしくも無いからね」
  みゆきが微笑みながら私の様子を伺っているのを見て、私は、笑いながらこう忠告した。
「あぁ、僕と一緒に居るのが恥ずかしいなら、少し離れていようか?」
  みゆきは、小さく横に首を振った。
「いいえ、そんな事は無いわ。決してね」
  そして、私が手渡したマフラーを細い首に掛けると後ろに伸びた長い髪の毛を直して、再びさっき見せた綺麗な笑顔を浮かべた。
「どうも有り難う。さっきとは全然違うわ」
  みゆきの礼の言葉に、私は頭を掻いて見せた。すると、みゆきは、「でもね……」と呟くと、そっと私の体を抱き締めた。
「こうしていた方が、もっと暖かいでしょ?」
  みゆきは、私の耳元でそう囁いた。私は、みゆきに優しく抱き寄せられたが、その瞬間、私の全身は硬直していた。けれどもそれは、昨夜連絡船の中で彼女に抱きしめられた時の感覚とはまるで違っていた。何が違うのだろうと考えていると、みゆきが正気だと言う事に気付いた。正気のみゆきに抱き締められた紛れも無いその事実に、喜びと驚きの余り、心の内で叫び声を上げていた。
「でも、折角の景色が見れなくなるし……」
  しかし、私は、呼吸を整えると、意識とはまるで反対の言葉を口にしていた。何故その言葉が出てきたのか、自分でも良く分からなかった。一瞬、私は気まずさを覚えたが、みゆきは、それを感じている様子も無く、「そうだね」と言って、そっと私から離れた。そして綺麗な瞳で私を見詰めていた。私は、ほっと胸を撫で下ろした反面、大きな獲物を逃がした狩人の様な気持ちになっていた。二人は、再び歩き始めた。私は、隣を歩いているみゆきの横顔を見ると、「ちっ」と小さな舌打ちをして大きな溜息を吐いた。
「どうしたの?」
  みゆきの何気ない問い掛けに、私は照れを隠す様に苦笑いを浮かべると、
「何でもないよ」
  と答えて、大きく背伸びをして見せた。
  私達は、浅草橋の袂から歩道に上がり右に折れると、横断歩道の信号の前で立ち止まった。
「晩御飯、どうしますか?」
  みゆきの問い掛けに、私は時計を見た。
「もう七時過ぎたのか。札幌に出たら、良い時間になるな。ここで食べたい?」
「今夜の夜行って、何時に出るんでしたっけ?」
  みゆきの反問に、私は指を折りながら、時間の勘定をしていた。
「九時五十分だったなぁ。……夜行は混みそうだしなぁ」
  私は、思い出した様に言葉を付け加えた。みゆきは、「そうだったよね」と答えると、言葉を続けた。
「それじゃあ、もう一度来たら良いじゃない。その時、美味しいご飯を食べましょう」
  みゆきの言葉に私が頷くと、目の前の信号が青に変わった。私達が横断歩道を渡ろうとした時、私達が歩いてきた方向から、不意に誰かを呼び止める男の声がした。
「……、トウノさん?」
  私達は、その声を無視しながら横断歩道を歩いていると、同じ男の声が再び、
「トウノさん、トウノさんだろう?」
  と、私達を呼び止める様に同じ名字を繰り返した。私の名字は、熊谷だった。みゆきの名字は、確か学生証では藤野だった。
「知ってる人?」
  私は、みゆきにそう訊ねると、彼女は、無言で小さく首を振った。
「待って、トウノさん」
  男の叫び声は、確実に私達へ近づいていた。みゆきは、私に寄りそうと腕を強く掴んだ。呼吸が早くなっているのが、彼女の白い息で分かった。
「傘、差そうか?」
  私が左ポケットから、折り畳み傘を出そうとすると、みゆきは、その手を遮った。そして、「いいの、このままで」と声を震わせながら答えた。私達が、横断歩道を渡り終わると、丁度信号が赤に変わり、間もなく大きな通りの車が動き出した。私は、歩きながら後ろを振り返った。すると、車に遮られて信号の前に立ち竦んだ男の人が私達を見詰めていた。暗くて良く分からなかったが、矢張り知らない人だった。すると、みゆきが「こっちの方が近いと思う」と言って私の腕を引っ張った。二人は、古い建物を右へ折れると暗がりの路地を足早に歩き始めた。みゆきは、唇を真一文字に噤むと決して後ろを振り返ろうとしなかった。








つづく



 
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