思いで


その20





  余市を過ぎる頃には、日も傾きかけて薄暗くなって来た。鉛色の空からは、東北では余り見かけない細かい結晶をした綺麗な雪が無数に降っていた。
  二人は、それ切り子供達の話をしなかった。その話をしない代わりに、それまで自然に交わされていた会話も途切れていた。みゆきは、二本目の煙草を吸い終わってから、私に煙草を強請る事も無く、真っ白な窓の外を物思いにふける様に見詰めていた。私は、みゆきが買い置きしていた真っ赤な色をした梅味の小さな飴を何個も口に頬張っては、包み紙を窓枠の片隅に積み上げていた。
「随分、甘いものが好きなのね」
  私が、窓枠に置かれた飴の袋に手を入れると、みゆきは呆れた様な表情を見せた。半時近く二人の間に漂っていた沈黙を破った。
「元々甘党だからね。太ると分かっていても駄目なんですよ。それにこの飴には、目が無いんですよ。梅味は本当に美味いわ」
「私、まだ一つしか食べてないのよ。私の分も残しておいてね」
  みゆきは、悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。私は、袋の中から飴を一つ取り出して「はいよ」とふざけた調子で声をかけると、みゆきの手の平へ飴を乗せた。
「私の分は、これだけ?」
  みゆきは、自分の白い手の平に乗せられた赤い飴玉を見ると、不思議そうに顔を上げた。二人は、お互いの顔を見合わせて見て笑った。
「太るの気にしているみたいだけど、そんなに太ってるかしら、あなた」
  みゆきは、まじまじと私の顔を見詰めた。学年末試験の殆どを一夜漬けで乗り切った私の頬は、自分でも驚く位こけていた。その頬には、試験期間に入る少し前から剃刀が当てられていない為、無精髭がぽつぽつと伸びていた。昨年末以来、床屋へ行っていない髪の毛の方は整髪料等が付けられている訳も無く、頭の天辺から不規則に色んな方向に伸びていて耳の上までだらしなく掛かっていた。私は恥ずかしくなってこめかみに力を入れると、目一杯唇を広げて見せた。
「腹が駄目なんですよ。普段は自転車で移動してるから結構な運動量になると思うんですが、どう言う訳か腹周りは確実に成長していくんです。何ででしょ?」
「それは、運動量に対してカロリー摂取量が多すぎるだけよ。不要な糖分は体内に脂肪として残るだけだから、食べる分を減らすか運動量を増やして脂肪を燃やせば良いだけの話だわ」
  みゆきは、笑いながら答えた。
「へぇ、それは、医者としての意見ですか?」
  私の問い掛けに、みゆきは苦笑いを浮かべると、小首を傾げた。
「医者じゃあなくても、それは一般的な常識よ。それに私は、医師ではないわよ」
「でも、医学部に通っているんでしょ?」
  みゆきは、少し困った様な表情を見せて、「まぁ、そうだけど」と答えた。
「医者には、ならないの?」
「医学を学んでいるからと言って、医師になるとは限らないのよ」
  そして、再び窓の外に目をやると、独り言を呟く様に、こう付け加えた。
「どうなるのかなぁ、私……」
  みゆきの寂しげな言葉を聞いた時、私は、余計な事を聞いてしまったと後悔していた。けれども、掛ける言葉を見つけられずに窓枠に肘を突きながら、みゆきの寂しそうな表情を観察するしかなかった。すると、みゆきは、私の腹回りを眺めると私の顔を見ながら再び笑顔を見せた。
「それにしてもあなたは、太りだしても顔には出ないタイプみたいだね。私は、少しでもお肉が付き始めると顔から来るから。あなたが羨ましいな」
  私は、みゆきの言葉に救われた気がした。二人は、また他愛の無い会話を始めていた。
  列車が長い下り坂を駆け下りてやがて速度を落とし始めると、車内放送は、間もなく小樽へ到着する旨を告げていた。
  小樽の駅のプラットホームに降り立つと、私達は足早に駅舎へ通じる階段を降りた。そして、何時もの様に必要な荷物だけを取り出して鞄をコインロッカーへ預けると、駅前のロータリーへ出た。
  街は既に日が落ちて、空は真っ暗だった。その空から、無数の粉雪がはらはらと舞っていた。街の明りにその雪が、きらきらと跳ね返っていた。何もかもが、雪に埋もれていた。青森や道南地方では感じなかった、強烈な寒さが二人を襲った。けれども、その張り詰めた寒気のお陰で、銀世界の中に街の光が動く度それを一層鮮やかに映えさせていた。決して都会ではないが、小樽の冬の街は、幻想的にその姿を私達に見せていた。みゆきは、顔の前に白い息を大きく吐きながら、「綺麗ね」と呟くと綺麗な瞳で辺りを見回した。私は、自分の吐息で素手を温めると上着の釦を全部閉めた。自然と「寒い」と言う言葉が口に出てくる程、寒さが身に染みた。ポケットに手を突っ込こみ肩を竦めると、首だけでみゆきに向いて、「さて、行きますか」と促した。二人は、海の方向目掛けて歩き始めた。
  駅前の国道を横切ると、そこから一直線に運河へ続く道が開けていた。デパートとホテルの大きな建物の間を過ぎると、目の前が明るくなった気がした。それと同時に、行く手を阻むかの様に雪が四方八方から私達の体に当たって来た。歩道は、雪が踏み固められて凍っていた。その上に、降りしきる新雪がさらりと覆っていた。しかも、緩やかな下り坂になっていた。私達は、体を前後左右に揺らして、よたよたとバランスを取りながら小刻みな歩幅で坂道を下った。みゆきは、コートのポケットから折り畳み傘を取り出すとそれを広げた。そして彼女は、長い腕を伸ばすと、その花柄の傘をすっかりと私の方へ差し向けた。
「それだと、君が入らなくなるよ」
  私がそう注意すると、今度は、私の左側に体をぴたりと寄せた。その時私は、心臓の鼓動が一気に高ぶって行くのを感じていた。女性の割には長身なみゆきは、歩みを進める度に私の肩と彼女の肩とを触れ合わせた。気付くと二人は、お互いの息使いが分かる位まで顔を近づけていた。お互いに、傘の大きさを気遣いながら。私の頬には、みゆきの真っ直ぐな長い髪の毛が、さらさらと触れていた。それでも、その小さな折り畳み傘は、みゆきの左肩を覆わなかった。薄茶色のコートの肩口が、雪で白くなっていた。頭を傾げた状態のみゆきの白い首筋が、雪で濡れて行くのが分かった。居たたまれなくなった私は、突然歩みを止めた。彼女に、「そんなに気を遣わなくても良いよ」と言う積もりで。歩みを止めた途端、私の頭上から小さな傘が消えた。その傘が、車道に飛んで行くのが分かった。左下を見ると、みゆきが足を歩道に投げ出してきょとんとした表情で腰の当たりに手をやっていた。私は、慌ててかがみ込み、
「大丈夫?」
  と声をかけた。私に腕を支えられて立ち上がったみゆきは、
「傘……」
  と、自分の右手を見て呟いた。
「傘より、腰、大丈夫かい?」
  みゆきは、私の肩に捕まりながらも、傘を捜している様子だった。
「傘は、あそこだよ」
  私が車道の方を指差すと、みゆきは傘目掛けて歩いて行こうとした。私は、彼女の両肩を押さえて制した。
「危ないよ。今、取って来るから、そこで待っていて」
  そう言い聞かせると、傘を取りに走った。傘が放り出された道路は、幸いにも車通りが少なく、傘が車に轢かれる事も無かった。しかし、勢い良く傘の端から落ちた所為か、骨が一本曲がっていた。歪になったその傘を見たみゆきは、寂しそうな表情を浮かべた。
「直してみていい?」
  私の申し出に、みゆきは肯いた。歪んでいた所は、幸いにも骨の関節部分を逸れていた。私は、細い骨に指先で少しずつ力を入れると、大体真っ直ぐに直した。けれども、直した部分だけ少し歪んでいた。
「これでも、大丈夫かな?」
  私は、そう言い訳をすると、みゆきの表情を伺った。みゆきは、その傘を見て直ぐに私の方を向くと、
「大丈夫……、もうそれで大丈夫ですよ」
  と、優しく言葉を繰り返し、
「ごめんなさい」
  と、謝った。
「いや、謝るのは、君じゃなくって、僕の方だよ。急に立ち止まった、僕が悪いんだから」
「いえ、私の歩き方が変だったのよ。それに靴も一寸、擦り減っているし。それで停まれなかったの」
  みゆきが、右足を爪先立ちさせると、二人は、靴底を覗き込んだ。雪が目詰まりしてまっ平らになっていた靴底を、みゆきが地面に何度か爪先を叩くと、擦り減った溝が現れた。
「まぁ、靴は明日買えば良いさ。函館の時は大丈夫だったの?」
「あそこは、ここよりも湿った雪だったし、積もってた雪も緩かったでしょ。それに、人が歩いた跡の所々に道路が出てたから何とかなっていたのよ」
  私は、「そっか」と答えると、上着のポケットから手拭いを取り出し、みゆきに渡した。みゆきは、「有り難う。」と礼を言うとそれを素直に受け取った。
「それよりも、腰以外には打ってないかい?」
「多分、大丈夫みたい」
  みゆきは、笑いながらそう答えると腰の辺りをさすって見せた。
「傘は、危ないわ。片手が塞がるから。僕が持つから」
  二人は、どちらからとも無く寄りそうと、再び緩い下り坂を歩き始めた。





つづく





 
文芸の世界へ          その21へ           ホームへ




inserted by FC2 system