思いで


その19




  子供達が居なくなった列車は、再び静寂を取り戻していた。デッキのドアを開けると、みゆきがぽつりと座っていた。私が元の席へ腰を下ろすと、彼女は、「また、静かになりましたね」と、声をかけて来た。
「そうですね」
  私が簡単に答えると、みゆきは、深い溜息を漏らした。
「煙草、一本もらえますか?」
  私は、みゆきの言葉に一瞬躊躇した。けれども、胸ポケットから皺になった煙草を取り出すと一本差し出した。みゆきは、それを丁寧に真っ直ぐに伸ばした。そして中指と人差し指でそれを挟み、唇にそっとくわえた。私は、彼女のくわえた煙草の先に火を付けた。みゆきは、小さく息を吸い込むと、ゆっくりと煙を吐き出し、「ありがとう」と礼を言った。
「煙草、吸うんだ」
  私の問い掛けに、みゆきは小さく笑顔を浮かべた。しかし、その潤いのある瞳には、寂し気に光っていた。
「偶に吸うのよ。嫌な事が有った時とか、忘れたい事がある時とか……。煙草を吸ったからって、どうにかなるってわけでもないのにね。まぁ、お酒呑むのと同じ様な事ですよ」
  私自身、煙草を吸い始めたきっかけが、過去の出来事の所為で精神的に辛かった時期だったので、みゆきの言いたい事が、何となく分かった。
「尤も、お酒を飲んだ所で、その場の記憶は無くなるかもしれないけど、過去の記憶は、絶対に無くなりはしないのにね。可笑しいわよね、大人って。あんなに具合の悪くなるものや、煙を吸ったりして」
  みゆきの言葉は、自分自身を嘲笑している様に聞こえた。私が苦笑を浮かべていると、彼女はこう聞いてきた。
「あなた、煙草を吸う女って嫌い?」
  自分の身近な女の人が煙草を吸う場面を目にした事のない私は、女の人が煙草を吸うイメージを思い浮かべた事が無かった。目の前で煙草を吸っているみゆきの姿を見た時、昨日よりも暗い彼女の影を見た気がした。好きとか嫌いとか、そういう感想は浮かんでこなかった。私は、みゆきの質問に何とも返事が出て来なかった。答えられない代わりに、小さく首を傾げて見せた。みゆきは、煙の向こうで、私を見詰めていた。
「嫌な事って、子供達が話していた事ですか?」
  会話の道筋を外してしまった私の言葉に、今度は、みゆきが小さく首を傾げた。そして、少しすると、かぶりを振ってこう言った。
「いえ、私が、あの子供達に言った事が、今になってどうにもやりきれなくて来たの」
「まぁ、相手が子供なんだから、あれで良いんじゃないんですか」
  私は、投げやりに答えた。みゆきは、前髪をかきあげると改めて私を見た。
「あなたの事も、勝手に恋人にしてしまったし……。ごめんね」
「いや……」
  私は、そこまで言うと、言葉を詰まらせた。そして、深く息を吸うと、口元に手を添えて、嬉しかったのに、と声を出さずに唇だけ動かしていた。
「私は、あの子に嘘を付いてしまったわ」
「嘘って、あれは……」
  例え話だろうと、心の中で呟いた。私は、その例え話を嘘という一言でみゆきに否定されてしまう事を暗に恐れていた。一歩踏込んで言うと、その時の私は、例え話の恋人関係でも満足していたのだ。みゆきの唇が声を出そうと動いた時、私は思わず目を閉じて俯いた。
「あの子には、声をかけない方が良かったのかも知れないなぁ……」
  みゆきの言葉に、私は、思わず安堵の溜息を漏らした。みゆきは、唇を噛み締めると眉間に皺を寄せて何かを考え込んでいた。
「君が、声をかけなくても、あの子供達の方から話かけていましたよ。あの調子だと」
  みゆきの言い訳を代弁する様に、私は言った。
「あの子が思っているほど、私、綺麗じゃないのにね」
  みゆきがぽつりと呟いたその言葉は、寂しかった。この時私は、みゆきが指している「あの子」が、あの男の子の事だと気付いた。
「そうかな。僕には、君が十分すぎる程綺麗に見えますが」
  私の答えに、みゆきは、「そう?」と言って苦笑いを浮かべた。
「でも、心の中は、随分汚れているのよ。性格悪いし、計算高くて、嫌な女よ。私も、あの子達の年頃位には、こんな大人にはなりたくないって思っていたけど、知らない内に、本当に嫌な大人になっていたわ。自分でも、嫌になるくらいに……」
「それは、誰でもそうなんじゃないのですか? 年を重ねるごとに、人の心って、曇って行くものでしょう。僕だって、あの子供達に比べたら、随分汚れていると思いますよ」
  私は、みゆきの自虐的な言葉を打消す為に、強い調子で言った。
「私は、何でも自分の心の内を素直に言葉に出来るあの子供達が、羨ましいのよ。感じた事を誤魔化しと言う色を付けないで表に出せるあの子達が、とてもね……」
  みゆきは、落ちそうになった煙草の灰に気付くと、それを器用に灰皿へ持って行き、言葉を続けた。
「あの男の子は、自分の感情を私達の前で素直に曝け出していましたよね。あの女の子達だって、あの時、悪役だったあなたから、私を助けてくれようとしていたし。その純粋さがとても羨ましいのよ」
  彼女は彼女なりに、あの男の子の心の動きを感じ取っていた様だった。みゆきよりは、あの子供達に年が近い私は、改めて自分の心の透明度を探ってみた。けれども、あの子供達の感性に気付いているみゆきの方が、私よりもはるかに心の内が透き通っている様に思えた。
「そこまで感じている君は、僕なんかよりも、心が綺麗だと思いますよ。僕なんか、あの子供達の事をただ生意気なガキだとしか思っていなかったのだから」
  私の年を知らないみゆきにこんな事を言っても、何の慰めにもならないと分かっていた。しかし、それでも言葉にしたかった私は、そう言うとみゆきの瞳をじっと見詰めた。みゆきもまた、そんな私に縋るような瞳で私を見ていた。けれども、小さく肩を落とすと、男の子が座っていた隣の席を見詰めて言った。
「私はね、大人の色で染まった汚い言葉で、あの男の子の心を傷つけてしまったのよ。誰も、傷つけたくないのに……」
その言葉を聞いた時、私は、昨夜の連絡船のプロムナードデッキでみゆきが震える声で切なげに呟いた、同じ言葉を思い出していた。
「あの子は、あの子なりに一時の夢を見られたのだから、彼はそれで満足していると思いますよ」
  私は、言葉ではみゆきを庇ったが、心の中では、男の子の切ない気持ちが痛いほど分かっていた。彼の幼心に大人の切なさを負わせてしまった原因が、みゆきの言葉だったのか、それとも、例えではあるがみゆきの恋人としての私の存在だったのか、今となっては確かな事は分からなかった。けれども、あの男の子が最後に見せた笑顔を思い出すと、どちらにしてもとても複雑な気持ちになった。
「それは、言い訳に過ぎないわ……、だって、あの子は、私に何かを求めていたけれども、私は、あの子に本質的には何も与えてあげられなかったわ」
  みゆきは、自分を苛む様にそう言った。私は、みゆきの切なさも同時に背負い込んだ気がした。
「本質的も何も、君は、あの男の子の気持ちを本当に理解していたのか君自身も分からないじゃないですか? あの子自身、自分の心の内を私達の前で直接明かした訳ではないのだから、そんなに気にする事は、無いと思いますよ。あの子の行動は、全て素振りだけだったのだから。それに、不確かな事で、自分を責めたって、心苦しくなるだけでしょ?」
  その言葉は、みゆきが言った、「大人の色で染まった汚い言葉」の他ならないと分かっていた。最後の一言に、自分自身への言い訳まで付け加えていた。しかし、その言葉以外しか見つけ出せなかった。私は、自分自身の切なさも背負い込んでしまった。みゆきは、煙草を揉消し灰皿の蓋をかたんと音を立てて閉じると、「そうかも知れないわね」と一息で呟き、そっと息を吸った。
「あの男の子に何を望まれていたかを、君はどう感じ取っていたのですか?」
  その質問が、みゆきをただ苦しめるだけと分かっていたのに、男の子への同情にも似た気持ちが、無意識の内にそう口を開かせていた。この思いを言葉にしてしまった事を、私自身が驚いたし後悔もしていた。私の問いかけに、みゆきは、首を傾げて口篭もった。そして、窓枠に肘を下ろして長い髪の毛に隠れたこめかみの辺りを綺麗な指先でそっと押さえると、こう答えた。
「私、あの子に与えるとか言ったけど、他人に何かを与えるって、とても難しい事なのよね。私は、自分自身にすら何も与える事が出来ないのに、人様に向かって何かを与えるなんて言葉を軽々しく使ってはいないのよね……。私の考え方は、独り善がりだったのかも知れないね」
  そして、両手を膝の上に置くと改まる様に私を真っ直ぐに見詰めた。そして、言葉を続けた。
「……あの子が望んでいた事は、あの男の子と、それとあなたにしか分らないのでしょうね。二人とも男性だから。……教えて下さい。あの男の子が何を望んでいたのかを」
  今度は、私が口篭もった。その複雑な気持ちを上手く言葉で言い表せないと言うよりも、言葉にしてしまう事自体に躊躇いを覚えていた。けれども、純粋な光を放ったみゆきの瞳に見詰められていた以上、私には、何かを答える義務が有った。
「もし僕が、君と出会って直ぐに……、昨日の朝、仙台を出た列車の中で、あの男の子と同じ様な行動をしていたら、君はどうしていましたか?」
  私の突飛な例え話に、みゆきは、一瞬戸惑いの表情をみせた。けれども、直ぐに何かを見出したかの様に小さな微笑みを浮かべると、
「そういう事ですね」
  と答えて、私から不図視線を逸らした。そして、肩で大きく息をすると、
「もう一本、貰っていいですか?」
  と、笑顔で私に煙草を強請った。私は、苦笑いを浮かべると、煙草の箱とライターを窓枠伝いにみゆきの方へそっと押しやった。みゆきはまた、「ありがとう」と礼を言うと、煙草に火を点けた。煙の向こうに、優しい表情で私を見詰めるみゆきの姿が有った。私は、煙の向こうに居るみゆきをいとおしいく思っていた。
  列車は、人里は慣れた線路の上をひたすら走っていた。




つづく




 
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