思いで


その17




  函館から乗った列車は、長万部止まりだった。長万部から小樽へ向かうには、室蘭本線経由の特急列車に乗り換えて札幌へ出るか、函館本線回りの各駅停車に乗り継ぐかの二つの方法が有った。特急列車は一時間、各駅停車は二時間の待ち合わせ時間が有ったが、どちらに乗っても小樽へは夕方過ぎにしか着かなかった。
  私は、みゆきにこれらの事情を説明した上でどちらの手段を取るか意見を聞いた。けれども、みゆきは、何時もの様に私に任せるの一言だけで、意見らしい意見を言わなかった。
  それでは、特急に乗ってしまおうかと言う話になったのだが、いざその列車が着いてみると七両も車両を連ねているにもかかわらず、どの車両も座席が埋まっていた。更に、ここで乗り込む客はかなりいたが、ここで降りる客は私の見た限り一人も居なかった。そのお陰か、デッキは無論、指定席の車両までにも立ち席が出ていた。列車の窓越しに乗客達の疲れきった顔を目にした二人は、もう一時間待ってでもここから始発の各駅停車に乗った方が楽が出来ると言う意見で一致し、エンジンのけたたましい轟音を上げながら加速して行く特急列車を見送った。
  片や各駅停車の方は、二両編成の車体を誰もいないひっそりとしたホームに横たえていた。
「あれ? この列車は、本当に札幌行きなんですか?」
  みゆきは、がらがらを通り越して、私達二人しか居ない車内を見渡しながら驚いていた。私は、窓を開けて車体の脇に掛かっている行き先表示盤の文字を確かめた。
「この列車で、間違い無いみたいですよ。まぁ、時間になればわたわたと乗ってきますよ」
  そう答えたものの、長万部を出発した列車は、車掌が車内をうろうろしなければ本当にお客を乗せて札幌へ向かうのかと疑うくらい誰も居なかった。
「地域によって、こんなにも違うのですね。昨日は、空いてるって言っても、ここまで誰も乗っていない列車は無かったでしょう? でも、特急ってあんなにも混むものなのですか?」
  みゆきは、今居るこの空間が信じられないのか、多少興奮気味な口調でこう言った。
「まぁ、さっきの特急は、網走行きの長距離列車ですからね。それに今は、連絡船が無くなってトンネルが生まれるって時期で北海道に人が沢山押し寄せていますから、普段よりは混んでいるんでしょう。それを考えると、僕等も混んでる原因の一因に含まれている筈なのですがね」
「私達も混んでいる原因の一因と言う割には、函館から乗ってきた列車と言い、この列車と言い、極端に空いた列車ばかりに当たっていますよね」
「そりゃ、日頃の行いが良いからですよ、お互いに」
  私の答えに、みゆきは、頬を緩めた。しかし、口元に微かな寂しさを浮かべていた。咄嗟に私は、話題を変えた。
「けど君は、川崎で満員電車には慣れてるんでないの?」
  私が、冗談半分でそう尋ねると、みゆきは、苦笑いを見せた。
「慣れていましたけど、偶に実家へ帰って電車に乗る時はラッシュを避けます。何も好き好んで、あんな電車には乗りたくはないですから」
  満員列車と言っても、さっき見た特急列車の様な座席に座れない程度の経験しか無い私は、「まぁね」と答えても、あまり実感が湧いて来なかった。
「何にしても、静かにのんびりと出来る方が良いですよ。混んでいると、落ち着いて弁当も広げられやしない。この先、こんなにがらがらな列車には、お目にかかれないかもしれないだろうから、せいぜいこの雰囲気を楽しんでおきましょうや」
  私は、薄っぺらい蓋に着いたご飯粒を割る前の割り箸でぎりぎりと削ぎ落とした。そして、ご飯粒が着いたその箸を一気に口へ入れた。
「これからは、混むって事ですか?」
  みゆきも私と同じ弁当を広げていたが、その薄っぺらい蓋に着いたご飯粒の一粒一粒を丁寧に割り箸で摘み上げて口へ運んでいだ。
「まぁ、何とも言えませんが、さっき考えたコース通りに順当に辿ると少なくとも夜行列車は、混みますね。今晩の稚内行きも結構混むと思いますよ。連絡船に、あれだけの人が乗っていたんだから」
  私は、そう答えてみたが、連絡船に乗る前に抱いていた程の危機感は感じていなかった。北海道へ入ってしまえば、どうにかなるだろうと思っていた。但し、それは何処にも根拠の無い無責任なものであった。けれども、みゆきもまた青森へ着く前に見せた楽天的な表情で、「そうですか」と答えた。
「疲れているのなら、今晩は、札幌辺りで宿でも取りましょうか?昨日は、大して寝れなかったし。何せ時間だけは、かなり余裕がありますから。さっき立てた予定なんてのは、幾らでも変更して良いんですよ。予定なんて有ってないようなものですから」
  私の忠告に、みゆきは、首を横に振った。
「まだまだ大丈夫です。こう見えても、体力には自信がありますから」
「へぇ、それにしては、あの鞄、重たそうに持ってたよね。何かスポーツでもやってたんですか?」
「あの鞄は、何も考えないで色々積めたら、ああなったのっ」
  みゆきは、顔を赤らめながら拳を振り上げた。そして、その拳を私の頭目掛けてそれを振り下ろすふりを見せた。私は、笑いながらそれを躱した。彼女も、にこりと微笑むと言葉を続けた。
「スポーツでは無いけれども、高校の時には、演劇をしていました。あれって結構、基礎体力がいるのですよ」
「ほぉ、演劇部ねぇ」
「いや、学校の部活動ではなくて、外の団体に入ってました。今でも、籍だけは残っているのですが」
「へぇ、そうなんだ。そりゃ本格的だね。それにしても、さぞかし綺麗な女優さんだったんでしょうね」
  私の言葉に、みゆきは再び顔を赤らめると、含羞む様に答えた。
「女優なんて言うと聞こえが良いですが、小さな劇団でしたから何でも兼任しないと公演が成立しなくなるのです。だから、本を書いたり、衣装作ったり、大道具、小道具作ったり、それはもう、色んな事をしました。舞台に立つ時は、泣いたり笑ったり喚いたり……。楽しかったなぁ、あの頃は……」
  みゆきは、最後の言葉をひとり言を呟く様に付け加えたると、遠くを見る様に窓へ視線を移した。
「良い思い出だったんですね、劇団での事は」
  その時、私は、自分の過去を思い返していた。そして、その中から自分の良い思い出を探し出そうとしていた。けれども、探すだけ自分が惨めになるだけだった。哀しくも有り、寂しくも有った。深い溜息と共に惨めさも吐き出すと、思い出探しを止めてしまった。みゆきは、視線を床に落としていた。そして彼女もまた、私の後を追う様に深い溜息を一つ吐いた。
「良い思い出と言うよりは、楽しかった思い出ですね……。あの頃の出来事は……」
  みゆきは、呟く様にこう答えると、寂しそうな微笑みを浮かべた。私は、一応「そうですか」と返事をしたが、彼女の言った、「良い思い出」と「楽しい思い出」の違いが分からなかった。その時の私は、どちらの言葉も、同じニュアンスで使われるものだと思っていた。
「良い思い出と、楽しかった思い出って何か違いが有るのですか?」
  どうしても分からなかったので私は、言葉にして聞いてみた。みゆきは、少し考え込んだ。
「私が、そう感じているだけで、一般的にはどう解釈されるのか分かりませんが……」
  みゆきは、そう前置きすると、丁寧に説明を始めた。
「楽しかった思い出と言うのは、主観的に見た、その出来事の思い出の事です。例えば、私と劇団の仲間達が祖父の熱海の別荘へ遊びに行って、海辺で水遊びに興じたその出来事は、私にとっても、劇団の仲間達にとっても、各々が楽しい思い出になりますよね」
  みゆきの問いかけに、私は、「はぁ」と虚ろに答えた。
「対して、良い思い出って言うのは、客観的に見たその出来事の思い出の事です。私が、劇団の公演で、良い役を……例えば主役を上手く演じ切り、お客さんの評価も良かった。これが、良い思い出だと思うのです」
  みゆきには悪いと思ったが、私は、無遠慮に小首を傾げた。みゆきの用いた、「主観的」と「客観的」のそれぞれの言葉は、それぞれ逆の例えで用いられるべき単語なのではと考えていた。
「御免なさい、私が舌足らずなばかりに……」
「いえいえ、僕が馬鹿なだけですから」
「例えが分かり難かったかな。……もっと平たい言い方をすると……」
  みゆきは、再び考え込むと、三度顔を赤らめ始めた。
「例えば私とあなたが、遊園地へ遊びに行きました。二人楽しく、ティーカップやメリーゴーランドに乗りました。これが、二人の楽しい思い出」
  私は、その例え話に思わず息を呑んだ。
「その遊園地での出来事を機に、私はあなたに告白されて、飛び上がる位に嬉しかった。周りの人達も、私達二人の事を喜んでくれたって言うのが、良い思い出よ」
  みゆきは、早口でそう言うと、照れを隠す様に微笑んだ。私は、みゆきの言葉に、どう反応すれば良いのか分からず、「良く分かりました、ありがとう」と礼を言い、ただ苦笑いを浮かべた。みゆきの言いたかった、「主観的」と「客観的」の意味が分かった気がした。心の中で感心すると、心臓の鼓動が早くなっているのに気付いた。私は、思い出した様に食べかけていた弁当に再び手を付けると、「あの値段にしては、美味いっすね」と、話を切り出した。そこから二人は、再び他愛の無い会話を始めた。
  窓の外は、何時の間にか細かい雪が舞い下りていた。列車は、曲がりくねった坂道を、ゆっくりとした速度で登り始めた。







つづく




 
文芸の世界へ          その18へ           ホームへ




inserted by FC2 system