思いで


その16



   列車は、函館を出発して暫くすると長い高架橋を駆け足で上った。そして、大沼を山の方に折れると、車両が古い所為か脱線するかと心配になるくらい車体が上下左右に激しく揺れた。大沼や駒ヶ岳を横目に見ながら三十分も走ると、急に海岸線が現れた。みゆきは、その光景に出くわすと声を上げて驚いていた。森に到着すると、線路の土盛りの下が海岸になっていた。手を伸ばすと海に届きそうだった。大沼から二手に分かれていた線路はここで再び一本になり、内浦湾に沿って長万部まで北上するのであった。
   函館本線と言った所で、所詮各駅停車だった。特急列車どころか、貨物列車にさえ追い抜かれた。それに何処に停まってもこの列車に乗客が増えることなく、気付くと私達二人だけになっていた。私は、煙草を吸いながら、ゆらゆらと漂う煙の行方をぼんやりと眺めていた。みゆきは、暫く手帳をぱらぱらと捲っていたがそれをぱたりと閉じると、窓の方に目を向けて口を開いた。
「昨日見た海とは、様子が全然違いますね」
「あぁ、三陸は、入り組んでましたからねぇ……、同じ太平洋だけど、こんなにも景色が違うものなんだね」
  線路の向こうの浜辺には、真っ白な雪が積もっていた。海岸線は、緩やかに右へ弧を描く様に続いていた。厚い雲の間から時たま覗く太陽の光が、大きな白波の波間に跳ね返っていた。その景色を眺めていたみゆきが、こんな言葉を呟いた。
「ここの海って、昨日見た海よりも暖かい気がする」
「どうして?」
「私の知らない所だから……」
  みゆきはそう答えると、寂しそうな微笑みを私に見せた。みゆきの答えた意味が良く呑み込めなかった私は、みゆきの表情が昨日よりも穏やかになっているのを確認した上で、思い切ってこう反問してみた。
「自分が知らない所だと、どうして暖かいのですか?」
  みゆきは、優しい眼差しで私の顔を見詰めていた。そして、少し間を置くと、こう答えた。
「普段自分が住んでいる土地よりも、知らない土地の方が、周りは暖かく迎えてくれるって事よ。それは、水も、空気も同じ事だと思う」
  私は、目の前に漂っている煙草の煙をつかむ様な気分で、みゆきの言葉を聞いた。小首を捻っていると、みゆきは、こう反問した。
「あなたは、一人暮らしをした事がありますか?」
  私は、無いと答えた。
「それじゃあ、その暖かさを感じるのは一寸難しいかも知れませんね……。人間って知らない所にぽいと投げ出されても、微かな希望とその土地の温かさを感じて来るものなのですが……」
  その経験の無い私には、「へぇ」と言う生返事しか返せなかった。それに、学校で習った室生犀星が読んだ詩の文句が頭の中に不意に浮かんで来て、一人暮らしのイメージがみゆきとは全く反対にしか持てなかった。みゆきは、こう言葉を続けた。
「例えば、旅に出て知らない土地の大地や水や空気に触れて今までいた現実の自分から……、良く言えば、見知らぬ土地の中でまだ出会った事の無い人たちや自分の知らない転機に希望を抱く。悪く言えば、いままでいた現実の世界から逃避してしまう様なものかしら」
  私は、昨年の夏この大地に立った時、確かにこの大地の優しさに触れた気がした。今まで気付かなかったが、私は、その優しさに救われて、再び仙台の地を踏んだのだった。そこに気付いた私は、思わず何度も首を縦に振っていた。
「僕は、一人暮らしの経験が無いんで、君の感覚は良く分からなかったけれども、なるほど、言われてみると、それが旅に通じるものが有るんですね」
「私は、あなたとは逆で、今までこんなに遠くまで旅に出た経験が無かったから、旅に出て味わう非現実的な感覚を想像するしかなかったけれども、実際旅に出てみて気付いてみると、知らない土地で暮らしている今の自分の感覚とそっくりだったから驚いたわ」
「でも、知らない土地って言っても、仙台に住んで、結構経つんでしょ? それにそう言う感覚って、一人暮らしを始めた時は、強いかもしれないけれども、日を追う毎に日常の生活に忙殺されて、次第に薄れて行くものではないのですか?」
「いいえ。私は、そんな事は無かったわ。仙台って、親戚や、知り合いすら一人も居ない、全く縁の無い土地ですから。私の生い立ちを全く知らない人達と出会って、その中で生活を始めると、本当に心が暖まると言うか、……心が休まるって言葉の方が正確かも知れませんね、あの感覚は。それを見つけた時、本当に感激しました。それまでの自分とは、まるで別人になった様な感じです」
  みゆきの話に、私がまだ小首を捻っていると、みゆきは、こう付け加えた。
「旅だって、何度出ても、その都度新たな感動を覚えるものなのでしょ?」
  私は、半ば説き伏せられる感も有ったが、その言葉を聞いて、みゆきが言っていた旅と一人暮らしをやっと一括りにする事が出来た。
「なるほど……、旅に出て、知らない土地で知らない人と出会って、新しい発見や、その土地の暖かさを知るのと、同じ様な感覚なんですね。僕は、旅の経験しかないから、一人暮らしの感覚は、それこそ、君の言う人伝いの域を脱していないけども。一つ勉強になりましたわ」
「私は、旅に出たおかげで、新しい発見をしました」
「もう見つけたんだ。そりゃ良かった。思い切って旅に出た甲斐が有るってもんですね」
「あなたと出会って、まだ丸一日しか時間が経っていないけれども、私は、危ない所をあなたの暖かさに、もう四度も助けてもらいました。私は、今まで人の暖かさや優しさに支えられて生きて来たけど、こんな事初めてです。新しい発見って、その事です」
  今まで穏やかだったみゆきの口調が、少し感情的に変化していた。しかし、みゆきを助けたと言う意識の無かった私は、再び、「へぇ」と生返事を返した。しかし、直ぐに思い当たる節が一つ頭の中に浮かんで来た。
「遠野での事?」
  私の問いに、みゆきは、「ええ」と肯いた。
「あれは、君が気を失ってしまったから……、なんだよ。本当に驚いたよ、あの時は。……後の三つは、申し訳ないけど、思い出せないなぁ」
  みゆきは、何も言わずにただ黙っていた。私の言葉を、待っている様でもあり、また、それを期待していない様にも見えた。そんなみゆきの姿を見た時、私は、後の三つの出来事を言い当てなければならない義務が生じてしまった様に思えた。しかしその時、私の頭の中には、みゆきが言った「助けた」行為は、遠野での出来事しか思い浮かべられなかった。私は、昨日起こった出来事を捲ってしまった日捲りを一枚一枚拾い集める様に思い返していた。それは、走り書きされたメモ書き程度のたった一行の断片的な文章で、記憶を組み立てて行く様な作業だった。
「……他に、強いて言えば、……、恩着せがましい言い方だけど、君を連絡船に乗せてあげた事ぐらいかなぁ……、乗せてあげたってのは、変だよね。僕が誘ったんだから。これは、取消しますわ。……あっ」
  私は、思わず声を上げていた。連絡船と言うキーワードから、ほつれた記憶の糸を手繰り寄せた時、昨晩、連絡船で起こった出来事が、一場面一字一句脳裏へ鮮明に蘇った。みゆきが言いたいのは、出港後の甲板での事なのか、それとも、深夜のプロムナードデッキで交わされた会話の事なのか分からなかった。だが、連絡船の中でみゆきとの間に起こった出来事が頭の中でぐるぐるとリプレイされる度に、そんな事は、もうどうでも良くなっていた。その時私は、何処からとも無く沸沸と湧き出て来る、言い様の無い不安に襲われていた。それは、記憶のジグゾーパズルの細かいピースが、ぴたぴたとはまり込んで行く度に、拡大して行った。胸の辺りが、締め付けられる様に苦しくなった。仕舞いには、じわじわと心臓に針でも刺される様な鈍痛が襲い掛かって来た。この記憶を呼び起こすと、辛い心持ちへ陥ってしまう事を本能的に知っていた私は、暗にその記憶を避けていたのだ。その記憶を、自分でも分からない様に断片を分散させ、その確信を奥底へと封印していたのだ。そんな封印を解き放ってしまった事を酷く後悔していた。私は、恐る恐る口を開いた。
「連絡線での出来事が、君を助けた内に入るんですか?」
「あの時、あなたがいなければ、私、どうなっていたか、分からないわ。多分もう、この旅は続けられなかったと思う……。今こうして、あなたとお話が出来るのが、本当に嬉しい……。言葉に出来ないくらい感謝しているの、あなたには」
「でも、逆に、僕が君の目の前に現れなかったら、君は、あんな辛い思いをすることは無かったかも知れないよ。それでも、君は、僕に恩を感じる事が出来るの?」
  私は、随分強い口調で言ったが、心の中では、言葉にしてしまった後悔の念と、みゆきが有らぬ方向に覚醒してしまうのではないかと言う不安が交錯していた。
「そうやって、私を突き放してくれる。それでいて、こんな私と旅をしてくれるあなたに感謝してるのよ。心から……」
  みゆきは、穏やかな口調で答えた。そして、柔らかな透き通った瞳で私を見詰めた。しかし、その瞳の奥底には、寂しい影が見え隠れしているのであった。昨日の出来事を、思い出す気力を失った私は、言葉も失っていた。すると、みゆきは、再び手帳を広げ、先の計画について話し始めた。二人は、何事も無かった様に、ぼんやりとした会話を交わし始めた。
   車窓からは、時折見せる太陽の光が雪に反射して、列車が雲の上でも走っている様に思えた。





つづく




 
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