思いで

その15



  私達は、長万部行きの各駅停車に乗り込んだ。その列車の隣のホームには、札幌行きの特急列車が停まっていたが、時間のかかるこの列車をあえて選んだ。第一に、特急列車は、かなりの乗客達で混み合っていた。第二に、終点まで時間の掛かるこの列車に乗って、ゆっくりと北海道内の予定を考え様と思った。行き先を決め兼ねているのに、特急列車に乗り込んでも無意味に思えた。第三に、私自身の性格が有った。私達の持っている切符でも、隣の特急列車に乗る事も出来るが、特別急ぐ用事が無い限り、ゆっくりと列車の揺れに身を任せるのが常だった。改札口で見かけた旅行者達は、各駅停車の古びた車体には見向きもせず、特急列車へと吸い込まれて行った。
  各駅停車の車内は、閑散としたもので、子供連れの女性と、向こうの方に年老いた男の人が一人、それぞれ一つのボックスに座っていた。私達は、海側のクロスシートに腰を下ろした。そして、さっき売店で買ってきた北海道のガイドブックと、時刻表を開いた。
「行きたい所が有ったら、遠慮無く言って下さいね」
  私が、そう言うと、みゆきは、もう一冊のガイドブックを眺め始めた。
「こうして、改めて北海道の地図を見ると、結構広いですね。何処へ行こうか迷ってしまうわ」
「今、持っている切符で半月は遊べますよ。尤も、手持ちの軍資金と、向こうへ戻らなければならないリミットが許す限りですが」
「向こう、って?」
「仙台……、です」
  私がそう答えると、みゆきは、地図から視線を逸らした。
「仙台……、か」
  私は、みゆきが吐息と共に呟いた、その意味ありげな言葉に気付かない振りをして、次の質問を投げかけた。
「何時まで、帰ればいいのですか?」
「……、あなたは?」
  私自身、はっきりとした答えを持っていなかったのに、みゆきにそう反問されると、何と答えるか躊躇していた。
「切符が切れるまで……、かな」
  私が、曖昧な答えを返すと、みゆきは上着のポケットから手帳を取り出した。そして、そこに挟められた切符を見ていた。
「十四日間ですか」
「十四日間ですね」
  私は、みゆきと同じ言葉を繰り返した。すると、期限付きのこの旅に、急に虚しさを覚えた。この旅を終えた後、みゆきとの関係が全く見えていなかった私は、虚しさの次に、不安の念が胸の中に込み上げて来た。
「私は、何時でもいい。……別に帰らなくても良いのです」
  みゆきの言葉に、混沌としていた胸の内が、急に凝縮して行った。
「帰らなくても良いって……」
  私が、そう反問すると、みゆきは口元に手を翳して考え込んだ。みゆきの言葉は、私に期待と不安の両方の牌を投げてきたのだった。はっきりとした期限を聞きたくも有り、知りたくも無い気がした。
「あなたが考えた計画通りで行きましょう。お互いに、行きたい所に行って、見たいものを見て……。私には、何時まで帰らなければならないって期限も特に持っていませんから、日程は、あなたの都合で自由に使って下さい」
  みゆきは、笑顔を見せてそう言った。けれども、その笑顔は、指先で押すと簡単に崩れてしまうものだと感じた。
「もし、切符の期限内に予定通り回り切れなかったら、どうしますか?」
  私は、意図的にこんな質問をした。彼女の真意を確かめにかかっていた。案の定、みゆきの表情に暗い影が落ちた。けれども、私の胸に後悔の念は、微塵も浮かばなかった。
「行きましょう。何処までも」
  みゆきは、真っ直ぐ私の顔を見て答えた。私は、みゆきの言葉に、妙な安堵感を抱いていた。その後、落ち着いて時刻表の小さな数字を追いかける事が出来た。
「それじゃ、行ける岬は全部行ってみましょう」
「北海道の最北端に行ってみましょうよ。宗谷岬ですね。稚内の」
  みゆきは、地図の一番上を指差した。
「稚内ですか。札幌から、今夜の夜行で発てばいいな」
  私が時刻表から目を上げると、みゆきは肯いた。
「それとも、何処かで宿を取りますか?疲れているでしょう」
  私の気遣いに、みゆきは首を振った。
「いいえ、今日は大丈夫です。泊まるなら、温泉のある所が良いですね」
「あっ、良いですね、温泉。そこでさっき買った干物をつまみに呑みましょうや」
  みゆきは、笑いながらガイドブックのページを捲った。
「北海道って、沢山温泉が有るのですね。何処に行こうか迷ってしまう」
「道東の温泉は良いですよ。十勝川温泉は、植物の化石だかで、お湯が濁って雰囲気が有るし。川湯温泉は、それこそ硫黄泉ですから、街の匂いだけでも温泉気分に浸れる」
「川湯温泉は、知床や摩周湖なんかに近いから良いですね。川湯温泉は決定ですね」
「思い付いた事は、メモを取って置きましょう。忘れるから」
「そうですね。私が書きます」
  みゆきは、地図から地名を写し始めた。
「宗谷、ノシャップ、知床、ノサップ、霧多布、エリモ、……、小さな岬を混ぜると切りが無いですね」
  口と手が同時に動いているみゆきの仕種に、私は笑った。
「列車で近くまで行けて、そこからバスで乗り継げる所にしましょう。レンタカーも良いけれど、小さな街では店も無いでしょうし、天候や道路の問題も有るでしょうし」
「あら、まだ私の運転を疑っているのね。良いわ、吹雪の中であなたを助手席に乗せてあげるから」
  みゆきは、わざとらしくふて腐れた態度をあからさまに見せた。私は、その滑稽に思わず吹き出した。みゆきも、笑い出した。岬の次は、行きたい都市や観光地を箇条書きにしていた。
「札幌、函館、稚内、網走、釧路、根室、帯広、富良野、旭川……、これも、箇条書きにするだけでも、相当な数になりそうですね。これを全部巡ったら、随分欲張りな旅行になりますね」
「まぁ、どうにかなるでしょう。切りの良い所で、その手帳を一度見せて下さい。どういう風に周るか考えてみますから」
  みゆきは、手帳を見直すと、それを私に手渡した。白いメモ紙のまっすぐな罫線に沿って、みゆきの奇麗な文字が丁寧に並んでいた。私は、時刻表の地図と、メモ帳に並んだ地名を見比べながら、巡る順序を考えた。
「この手帳に、書き込んでいいですか?」
  みゆきは、肯くと、持っていた万年筆を貸してくれた。
「へぇ、万年筆ですか。随分重いものなのですね。万年筆なんか使ったことがないから上手く書けるかなぁ。それにしても、高そうですね」
  その万年筆は、随分使い込まれている様であったが、傷は無く、黒い光沢の光を放っていた。迂闊にも、万年筆を使った事が無かった私は、書き方に四苦八苦していた。けれども慣れて来ると、万年筆自体に力を入れなくても、手の動いた通り文字になって行く便利さを味わっていた。
「形見なんです、父の」
「そうなんですか」
  みゆきは、その万年筆について、それ以上何も言わなかった。私もそれ以上、何も聞かなかった。
「所で、今日はどうしますか?」
  みゆきの言葉に、私は手を止めた。そして、時刻表の小さな文字から、今乗っている列車のダイヤを確かめた。
「札幌から稚内行きの夜行列車に乗ろうと考えていたのですが……。このまま乗り継いで行っても、札幌で随分時間を潰さなければならなくなるな」
  私がそう呟くと、みゆきは、ガイドブックの地図を指でなぞりながらこう聞いた。
「小樽に寄る時間は有りますか?」
  私は、時刻表の薄い紙を捲りかえした。
「小樽で、時間は取れますね」
「小樽運河って、有名なんでしょ。駅から歩いて十分位の所にあるみたいなのですが。それを見られる位の時間は有りますか?」
「十分です。長万部で各駅停車に乗り継いでも、小樽に夕方の六時頃には着くはずですから。小樽で夕食でも食いながらぶらぶらして、時間を潰すのも悪くないですね。稚内行きの夜行は、九時五十分だから、小樽を八時に出る汽車に乗れば良い」
  みゆきが、再びガイドブックを開いた時、私は、手帳をみゆきに返した。
「夕食は、何を食べますか?」
「安くて、美味くて、腹一杯になる物」
  上目使いで私がそう言うと、みゆきは声を出して笑った。
「何を笑っているんですか。基本ですよ。貧乏旅行の」
  私が、真面目な顔でこう言っても、みゆきは、笑いを堪えるのに必死だった。
「ごめんね……。でも、あなたの話し方が可笑しくって」
「そうかなぁ」
  私は、わざとらしく不快な声を出した。けれども、心の内では、みゆきの屈託の無い笑顔に、安心感を覚えていた。
  隣に停まっていた特急列車が、急にエンジンを唸らせて函館駅から滑り出すと、人気の無いプラットホームに売店のおばさん一人だけが、ぽつりと店を守っていた。





つづく




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