思いで

その14



  夜が明ける前には、あれだけ降っていた雪が嘘の様に止んだ。雲の切れ間から夜明け前の深く青い空が覗くと、街全体が真っ白な雪ですっぽり覆われている所為か、少しの光でも辺りの風景が冴えて見えた。その時間になると、駅の喫茶店も開店していて、多くの人達が街の寒さから逃げる様にコーヒーを啜ったり、モーニングのトーストを齧ったりしていた。
「こんなに雪道を歩いたのは初めてだから、少し疲れたわ」
  みゆきは、苦笑を浮かべながらそう言った。雪の中を無闇に歩き回ったものだから、体の普段使わない変な所に力が入っていた所為で、私も体のあちこちが痛かった。みゆきは特に脹脛に来た様子で、椅子に座ってもしきりに腰をかがめて足を揉んでいた。
「僕は、足よりも、腰に来ました」
  私は、無遠慮に腰を左右に捻った。
「寒いから、余計に変な所が痛くなるのよ。筋肉が固くなるから」
「へぇ、寒いの駄目ですか?」
「暑いのよりかは、良いけども……」
  みゆきは、首を傾げると言葉を続けた。
「私、夏より、冬の方が好きよ」
「どうしてですか?」
「……、空が奇麗だから」
  みゆきは、そう答えると、テーブルの上に視線を落とした。みゆきの言葉には、はっきりとした事が分からないけれども、きっと別な意味が含まれているんだろうと直ぐに想像出来た。けれども私は、そこに触れない様に、言葉を選んだ。
「空気が透き通っていて、寒いから、余計に空が奇麗にみえるのでしょうね」
「東京も、冬の空だけは奇麗だったわ」
「冬になると、東京でも富士山が良く見えるって言いますよね」
「そう、普段は淀んだ空気で包まれているのに、冬の本当に寒い朝は、奇麗に見えるのよ。不思議なくらいに」
「へぇ、そうなんだ。まぁ寒いのは、着る物を着れば何とか凌げますからね。暑いのは、何をやったって暑いんだから。所で着る物は、ちゃんと持ってきましたか?」
  テーブルには、オーダーしたコーヒーが並んだ。私は、それに手を付けながら聞くと、みゆきは大きく二度肯いた。
「コーヒーを飲むのに、随分苦労していますね」
  みゆきは、仕草を見て笑っていた。
「そりゃ、女の人の前で、ずるずる音を立てて飲めませんからね」
  体が冷え切っている所為か、そのコーヒーは随分熱く感じていた。
「別に、気にする事無いのに」
  みゆきは、気の毒そうに答えた。けれども、私は音を立てずにコーヒーを飲む様に努力した。
「私達って、端から見ると、どういう風に見えるんでしょうね?」
  みゆきの疑問に、私は、啜りかけたコーヒーに咽返った。
「干物屋のおばさんの、かあさん、旦那さん、には参りましたが……」
  私は、この喫茶店に居る客達を眺めた。壁際のテーブルに四人の女の子の集団が一組いるだけで、他は、どう見ても夫婦連れか若い男達だった。若い男と女の対で居るのは、私達だけだった。
「本当に、そう見えたのかな?あのおばさんには」
  私は、首を傾げた。
「あのおばさんがそう思ってくれたから、随分安い買い物が出来んですよ。あのおばさんには感謝しないと」
  みゆきの言葉に、私は思わず苦笑いをした。
「僕たちが、あのおばさんの勘違いを利用したのか?それとも、あのおばさんが、僕たちの関係を利用したのか?」
  私の問い掛けに、今度は、みゆきが苦笑いをした。
「兄弟、には見えないか。どう見たって」
  私は、自分の言葉を打消す様に、煙草にを点けた。すると、煙の向こうに、不意に影を落としたみゆきの瞳があった。
「友達……、かな?」
  自分の言葉の裏に、『恋人』と言う文字が映った時、全身の血液が頭の上に一気に駆け上がって行った。顔の辺りが、熱くなって行くのを感じた。
「夫婦、ってのは可笑しいですよね。まぁ、何と見られようと良いじゃないですか。他の人がどう思ったって……」
  私は、熱を冷ます様に、また、自分に言い訳をする様にそう呟いた。
「干物屋さんでは、楽しかったですね」
  みゆきは、私の言葉に何とも答えない代わりにそう言った。けれども、その言葉とは裏腹に寂しそうな微笑みを浮かべた。
「そうですね。一人だと、ああは行きませんもんね」
  私は、みゆきの態度に、疑問を持った。噛み合わない話題を、暗に引き戻そうと試みた。けれども、みゆきは、小さく肯くだけで、元の話題に戻ろうとはしなかった。私は、何か変な気分に陥った。
「ところで、これからどうしますか?」
  みゆきの一言に、私は、思わず青ざめた。同時に、変な気持ちに陥っていた私の心を、一気に現実へ引き戻した。
「さて、どうしましょうか……」
  私は、青函連絡船に乗れた事ですっかり安堵していた。それから先の事は、全然考えていなかった。みゆきは、私の次の言葉を待っていた。私は、言い訳をするように口を開いた。
「ごめんなさい。連絡船に乗る事ばかり考えて、ここから先の事は全然考えていませんでした……」
  今までの私は、一度列車に乗ると、殆どの場合終点まで降りなかった。ひたすら列車に乗って、無意味に距離を稼ぐ一人旅ばかりしていた。更に不幸な事に、私は連れを伴って旅をした事が無かった。それに、観光の知識に全く疎かった。けれども、今回の旅は、全くの例外にしなければならない義務が有った。どういう結末が待っていようとも。
「列車で移動する分には、私達が持っている切符で何とでもなるのですが。さて……、何処に行きたいですか?」
  私の質問は、漠然としていた。
「見られる所は、見に行きましょう。折角、北海道に渡って来たのだから」
  みゆきは、首を傾げながら答えた。私は、北海道に関する自分の持っている知識を白状せざるをえなくなった。
「……、実は、列車に乗って、何処かへ出かける分には、時刻表一冊有れば事が足りるのですが、目的地に着いてそこで何をするか、何を見て、何処に泊まるか、僕は、そう言った資料を全く持っていない。例えば、札幌に行きたいって言えば、列車で行けるけど、札幌で何をしようか……」
  伏せた視線を、恐る恐る上げると、みゆきは、ただ微笑んでいた。
「私に合わせる事はないのですよ。私が、無理を言って勝手にあなたの後を付いて来ただけなのですから。私は、あなたの予定に付いていきます。私も、何も知らないで、ここまで来たのですから。行き当たりばったりでも、良いじゃないですか。そんな旅がしてみたかったから、私、旅に出たんですもの」
「でも、僕の行き当たりばったりは、半端じゃないですよ。都市間の移動手段は、列車しか考えていないし、夜行列車を上手く乗り継いで、宿代浮かせたりするんだから。君に歯止めを掛けてもらわないと……」
「そう言う旅も良いでしょう」
  私が力説したにもかかわらず、みゆきは、その一言で全てを片づけてしまった。
「君の意見も聞かないと、君が見たいと思っていた物も見られなくなってしまうよ。僕は、誰かと一緒に旅をするのは初めてだから……。でも、誰かと一緒に旅をしないと、観光地って行かないかも知れないから、良い機会ですわ。僕にとって」
「分かりました。もし札幌行って何処かへ行くにしても、バスも有るし、レンタカーって手も有るんだし、ガイドブックでも見れば色んな所が載ってますよ」
「あっ、僕は、車を運転出来ませんよ。免許、持っていないから」
「私が運転できますから、……」
  みゆきは、照れ笑いを見せた。
「免許、持っているんですか。良いですね。でも、雪道でまともに運転出来るんですか?」
「何を言っているんですか。もう、一回書き換えてるんですよ。家では、車も運転しているし」
  その時の私には、一回の書き換えで、みゆきに何年の運転暦が有るのか分からなかった。
「川崎で?」
「実家でもしていますが、普段も運転していますよ。最近は、自分の車を持つ様になって運転する機会が増えましたから」
「へぇ。東京近辺で運転しているのなら大した物だ。でも、誰かの助手席の方が多いんじゃないのですか?」
「仲の良い友達の車には良く乗りましたよ。けれども、たまたま親のお古の車が手に入ったものですから。有れば有ったで便利ですから、自分の車は、自分で運転しますよ」
  私の不躾な質問をみゆきは、笑いながらあっさりと躱した。
「一人で、ドライブしてるんだ」
「友達と一緒に出かける事も有りますが、殆どは、一人で走りますね。その方が気楽だから」
「一人で気ままなドライブ、良いよね。車が有ったら、何時でも好きな所に行けるもんな」
「自分で車を運転する様になったら、世界が開けた感じがしました。行動範囲が歩きや電車に比べると極端に広くなりますもの」
「でも、雪道だからなぁ。まぁ、君と心中できるのなら、それでも良いか」
  私の言葉は、本気と冗談が半々であった。どちらとも付かない、他愛の無い言葉であった。けれども、みゆきは、不図暗い影を落とした。
「あなたは、行きずりの人と死ねますか?」
  みゆきの静かな言葉が、私の胸の内に冷たく響いた時、私は、何とも答えられなかった。苦し紛れに煙草に火を点けるのが精一杯だった。
「……、もし、あなたがそうしてくれるのなら、私、……」
  みゆきは、深いため息を吐いた。
「君、一人だけ逝かれても困るけれども」
  私の答えは冗談になっていなかった。けれどもみゆきは、寂しい微笑みを浮かべた。
「さて、一寸は先の事でも真面目に考えますか。売店でガイドブック買ってきますわ」
  私は、何事も無かった様にそう言い残すと、一人で席を立った。駅には、連絡船の乗客の他に、函館で宿を取ったと見える旅人達が大きな鞄を手に、改札が始まるのを待っていた。






つづく




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