思いで

その13



  現実と幻覚の狭間を行き来している内に、船室の蛍光燈の白い光が、私の網膜を刺激した。同時に、函館港入港を告げる船内放送が流れ出した。すると、今まで寝静まり返っていた乗客達が一斉に起き出して、身支度を始めた。私は腕だけを立てて時計の小さな文字盤を見た。入港までまだ三十分は有った。私は、鉛の様に重くなった体を起こすと、まだ横になっているみゆきの様子を眺めた。静かに寝息を立てているみゆきの頬に、何本かの涙の跡を見た時、私は思わず自分の目頭の辺りを指でさすった。そして、鞄の中から洗面道具を引っ張り出すと、慌てて洗面所へ走った。
  洗面所は、思ったよりも混雑していて、洗面台が空くのを並んで待つ程だった。航海中、随分揺れていたので寝付けなかったのか、殆どの人が青白い顔で頬に髭剃りを当てたりだるそうに歯磨きをしたり何度も顔に水を掛けたりしていた。昨晩の出港間際には、あんなにはしゃいでいた人達が、たった四時間一寸の船旅で皆無口になっていた。その人達は、黙々と洗顔作業を終えると機械的に次々と人が入れ替わった。私の順番になって、私は、鏡の中に映った自分の姿をまじまじと覗き込んだ。涙が流れた跡は無かったが、瞼の周りに酷く目脂がこびり付いていた。歯を磨くより何より、それを丁寧に水で洗い落とした。
  席に戻ると、みゆきは鞄を開いて荷物の整理をしていた。彼女は、私に気付くとその手を止めて「早いのですね」と、声を掛けて来た。その表情は、普通の女性だった。昨夜、みゆき自身が言った、『気の狂った』痕跡は微塵も見当たらなかった。さっきまで残っていた、頬の涙の跡さえ奇麗に拭い去られていた。
「船が揺れて、寝たんだかどうだか分からない内に、電気を点けられたもんですから、強制的に起こされた感じですね」
  私は、思いっきり背伸びをした。そして、頭を左右に振って、首の骨をぼきぼき鳴らした。
「私も同じです。船の揺れって辛いですね。中々寝付けなくて」
  函館の港に入港間近の為か、激しい揺れは峠を超えていたが、それでも、偶に下から突き上げる様なうねりが船体を揺さぶった。
「船の揺れって、不意に来ますからね。予想が出来やしない。それに比べて列車のあのごとごとって小刻みな揺れなら、何だか安心してぐっすり眠れるんですがね」
「そうそう、私なんか、高校生の時、良く電車で寝過ごしてましたから。目を覚ましたら、終点だったなんてしょっちゅうやってました」
  みゆきの言葉に、私は思わず笑い出した。
「でも、この船に乗らないと、北海道に来たって気がしないんですよね」
「苦労して、渡るからかしら」
「苦労してって言うか……、津軽海峡が有りますから、北海道に渡るには。海を渡るには、船に乗らざるをえないでしょう。だからなのかも知れません。凪で空いている時は結構快適なんですがね、この船も。青函トンネルが出来てしまったら、無くなってしまいますが」
  連絡船の批判とも弁護とも付かない会話を交わしていると、船室の中は、辺りの物を整理して席を立つ人達で段々賑やかになっていた。
「顔を洗うなら、早くした方が良いですよ。男の洗面所は、随分込んでましたから」
  私の忠告に、みゆきは慌てて席を立った。
  みゆきが、奇麗に身支度を済ませて帰って来ると、連絡船は、長い汽笛を何度か鳴らして速度を落とした。そして、それに答える様に一段階高いトーンの汽笛が数回聞こえた。私は、その汽笛に急き立てられる様に、みゆきに荷物を纏めさせて席を立った。間もなくして、緩やかな衝撃と共に、船は動きを失った。桟橋が船に着くと、私達は、乗客達に外へと押し出された。船は、定刻通り早朝の函館へ到着した。
  二人は、気だるい体を人の流れに任せて、駅舎へ通じる長い通路を歩いていた。通路の窓からは、まだ日の明けない真っ暗な空の下に、真っ白な水銀灯の強い明りが板ガラスに際立って映った。そして、その下にぼやっと浮き出る様に長いプラットホームや引込線に何両も連なった貨車や客車が見えていた。けれども、水銀灯の光がかなり強いにも関わらず、外の光景を映し出す視野が随分狭く感じた。少しでも離れると、物の影が、真っ暗な闇に同化していた。何故なんだろうと、眠気でぼんやりした頭で考えていると、「函館も、雪なんだ」と、誰かが何処かで呟いた。その時、私は、やっと北海道の地面を踏んだ実感が湧いていた。過去にも、この函館駅から更に北へ向かって旅立ったが、この地を踏みこの雰囲気に包まれると同じ感情が湧いて来るのだった。この窓から、どんな光景が映し出されていたとしても。
  薄暗い通路を抜けて改札口を出ると、広々とした眩しい空間が目の前に広がった。二人はその真ん中に立ち止まると、辺りを見回した。
「随分、賑やかですね」
  みゆきは、足早に私達の前を通り過ぎて行く人達を眺めて驚いていた。早朝の五時前だと言うのに、多くの人達が駅を出入りしていた。
「殆どが、船から下りて来た人達なんでしょうがね」
  その形からして、大抵の人達は、本州から渡って来た旅行者達だった。彼等は、明る過ぎる駅の照明に眉を潜めながら、街の暗闇に消えて行った。
「僕等も、街でも歩いてみますか?」
  私の誘いに、みゆきは頷いた。
  私達は、みゆきの大きな鞄をコインロッカーに押し込むと街の方へ歩き出した。駅前のロータリーから駅舎を見ると、降りしきる雪の所為であれだけ眩しかった駅の明りがぼやけてみえた。ただ、青白く照らし出された函館駅の看板と、その真上にある大きな時計だけがはっきりと輪郭を映し出していた。
  駅から右手に折れて少し歩くと、道沿いにぼんやりと灯りがともっていた。それは、路地の向こうまで立てられたテントの下に幾つも吊るされた、裸の白熱灯の光だった。テントの中では、魚や干物や土産物なんかが奇麗に並べられていて、おばさんや若い男達が、その路地をうろうろしている大勢の観光客相手に威勢良く声を掛けていた。お客達は、それらを冷やかしている者もいれば、大きなお札と品物の入った大きな袋とをやり取りしている者もいた。深々と静まり返った街の中に、この一角だけ生きた活気を感じた。
  私達も、何気なくその人達の世界に足を踏み入れ、粗末な木箱の上に並べられた品物を眺めていた。私にはそれが高い物なのか、安い物なのかさっぱり見当が付かなかった。すると、みゆきは、干物が並べられたテントの下で立ち止まり、あれこれ眺め始めた。
「これってなんですか?」
  みゆきは、魚を細長く切って干した干物を指差して、箱の前に座っているおばさんに訊ねた。
「かあさん、それは、トバって言うの。秋鯵の身の日干しだよ。油が乗って美味しいから食べてごらんよ」
「秋鯵ってどんな魚ですか?」
「なんだべ、かあさん、秋鯵ってさ、鮭のことだよ。内地では、秋鯵っていわねぇか?」
  そのおばさんは笑いながら、私とみゆきに、その干物の切れ端をくれた。
「お酒のつまみに良いよね、あなた」
  私は、おばさんが言った『かあさん』と、みゆきが言った『あなた』に胸が高ぶっていた。含羞むと言うより、驚きの感情の方が大きかった。けれども、みゆきが瞼を悪戯っぽく瞬きさせたのを見た時、何か喋らなければならないのだと悟った。
「何処かの宿で、これをつまみに呑みますか」
  私は、干物を全部口に入れてがりがりとかみ砕いた。
「旦那さん、皮は硬くって食えないんだからね」
  おばさんは、足元に隠して有った小さな箱から干物の切れ端をみゆきに渡した。私が、口の中の物をぺっぺと吐き出すと、みゆきは器用に干物の皮をはいで身だけをくれた。私は、澄ましてそれを受け取ると、再びそれを口の頬張った。
「安くしておくから、買って行きな。かあさん」
「北海道に今着いたばかりだから、お土産には早すぎるのよね」
  みゆきは、そう言いながらも、トバ以外の干物を指差して、値段の交渉を始めた。おばさんは、その度に試食をさせてくれた。
「どれも、日本酒か、焼酎みたいな強いお酒に合いそうね。これをおつまみにしたら、お酒もさぞかしおいしいんでしょうね」
  みゆきは、そう言うと、私に目で合図をした。私は、それにただ黙って頷いた。私は、交渉事には出る幕も無く、二人のやり取りを眺めているだけだった。おばさんが、並べられた値札とは随分違う切りの良い値段を言うと、みゆきは、財布から1枚の札を出し、おばさんから袋を受け取った。そして、おばさんに礼を言うとそのテントから離れた。人気の無い所まで歩いて来ると、みゆきは、口元に手をやってくすくすと笑い始めた。私も思わず吹き出していた。やがて二人とも、声を出して笑っていた。





つづく




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