思いで

その12



  みゆきは、小さく唇を動かした。
「私の所為で……、昔の出来事の所為で、私は、大切な人を何人も失いました。そして私自身、今までの私を失ってしまったのです。……昔の私を失ってしまった、その出来事を語らなければ、あなたに旅に出た理由を説明する事が出来ないのです。でも……」
  みゆきの息使いが、次第に深くなっているのが分かった。深く息を吸ったらゆっくりと吐いて行った。そして、震えながら吐く息と共に絞り出す様に小さな声を出した。
「でも、その出来事を話すと、きっとあなたは、私の事を軽蔑するでしょう。そして、私の前から消えてしまうでしょう。あなたに、旅へ出た理由を問われた時、私は、どうにかなってしまいそうな位辛かった。多分、それを他人に暴露してしまったら、私は……。今まで誰にも話した事がありませんから。恐くて話せなかった。私の大切な人……、母や祖父にさえ、本当の事を話していないのです。でも、私は、あなたになら話せる気がするのです。あなたなら、私の過去をどんな形にせよ受け止めてくれると思うから……」
「君の過去に対して、軽蔑なんてしません。人間生きていれば、色んな生い立ちが有って、それを他人にとやかく言われる事は無いのですから。そして、それを聞いたからといって、君の前から消えてしまう事も有りません。でも、辛いなら、止した方が良い。無理に話す事はないのですよ」
  私は、今更みゆきとは別れられないと言う半ば自己防衛みたいな物が働き、みゆきの言葉を直ぐに遮った。しかし、みゆきは、首を大きく横に振った。
「いいえ、話さなければ……。あなたに申し訳ないですから……」
  みゆきは、はっきりした口調でそう言った。彼女は、真面目だった。誠意を持って私に接していた。けれども、その誠意が彼女自身を苦しめている様だった。 私は、今にも明かされようとしている、みゆき自身の過去の出来事を想像すると、胸の辺りが押し潰されて息をするのも苦しくなった。その苦しみを、みゆきの苦しみに摩り替える様に口を開いた。
「本当に無理に話さなくても良いのですよ……。苦しいでしょう」
  みゆきは、哀しそうな瞳の光を私に向けた。
「……あなたは、とても優しい人ですね」
「……どうして、そう思うのですか?」
「だって、あなた、私と……、この私と一緒に旅をしてくれるなんて……、こんな私とよ」
「それは、僕が誘ったのだから……」
  みゆきは、私の言葉に耳を貸さなかった。
「時々可笑しくなるこの私とよ。それなのにあなた、私の付き合ってくれた。……気の狂ったこんな私に……」
  みゆきは、言葉を詰まらせた。そして、大きなため息を吐くと瞳を閉じた。その瞳からは、幾つもの涙が後から後から流れ出していた。その涙を見た時、私は、頭の中でまとめかけていたみゆきの言葉を遮る次の台詞を心の奥底で見失った。
「そしてさっきは……」
  みゆきは、鳴咽を吐き目頭を押さえた。私は、その隙に、心の奥底に散らばっていた言葉のパズルを何とか頭の中で組み立て直し、みゆきの前に並べた。
「……そんな辛い思いをしてまで、他人の私にあなたの過去を告白する事などないのですよ……。あなたは、真面目な人です。真面目すぎる。その真面目さが、あなたをこんなにまで苦しめているのではないのですか?」
  それでも、みゆきは首を横に振った。
「……あなたになら、話せる気がするのです」
  みゆきは、さっきの言葉を繰り返した。
「でも辛いでしょう。それを話すのは」
  私は、彼女の言葉を打ち消す様に反問した。すると、みゆきは、小さく一つ肯いた。
「だったらおよしなさい。……僕はあなたにとても興味を持っています。それは、興味本位とか、覗き趣味ではなくって、純粋なものだと自負しています。僕は……」
  今度は、私が言葉に詰まった。それ以上言って良いのか悪いのか、自分でもよく分からなかったからであった。けれども、その意識の他の所から再び口を開かせた。
「だから僕は、純粋な気持ちであなたの旅に出た理由を……、あなたの過去を知りたいのです。……、でも、今はそれを話すには早すぎるのではないですか?出会って間もない僕に話すには、あなたも少なからず躊躇しているはずです。幾ら話す気になっていたとしても……。もう一寸経ってから、もう少し楽になってから話しても遅くは無いと思います。まだ旅は長いのですから」
  みゆきは、私の意見を聞いて考え込んでいた。私は、自分で口にした『過去』と言う言葉に、一種の嫌悪感を抱いていた。そして、『純粋』と言う言葉が、果たして自分に使える資格があるのかと疑った。そのもやもやした胸の内を一歩踏込んで体好く整理してしまう事も、または、それらの言葉の意味を何も考えずに頭の中から全て放棄して消し去ってしまう事も出来ず、『過去』と『純粋』と言う言葉の取り扱いに苦しんでいた。すると、もう一人の自分が再び頭を擡げて、『おまえの過ちを何時みゆきの前に暴露するんだ?』と私の耳元で冷淡に囁いた。私は、もう一人の自分に心臓を握り潰されて、冷たい血液を頭の上から爪先まで降り注がれた気がした。血液と言うよりも、毒薬を降り注がれた気がしていた。
「……俺は、何か勘違いをしているのかもしれない」
  私は、心の片隅に浮かんだ言葉を、夢の中で魘されてうわ言でも言っている人の様に呟いていた。すると『勘違い』と言う単語が、私を急に現実の世界へと引き戻した。そして『勘違い』と言う文字の積み木が、みゆきの前で偽善を振る舞っている私の心の上に何段も重ねられて行った。けれども、みゆきに対する野心だけは、それが重ならない様に奇麗に仕分けされていた。
「勘違い、って?」
「……、君は……、僕を……」
  私は、そこで言葉を止めた。そして、もう一本の缶ビールを鷲掴みにすると、勢い良く蓋を開け、煽るように缶を傾けた。
「私は、あなたを傷つけてしまった」
  みゆきは、不意に真正面から私を見ると静かに囁いた。私は、視線を逸らして、残っていたビールを一気に飲み干し黙っていた。
「……そうでしょう?……幾ら私の気が狂っているからと言っても、酷すぎたわ……、私の無責任な行動で……、私は……、私は……」
  みゆきの言葉を聞いていた私は、空になった缶を思わず握り潰していた。その拳は、小刻みに震えていた。
「もう誰も……、誰も傷つけたくないのに……。私は……」
  みゆきの息使いは、小刻みに震えていた。私は、ポケットに押し込められて曲がってしまった煙草をそのまま咥えて火を付けた。言葉が、煙草の煙の様に、浮かんでは見えなくなった。煙草の灰が、膝の上にぽとりと落ちる様子を黙って見ていた。そして、吸い口の所まで火が来ると、煙草が燃える匂いとは違った煙を出して、赤い火種が白い灰になった。言葉を見つけられない私は、暗い異次元の彼方を見えない一点の光に向かって無闇にさ迷う旅人の様な孤独感を味わっていた。
「……、もう逃げられないのかもしれない……、お互いに……」
  みゆきが、乾いた声でそう呟くと、私の神経は敏感に反応した。
「逃げられないって……?」
「この思いから……、です」
  みゆきの言葉に、私は、はっと胸を打たれた。暗闇の向こうから、不気味な光が斜めに差し込んで来るのが分かった。
「過去からは、逃げられない……。お互いに……」
  私の口から、思わず言葉が漏れていた。みゆきは、大きなため息を吐いた。そして、私をじっと見詰めていた。
「……、寝ますか」
  私は、彼女の視線を振り払う様に言った。みゆきは、大きく肯いた。そして、空缶を二つ手に持って立上がると、それをごみ箱に捨てた。静かなプロムナードデッキに、缶がぶつかり合う音が響いた。
「旅に出た理由は、きっと話します。きっと、その機会は訪れるはずなのだから……。だから、一人にしないでください。……私を」
  みゆきは、振り向くと私にそう懇願した。私は、直ぐに肯こうとした。けれども、下を向くと不意に涙が零れ落ちそうな気がしたので、みゆきから顔を逸らした。そして、ありったけの気力で、
「ええ、分かっています。……分かっていますよ」
  と、答えると立ち上がりながら、上を向いて大きく鼻を啜った。
  二人は、元の桝席に戻ると、湿った上着を、ロッカーの上に平たく伸ばした。そして、お互いに、「お休みなさい」と、声を掛け合うと、背中合わせに横になった。二人は、それきり黙った。船が軋む不気味な音の中で、みゆきの息使いが耳に入ってきた。私は、背中から伝わって来るみゆきの温もりを、息を殺してじっと伺っていた。けれども、津軽海峡の荒波に飲まれる様に、次第に意識が遠のいて行った。






つづく





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