思いで

その11



  私は、一人になった。火照った体を、牡丹雪が混じった海風にさらしていた。頭の中は、次第に正気を取り戻して行った。更に落ち着きを取り戻した時、今の私の心は、みゆきの長い髪の毛によってその自由を奪われ、身動きが取れなくなっている事に気付いた。けれども、不思議な事に、それに苦痛を覚えるどころか、かえって快く思っていた。まるで、自分の心をみゆきに奪われて行くのを心待ちにしていたかの様だった。それは、自分の意識とは別な自分が、意図的に仕掛けた感情なのかも知れなかった。私は、自分の感情がみゆきの方へと傾いている事をはっきりと認めた。それは、もう後戻りの出来ない感情なのだと、心に言い聞かせていた。
  今の自分の感情を認めた私は、みゆきが私をある誰かと確実に錯覚している事を上手く利用出来ないかと考え始めていた。彼女が、私の事を誰かと勘違いしているのならば、それに乗じて、みゆきが求めているその人を上手く演じ切れば良いと思い始めていた。
  だが、みゆきが私の耳元で囁いた、「マサトシ」と言う名前を思い出した時、果たして彼女が私の事を、「マサトシ」として見られるのか疑問だった。そして、「マサトシ」と言う人物を全く知らない私が、彼の仕草や行動や一挙手一投足を完璧に演じ切る事が果たして出来るのか疑問だった。すると、みゆきを騙そうとしていた、自信が揺らぎ始めた。自信が揺らぐというより、私は全く知らない、けれどもみゆきは身近に知っている、「マサトシ」を演じ切る事など到底出来ないと言う絶望感が、私の前に立ちはだかった。そして、みゆきが正気になった時、彼女は、私の前から、本当に消えてしまうのではないかと恐くなった。私は、ぞっとした。今、一人になって困るのは、みゆきではなく、私なのだった。良心にも似たもう一人の自分が、卑しい野心を抱いていた今までの自分に、物凄い嫌悪感を抱いていた。みゆきは今、何を思っているのか不安になりだした私は、無意識の内に船室の扉の方へと足が向いていた。
  船内は、船体を切り裂く様な風の音と、時折波が砕け散る波の音、そして船体が軋む様な音が、人の動きが途切れて沈黙に包まれた船室の中で、不気味な和音となって響いていた。その不気味な和音は、狭い船室に大勢押し込められている筈の乗客達の気配すら掻き消した。所々照明が落とされて薄暗くなっていたひと気の無いプロムナードデッキの端に置かれたベンチに、みゆきは、一人ぽつんと座っていた。私は、彼女の姿を見つけると、その場に立ち止まった。みゆきは、私を見ると、直ぐに視線を下へ落とした。
「隣に座っていいですか?」
  私が尋ねると、彼女はこくりと肯いた。私は、みゆきの隣に腰を下ろすと、買って来た缶ビールを彼女に差し出した。けれども、彼女は、微かに首を横に振った。私は、彼女の顔をまともに見られずに、黙って缶ビールの蓋を開けた。その液体を口の中へ少し流し込むと、細かい気泡が激しく弾けた。その気泡は、頭の中で浮いては消える細かい粒の様だった。 時間がぴたりと止まってしまった様な雰囲気の中で、何時話を切り出そうかと躊躇していると、みゆきの方から重々しく口を開いた。
「さっきは、御免なさい。……、あんな事をするつもりではなかったのですが」
「いや、僕こそあんな事をしてしまって……。謝らなければいけないのは、僕の方です。本当にすみませんでした」
  私は、半ば自分に言い聞かせる様にそう言った。みゆきは、寂しそうな微笑みを浮かべると、小さくため息を吐いた。私は、次の言葉を口にしようと呼吸を整えた。すると、みゆきの唇も何か言いた気に微かに動いた。お互いの口元に気付いた二人は、見通しの悪い壁の角から出会い頭にぶつかった人の様に驚いた。みゆきは、私の目を見ると、手を翳して私に発言を譲った。私は、暴走しかけている頭の中の分子を足元に叩き落して拾い集めると、言葉を絞り出した。
「あなたは……、あなたは、どうして一人で旅に出たのですか?……良かったら……、その訳を教えてくれませんか?」
「聞いてどうするつもりですか?」
  みゆきは、静かに反問した。
「聞いて、どうするって事も有りませんが……」
「興味が有るのですか?」
「興味って、……そういう言い方をすると何ですが」
  私は、質問の意図を自ら濁してしまった気がした。しかし、その言葉を改める事も出来ずに黙ってしまった。みゆきは、少し考えている様子を見せると囁く様に口を開いた。
「もし、あなたが、興味本意で私の事を詮索しているだけなら、私が旅に出た理由なんか、知らない方が良いかもしれません……。そんな事を聞いた所で、何の徳にもならないのだから……。かえって不快な気持ちになるかもしれません。でも……」
  彼女の肩が、少しずつ震えて行くのが分かった。深い呼吸をゆっくりと何度か繰り返していた。私は、息を呑んでみゆきの言葉を待っていた。
「でも、あなたには、ここまで色々迷惑を掛けましたから、……話さなければいけませんね……。私が旅に出た訳を……」
「君が、僕にそんな義務を感じる必要は無いんです」
  私は、思わずそう口にした。そして、言葉を続けた。
「君の自由意志で、話したければ、話せば良い……。でも、辛かったら、無理に話さなくても良いのですよ。……今の君は、とても苦しそうだもの」
  みゆきは、雪で濡れた髪を両手で抱え込むと俯いた。そして、震えながら息を吐いた。
「……苦しいのです、とても……。どうにかなってしまいそうな位に……。冷たい海の中にこの体を落としてしまった方が、どんなにか楽になるかも知れません……」
  みゆきの言葉に、私は、心の中で身震いし、全身の筋肉が硬直した。次に、どんな言葉が私の前に振って来るのか不安だった。その不安を打ち消す様に、缶ビールを息が続くまで煽った。
「そのビール、良いですか?」
  不意にみゆきが口を利いた。私は、上着のポケットにしまい込んだもう一本の缶ビールを彼女の前に置いた。そして、その奥に仕舞い込まれていた手拭いを手渡した。みゆきは、手拭いを受け取ったが、解けた雪でずぶ濡れになっていた私を見て、心配そうにこう聞いた。
「あなたは?」
「鞄にまだ何本か入っているから大丈夫です」
  私は首を振ってそう答えた。みゆきは、「ありがとう」と、礼を言いうと、上着を拭き始めた。
「濡れた髪だと、風邪ひくよ」
  私の忠告に、みゆきは、小さく微笑んだ。そして、ベンチに置かれた缶ビールを手に取ると、少し首を傾げた。
「こんなに飲めないから……。あなたの良いですか?」
  みゆきは、その缶ビールを私に返した。私は、彼女の言葉に当惑したが、結局飲みかけの缶ビールを差し出した。みゆきは、それに一寸口を付けると大きなため息を漏らした。
「あなたは、どうして旅に出たのですか?」
  みゆきの突然の問いに、私は、直ぐに答えを見出せなかった。
「……、この船が無くなるって云う話ですから……」
  私は、本当の目的を省いていた。自分の過去を捨てに行くなんて、とても言えなかった。第一、自分の過去を、みゆきの前に暴露する勇気も無かった。
「この船は、本当に無くなってしまうのですか?」
「ええ。君は、その事も知らずにここまで来たのですか?」
「良くは、知りませんでした」
  私は、彼女に良い様に逸らかされている気がした。けれども、息を整える様に咳払いをしている彼女は、話題を戻すタイミングを見計らっている様にも思えた。
「私が旅に出た理由は……」
  みゆきは、遠野で見せた、哀しい瞳を私に向けると、息を詰まらせながら話し始めた。私は、黙ってみゆきの様子を見ているしかなかった。
「……、私は、辛い思い出を捨てる為に、旅に出ました。……何処でも良かったのです。過去さえ捨てられる事が出来れば……、楽になれるのですが……」
「過去……、ですか」
  彼女の『過去』と言う言葉を聞いた時、私は、心臓に鋭い刃を突き立てられ胸の中を真っ赤な血で染められた気がした。そして、心の中では、みゆきに対する罪悪感で満たされ始めていた。
『みゆきが、彼女自身の過去を明かしてくれるというのに、おまえは、黙りを決め込むつもりか?みゆきが過去を明かす積もりなのだから、おまえも、おまえ自身の過去をみゆきの前に暴露するべきなのだ。喩えみゆきに軽蔑されて、その結果、別れる事になろうとも』
  もう一人の自分が、そう言って私の心を責め立てた。私は、もう一人の自分を掻き消そうと必死にもがいた。しかし、もがけばもがく程、もう一人の自分は、私の心を更に追い詰めて行くのだった。仕舞いには、今の自分の心の内を全て告白しろと私に迫って来た。






つづく





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