思いで

その10




  二人の間の沈黙を破る様に、船の汽笛が大きく鳴り響いた。辺りは、相当の人でごったがえし、結局は去年の夏以上に混んでいた。私達は、乗船列の前の方だったのでその人垣を一目で見回す事が出来た。その人達は、長い旅路と長い待ち時間の所為でどの顔も疲れきっていた。後ろの方では、酒に酔った男が、大声でわめき散らしていた。私は、疲れているのだろうなと思う反面、苦々しくその男を眺めた。
  間もなくすると、乗船案内の放送が騒々しい待合室を一瞬の内に黙らせた。どうも、臨時の船が急遽出港する事になったらしく、再び待合室をざわつかせた。良い知らせなのかもしれないが、乗船列の何処からとも無く罵声が飛び交い始めた。出札口の駅員が、先発する船の乗船客を別の列に誘導し始めると、元列の後方にいた乗客が食って掛かっていた。
  私は、初手からこの臨時便に乗る気はなかった。その船は貨物船を改造した船だった。それに、黙っていても、ここに居るの半分の人達は、その船に乗ってしまうだろうと考えていた。どうせ最後なのだから、定期便の大きな船に乗りたかった。桟橋が開放されると、案の定、半分以上の人達が臨時便めがけて走って行った。
  臨時便が出港して、第二桟橋が開放されると、今まで並んでいた人達が列を無視して我先に駆け込んで行った。その光景は、理性を失った人達の殺気で恐怖さえ感じた。みゆきは、その異様な雰囲気に言葉を失っていた。船に乗るにはここが勝負だと悟った私は、みゆきの鞄と手をしっかりと握り締めると、みゆきに気合を入れる積もりで声を掛けた。
「行きますよ」
  けれども、みゆきが、その言葉に相づちを打つか打たないかの内に、二人は、乗船客の人波に飲まれて、そのまま出札口へ押し流された。
  人にもみくちゃにされながら、やっとの事で船内に足を踏み入れると、プロムナードデッキに行き場を失った数十人の人の塊が互いにもみ合う様にうろうろしていた。私達は、そこをぬう様にすり抜けると、奥にある普通船室の方向へ進んだ。普通船室の桝席には、かなりの人でごった返していたが、枡席と通路の境に二人が横になれるスペースをみゆきの大きな鞄で確保する事が出来た。
「座席確保には、でかい荷物を持った者勝ちですよ」
  私がそう言うと、みゆきは笑った。
「この鞄も、初めて役に立ちましたね」
「これからこんな場面が幾らでも遭遇しますから、使えますよ。この鞄は」
  私は、自分の鞄から手拭いを探しながら答えた。
「私一人だったら、連絡船には乗れなかったでしょうね」
「まあ、人間なんてのは、いざやばい場面に置かれても、状況に応じて何とでもなりますから、乗れるには乗れると思いますよ。その気になれば」
  私は、口を閉じてから、余計な言葉を言い過ぎた気がしたので、
「でも、女の子一人だと、きついかも知れないね」
  と、付け加えた。
「無理無理、私一人じゃとても」
  みゆきは、笑って手を横に振った。
「私一人なら、青森駅で終わっていたわ」
  そして、手の甲に唇を軽く押し当てて表情を少し曇らせた。
「初めての船旅なのに、こんなんでごめんね。一寸ごたごたして狭いけど」
「あなたに出会えて良かったわ……、本当に」
  みゆきは首を横に振って呟いた。その言葉を聞いた時、私は、その意味を頭の中でぐるぐると考え始めた。けれども、その思考を止める様に、自分では意味を持たない相づちを何度も打った。そして、その思考を畳み掛けるように、
「さて……、僕は、折角だから甲板に出てみます。もし、君一人で動いて僕を見つけられなくっても、ここで待ち合わせましょう。僕もここに戻って来るから」
  と、一気に話した。みゆきは、寂しい笑みを浮かべると小さく一つ肯いた。私は、その思考を捨てに行く様に、元来た人垣の中を分ける様に進んだ。
  甲板に通ずる階段を駆け上がり、強いスプリングの効いた扉を押し開けると、雪が静かな音を立てて降り続いていた。その音は、海の細波の細やかな音に良く似ていて、どちらの囁きだか区別が出来なかった。駅舎の方に広がっている青森の街の明りが、雪で埋もれて行くようだった。海風が、身も心も縛れるくらい寒かった。そんな中でも、かなりの人が甲板に上がっていた。
  船内放送が、間もなく出港する事を告げていた。すると、何処かではちきれんばかりの銅鑼の轟音が鳴り響いた。私は、その大きな音に一瞬身を強ばらせた。すると、銅鑼を持った船員が、甲板中を歩いていた。初めは小さくゆっくり、段々と大きく打ち鳴らされるその銅鑼の音は、出港をする合図と共に、別れを予感させるような響きに聞こえた。
  船内に「蛍の光」のメロディーが流れ出し、静まり返った青森の街に、汽笛の太い音がこだますると、十和田丸の大きな船体がゆっくりと桟橋から離れて行った。乗船客達は、桟橋に残った人達に大きく手を振っていた。けれども、その桟橋も、直ぐに輪郭がぼやけて、待合室の薄暗い明りだけが浮き上がっていた。街の明りも、間もなく雪の中へ埋もれて行った。駅の構内灯の強い光が、船の航跡を映し出し、それが名残を惜しむ様に何時までも見えていた。津軽海峡の方を見ると、そこはまるで未知なる暗黒の世界で、船がそこへ吸い込まれて行く様な恐怖を感じた。しかし、長い汽笛が辺りを切り裂く様に鳴り響いた時、その恐怖は、連絡船に乗れた安堵の念に代わっていた。
  出港して暫くすると、あれだけ騒がしかった乗船客達は、何時の間にか散々になっていた。その代わりに、冬の津軽海峡の荒波が船体に砕け散る音が鳴り響いた。雪が交じった強風が高い煙突を横切り、不気味な悲鳴の様に聞こえた。さすがに夜の冬の海には、恐かった。
  だが私は、まだ船室へ戻る気になれなかった。その恐怖から逃れようと、無闇に辺り中を歩き回った。すると、一台の車もいないがらりとした車両甲板の近くにみゆきが立っているのを見つけた。彼女は、手摺に肘を付き、何も見えなくなった青森の街の方を見つめていた。彼女の上着には、雪がびっしりとこびり付き、長い髪の毛は、吹雪にさらされて、凍り付いていた。
「上がって来ていたんだ」
  私が、何気なく声を掛けると、みゆきは、全身をぴくりと震わせると、私の方へ振り向いた。
「何処へ行っていたの?」
「桟橋が見える所にいましたよ」
  私が指を指して答えると、彼女は手摺に乗せていた手の平を強く握り締めた。そして、大きな瞳で私を見詰めた。その瞳からは、遠野で見せたあの哀しい光が見えていた。私は、その哀しい光から思わず目を逸らした。すると、みゆきの唇が、何か言いたそうに少し震えた。けれども、言葉にならなかった。
「やっと、北海道に渡れますね」
  私は、他愛の無い言葉でその場を躱そうとした。だが、みゆきは何とも答えなかった。そして、彼女の吐いた白い息が私の横を掠めた瞬間、突然私の体を抱き締めた。私は、驚く暇も無く、一瞬にして冷たい鎖に縛り上げられた様に少しも動けなくなっていた。今まで、活発に動いていた筋肉は凝縮し、そこを隈なく流れ続けていた血液もざわざわと言う音を立てて胸の辺りに引いて行くのを感じた。
「もう、何処にも行かないで……、私を一人にしないで……」
  みゆきは、私の耳元で囁いた。
「あの時みたいに……、何処にも行かないで……、私を一人にしないで……」
  彼女の声は、小さく震えていた。触れ合った彼女の肌は、翡翠か水晶玉の様に透き通っていて冷たかった。私の神経は、緊張が極限まで達し、意識が朦朧としていた。頭の中が、真っ白になり、次に取るべき自分の行動が浮かんでこなかった。全ての思考や気力を、みゆきに吸い取られてしまった私は、彼女のなすがままそうしている他無かった。
「……、あの時、何故私を置いて行ったの……、何故」
  みゆきは、詰問すると言うより、何かに脅える様にそう言った。けれども私は、何とも答えられず黙っていた。私は、みゆきが求めている人ではないのだから。どうにかして、その事をみゆきに伝えなければいけないと頭に浮かんだが、気ばかり焦って言葉に出来なかった。
「……、キスして、私の事を愛しているのならば……」
  みゆき言葉に、私の体は、糸で手繰り寄せられる様に彼女の横顔に近づいた。そして、彼女の体の淡い香りを嗅いだ時、媚薬でも嗅いだ様に神経が思考能力を失った。
「もう私を一人にしないで……、お願いだから……」
「君を一人にはしないよ。絶対に」
  自分の声が、確かにそう答えていた。けれども、自分の耳は、その言葉の真意を疑っていた。その時の私の肉体は、他の自分に取って代わられている気がしていた。
「……、本当に?……ああ、良かった。マサトシさんと一緒なら、何処にでも行けるわ。何処にでも……」
  私は、夢の中にでも居るような心地で、みゆきの言葉を聞いていた。ややもすると、交わされた会話の意味さえ良く分からなくなっていた。けれども、みゆきが私の知らない男の人の名前を口にした事を認知した瞬間、頭の中で何かが勢い良くパンッと破裂する音を聞いた。その衝撃で、さっきまで冷たく凍っていた血液が、どっと音を立てて勢い良く流れ始めた。
「夢なら覚めた方が良い……。君の為に」
  私は、無意識の内に、みゆきの耳元でそう囁いていた。その瞬間、みゆきは、我に帰った。そして、強い力で私を突き放すと、振り向きもせず扉の方へ走って行った。私は、二、三歩彼女の後を追いかけたが、直ぐに止めてしまった。






つづく




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