思いで

その9



  窓の向こうに、何本かの線路が並行してゆっくりと流れ始めた頃、車内放送は、北海道へ渡る連絡船の案内をしていた。私は、連絡船と言う単語を聞いた時、嫌が上でも現実に引き戻された気がした。そして連絡船桟橋の光景を想像すると、思わず唇を噛み締めた。
「君は、連絡船に乗るのは初めてですよね」
「ええ、北海道に行くのは初めてですから」
「これから、地獄を見ますよ」
  私が、こうぼやいてもみゆきは、相変わらず平気な顔をしていた。私は、何も知らない彼女を羨ましく思った。列車の速度が落ちて行くに連れ、辺りの乗客達がざわつき始めていた。
  青森駅のプラットホームに降り立った時、私は不図、昨年の夏にこのホームに降り立った時の事を思い出していた。あの時は、丁度ねぶた祭りの期間中で、踊り疲れたはねこ達の祭りの余韻と、彼等が腰にぶら下げていた鈴の音で、街中賑やかだった。だが今は、その面影を伺い知る事は出来なかった。冬の北国は、こんなにも寂しいものなのだと実感した。
  列車から降りた人達は、足早に桟橋へ通じる跨線橋の方へ真っ直ぐ歩いて行った。その人達は、皆無口で雪と寒さに縛られている様に見えた。その情景は、誰かが唄った流行歌の歌詞にとても酷似している様に思えた。降りしきる雪。黙々と桟橋へ向かう人達。この人達は、どんな思いを抱いて連絡船に乗るのだろうか。私は、彼等の表情を観察しながら想像した。そして、観察の対象がみゆきに向けられた時、私は思わず立ち止まり、みゆきの方を振り向かずにはいられなかった。みゆきも、立ち止まって私を見ていた。私は、真正面からみゆきを見た時、胸に込み上げて来るものを感じていた。しかし、それをいざ表に出そうと言葉を模索し始めると、心の何処かでそれを遮る力が働いた。みゆきは、棒立ちになった私の姿を見てきょとんとしていた。
「どうかしましたか?何か忘れ物でも?」
  みゆきの声を聞いて、私は我を取り戻した。
「いや、何でもありません。さあ、急ぎますか」
  私は、頭の中で各々巡っているぎこちない感情から逃げ出す様に、みゆきを急かした。しかし、ずんずん歩き出しても心の内の不透明な不安を振り切る事が出来なかった。
  連絡船の薄暗い待合室は、予想通り大勢の旅人達で犇めき合っていた。
「あなたの言っていた通りですね。こんなに混んでいるとは思っても見なかったわ」
「でも、去年の夏よりは増しですよ。前は、向こうの通路まで人が並んでいましたから」
  私は、今来た通路の方を指差した。それでもみゆきは、人の多さに驚いている様だった。
「この分だと、横にはなれそうだ」
  実際、夏よりはずっと増しだと思った。私は、一つ肩の荷が降りた気がした。
「あなた、やっと優しい顔になりましたね」
「そうですか?でも実際、悩み事が一つ片付いて気が楽になりましたわ。ここに着くまで、実際ここがどんな状況になっているか分からなくって、とても不安だったから。乗れるかどうか心配だったしね」
  私は、古新聞を床の上に敷くと、二人でそこに腰を下ろした。
  行列にうまく紛れ込み、一段落着くと、今度は切符の事が気になり始めた。私は、今日一日限り有効の切符しか持っていなかった。みゆきも偶然にも同じ切符を持っていた。ここから先に進む為には、北海道の周遊券を買わなくてはならなかった。
「周遊券は幾らするのですか?」
  みゆきは、私に大きな札を何枚か渡して来た。
「そんなにしませんよ。これだけ有れば十分です」
  私は、その内の二枚を受け取った。
「学生証、有りますか?」
  私の問いに、彼女は、鞄の中から手帳を取り出した。そしてその間に挟まれた三つ折りの小さな厚紙を手にした。けれども、少し躊躇う様子を見せた。しかし、私が手を伸ばすとそれを私に渡した。私は、それを確かめもせず、直ぐにポケットにしまい込んだ。そして、思い出した様に、
「学割、有りますか?」
  と、訊ねた。するとみゆきは、小さくかぶりを振った。
「いいえ、もっていません」
「どうだろうか……、学生証だけで学割の切符が買えるか、とりあえず聞いてみます」
  私は、彼女に戻した大きな札をもう一枚受け取ると、一人で切符売場へ出かけた。
  連絡船待合室から駅舎に有る切符売場へ行くには、長いプラットホームを通り抜けなければならなかった。既に幾つかの電灯が消されたプラットホームは、薄暗かった。私は、ホームの途中で立ち止まると、胸ポケットから煙草を取り出し火をつけた。人の親指くらいありそうな大きな牡丹雪が、空間という空間を埋め尽くし、誰もいないホームを薄っすらと覆っていく光景をじっと眺めていた。
「俺は、これから一体どうすれば良いのだろう。このままみゆきと一緒に旅をしたら、どうなるのだろう」
  不図、そんな自問が脳裏を掠めた。しかし、何時まで経ってもはっきりとした結論を導き出す事が出来なかった。結論をわざと避けていたのかもしれない。私の心は、何時の間にか積み重ねられた、みゆきへの思いで埋め尽くされていた。それが、私の神経を圧迫し、自分でも可笑しいと思う様な感情を生み出していた。たった一日の時間で、みゆきとの間に色々な出来事が有り過ぎて、自分で自分の心の内が良く分からなくなっていた。一方では、彼女と知り合って、まだ一日も経っていないのに、こんな感情を抱いてしまう自分が滑稽に思えた。かと言って、今更みゆきを突き放す勇気も無かった。私は、自分の心の内に矛盾を感じていた。同時に、ここに居る自分以外の、他の自分に心の内を支配され始めている事に気付いた。みゆきから、必要の無い学生証を借りたのも、もう一人の自分がさせた所策だった。私は、上着のポケットにしまいこんだ小さな厚紙を触っていた。心の中では、それを見るか見ないかで随分葛藤していた。
  もう一人の自分が、今いる自分を捻じ伏せるのにそんなに時間はかからなかった。ポケットに納められた小さな紙切れを取り出すと、表紙の右側に、畏まって写るみゆきの顔写真が貼って有った。指をずらすと、仙台にある国立大学の学校名と所属の医学部と言う文字が目に入った。「みゆき」と言う名前は、本当だった。私よりも、四つは年上であるが、実際の年よりも随分若く感じた。私は、その小さな紙切れを手の平に乗せて眺めていた。そして、三つ折りに畳まれた中の部分を開こうと手を掛けた。けれども、今居る自分がそれを止めた。これ以上、みゆきの事を知ってどうする、そんな思いが、頭の中を過ぎっていった。私は、煙草を線路に投げ捨てると、みゆきの学生証を元有ったポケットにしまい込んだ。そして、駅舎へ通じる階段をじっと見詰めて歩き始めた。虚ろな心を捨て去る様に。
  けれども、私は、一度拘った事を直ぐに断ち切れるほど、さばさばした性格ではなかった。切符を買って、みゆきの元へ戻ると、どうして中身をちゃんと見なかったのだろうと後悔した。
「お疲れ様でした。随分かかりましたね」
「ええ、一寸」
  私は、愛想の無い返事をすると、切符と学生証を渡した。みゆきは、それを受け取ると、私の上着にこびり付いた冷たい雪をほろい落とし始めた。だが私は、黙って突っ立って彼女の様子を見ているだけだった。
「どうしたのですか?また難しい顔をして」
  私は、彼女の問いに何故か虚をつかれた気がした。頭の中ではみゆきに答えられた。けれども、口には出せず、そのまま黙り込んでいた。しかし、彼女は、それ以上私を問質さなかった。そして、再び私の上着に手をやった。
「あなたは、優しい人ですね……。あなたみたいな人が恋人なら、どんなに幸せだろうか……」
  みゆきが、白いハンカチを私に差し出した時、私は無意識の内にこう口にしていた。
「冗談? 本気?」
  彼女は、哀しそうな微笑みを浮かべて私を見た。私の口調は、冗談とも何とも取れる様だった。本気には、違いなかった。けれども、頭が後先の事も考えずに言った言葉だったので、返事のしようが無かった。
「その言葉は、本当に好きな人の前で言った方がいいですよ。相手次第では、その言葉で、悩んで、苦しんで、傷つく人がいるのだから」
  みゆきは、優しい声で私に忠告した。私は、それ以上口を開く勇気を失った。






つづく





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